言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「しつけ」の難しさ(改訂版)

2016年06月06日 16時30分42秒 | 日記

 読売新聞の6月4日付け、「論点スペシャル」で恵泉女学園大学長の大日向雅美氏と立教大学教授の浅井春夫氏がインタビューに答へてゐた。

 もちろん、話題はあの北海道で起きた七歳児が6日ぶりに保護された事件についてである。父親が「しつけのため」として置き去りにしたことへのものである。

 大日向氏は、「親が冷静さを欠いて激しい行動に出てしまう背景には、周囲から親や子どもに注がれる視線が厳しくなったこともあるのではないか。電車の中で泣く子どもに嫌な顔をされたり、子どもがうるさいからと保育園の建設が近隣住民の反対を受けたりと、子育てを巡る環境は厳しくなっている」と語る。その通りであらう。少子化が問題になり、その対策が急務と言はれながら、子どもが嫌はれてゐるのである。その矛盾に蓋をしたまま、今回のやうな問題が起きると、「行き過ぎたしつけ」と言ひ、出生率が上がらないと「政府の怠慢」と言ひ募る。かういふことをしてゐて矛盾を感じないのが、わがままな現代人の病理である。大人の教育力の低下と子供の被教育力の低下とを視座に置いて考へ出すべき時である。

 さて、もう一人の論者浅井氏は、かう語る。

「これまで、多くの大人が、『しつけ』という言葉で、子どもの意思や命を考えない振る舞いを正当化してきた。大人の論理だけで『しつけ』という言葉を使うのは、もう終わりにすべきだ。」

 まつたくひどいと言ふしかない。かういふ言説が当つてゐる場合もある。しかし、今回の父親の場合が、かういふ指摘を受ける行動であつたかどうか。6日間を生き延びたほどのこの子どもの自意識は相当なもので、浅井氏が想定してゐる「自分で自分の命を守ることができず、親に保護されないと生きていけない存在だ」といふ定義が当てはまるとは思へない。当日にはあの場所にゐたのである。辺りの施設を訪ねて行かなかつたのはなぜだらう。

  私の意見は、もちろんこの児童が助かつたといふ「結果」から見たものではあるが、この父親と息子、あるいは家族の今回の行動が、単純に「子どもの意思や命を考えない振る舞い」として断じていいものかどうかはもつと慎重に吟味すべき事柄ではないか。浅井氏は児童福祉論が専門のやうだ。概論として語るのなら、上の発言も赦されよう。しかし、今回の件は、もう少し丁寧に調べた上で発言すべきである。福祉とは、wellbeingの訳であるが、それを私は「存在への配慮」として理解してゐる。そしてその「存在」は、いつでも「関係」の中にあるのであり、子どもは親との関係で捉へるべき「存在」である。この子に対してしたことを反省すると父親は息子に語つたらしい。それに対して、この男児は「赦す」と答へたと言ふ。私はそれをかしいと思ふ。まづは、「お父さん、ごめんなさい」、それこそが言ふべき言葉である。

 浅井氏に訊きたいのは、かういふ子どもに父親はどう接すべきかである。上のやうな一般論ではなく、もつと具体的で実践的なことを話してほしかつた。児童養護施設指導員として12年間お勤めになつた人ならではの言葉がほしい。

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