言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

読解を妨げてゐるもの

2016年06月29日 20時24分49秒 | 日記

 今は、期末試験の真つ最中。本日は私の担当する科目の試験である。題材は中島敦の『山月記』である。

 試験前の最後の授業の折、この小説の主題は何かといふことを「考へ」て書かせた。

 直接的な問ひではなく、なぜ作者は『人虎伝』(中島敦が参照した中国古典籍の名前)ではなく、『山月記』といふ名前にしたのかといふことを通じてである。

 そのことを「考へる」には、どうしても「主題」について「考へ」なければならない。ところが、さうはいかなかつた。300字ほどで書かせたが、多くの解答が「虎になつたことを通じて理不尽な人生を歩むことになり、その孤独を伝へるために対比的に自然の象徴である『山月』を使つた」と答へた。なるほど、一所懸命に「考へ」た様子である。変はらない自然と移ろいやすい人間の生、その対比をとらへたのである。

 しかし、もう一歩深く「考へ」てほしかつた。虎が人になる理不尽さであれば、『人虎伝』でも十分ではないか。『狼男』も『エレファントマン』もある。そこには不条理があつた。李徴自身も虎になつた理由を三つ「考へ」てゐたが、「理不尽」はその内の一つにすぎなかつた。さうであれば、直ちに自分の「考へ」に修正を加へ、残りの二つの理由と題名との整合性を「考へる」といふ方向に行くべきであつた。しかし、さうはいかなかつた。なぜだらうか。

 さういふ疑問をもつて、生徒の書いた文章を讀み返すと、理由のやうなものが見えてきた。それは「李徴=作者」といふ思ひ込みである。これは『山月記』といふ小説に限つたことではない。これまでにもさういふことがしばしばあつた。「文章といふものは、作者が書いたものだ」といふ図式から、「作者が作つた登場人物は作者自身の分身である。特に主人公は作者自身である」といふスキーム(枠組み)を作り出すのはほとんど直線的なのである。生徒たちがあまり小説を読まないからさう考へるのか、あるいは作者=主人公といふ読み方で日常の読書は一向に問題ないからか、そんなことが思ひ浮かんだ。

 もちろん、これまでの国語の授業を通じて、彼らは作者と登場人物とは異なることを聞いてきたはずだ。しかし、「感情移入」して読むことによる心情読解を奨励されてきてしまつた生徒には、「作者=主人公」といふ図式を壊すのは相当に難しいやうである。感情が込められて作られたものには、その作者の感情がしみこんでゐる。だから、こちらの感情を通じて理解される感情は、登場人物のものであると同時に作者の感情であるといふことだ。それでは言葉は符牒に過ぎなくなる。言葉と意味との関係は一体であり、それ以上でも以下でもなくなる。そんな言語観から導かれる読解法なのである。

 「暑くないですか」が気温を表す言葉であると同時に、「エアコンをつけてもいいですか」といふ確認を意味することを理解するには、「暑い」といふ言葉の意味から離れなければならない。それを可能にするのは、「感情移入」ではなく、レトリックの観点である。文脈と言つてもいい。言葉から意味を引き剥がして、もう一度「考へる」といふことが必要なのである。

 あるいは、こんなところに私たちの近代文学の「伝統」たる「私小説」の弊害があるのかもしれない。

 中島敦は、李徴の人物像を造型するにあたつて、自分の心理を深く分析したはずである。あの有名な「臆病な自尊心と壮大な羞恥心」といふねぢれた心理を表現したのは、空想してのことではない。自分の心を一すくひずつ掘り下げながら、書き留めたものである。しかし、さうだとしても李徴=中島敦ではない。敦の中には、袁傪もゐれば妻も子もゐる。だからこそ、小説が書けたのである。作者と登場人物との距離感を理解しながら、読み取るといふ作業は、どうやら難しいことのやうだ。私の反省としては、作者は自分の体験を下に、李徴の精神を分析したといふことを言つたことである。

 この小説を最初に教へた二十年前の生徒には、きつと理解し得た内容であると思ふが、今日ではそれが出来にくい状況である。私の技量の低下を棚に上げて言へば、今どきの生徒たちは、文章を通じて作者と対話するといふよりも、作者はどこか別の場所にゐて、登場人物との会話の世界で楽しむことが読書であると思つてゐるやうである。もちろん、登場人物=作者であるから、作者と話してゐるといふ意識でゐるとは思ふが。しかし、外から見ると、それはテキスト論の位相である。彼らには全く聞いたことも意識したこともない領域である。ところが、そこは紛れもなくテクスト論の場所であらう。テクスト論などは学問の世界ではとうに吹き去つてしまつたのであるが、高校生の読書空間にはそれが残つてゐるのであらうか。柳田國男は蝸牛論で、都から言葉が伝播していく過程を説いたが、同じやうなことが言へるのかもしれない(真面目には「考へ」てゐませんが)。

 

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「考へる」といふこと。

2016年06月29日 08時04分57秒 | 日記

 福田恒存の『論争のすすめ』は、昭和36年刊で、私が生まれる前の本である。この本の変はつたところは、前書きも後書きもなく、それぞれの論文の初出掲載記録もない。ただ寄せ集めて本にしたといふ体裁である。収録した論文の選別にはもちろん福田も関はつたはずだらうが、忙しすぎたのか、編集者とあまり関係がよくなかつたのか、その辺りは不明である(ただ、この本には新潮社の「新潮」編集部の「辣腕家」Q氏といふのが出てきて、その人に向かつて「文藝批評家失格」=「私=福田」にはもう文藝時評を書く資格はない。もし書くなら日本近代文学史を書き直すぐらゐの覚悟が必要だが、それは無理だ。いや文藝時評をこの時代に書く必要はないのではないかといふ文章、を書いてゐる)。

 本書の冒頭にあるのは、「考へるといふ事」である。その中にかうある。

「解決を求めて出口のない迷路を駈けずり廻り、しかも當人だけは出口が見つかつた気でゐる、さういふ影のやうな一生を過すことこそ、自己欺瞞ではないだらうか。さらに、出口のない迷路を駈けずり廻ることのうちに誠実を見出し、そこに悲壮趣味の満足を求めるなら、そのとき自己欺瞞は二重になる。それよりは、まづ解決を目的とせず、解決はないかもしれぬと覚悟しておくなら、少くとも解決はついたとだまされるおそれはないはずである。さうして始めて、私達は人生を「明らめ」ることが出来、、影ではない本當の人生を生きることが出来るのではないか。そのやうに自分の置かれた場を、(中略)そしてさらに大きな社会や自然との関りを、「明らか」に見つめること、それが「考へる」ことなのである。」(漢字は、そのままではありません)

 写してゐて、頭がくらくらした。かういふ文章を写して「解決した」と思つたら、自己欺瞞は三重になつてしまふ。そしてかう書いて満足したら、四重に、・・・・・・無限である。

 それでも「考へる」といふことを解決法を見出すことだと早合点してゐる向きには有効である。現実直視、それが大事であり、「逃げるな」といふことである。「解決などない」と自覚することなしに「解決」はないといふ逆説を、福田はここでも展開してゐる。言葉を使つて自分の精神を何とかコントロールしようとしてゐる。そのアクロバティックを可能にするには、強い支点(今時の言葉なら鍛へられた体幹)が必要なのだらう。

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