言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「芋粥」とさらに深い虚無

2016年06月17日 09時59分29秒 | 日記

 以前紹介した雑誌『新潮45』6月号に、医師の里見清一氏が文章を連載してゐる。「日本のビョーキ」といふタイトルで、今回は、「『目標ロス』とその対策」といふもの。

 目標は、達成した途端に失はれる。しかも、その目標が「大それた望み」であればあるほど、実現したときの喪失感が大きい。私自身が思ひつくだけでも、大学生の5月病(今もあるのかしらん)、さまざまな事業を達成したときの燃え尽き症候群、ソ連崩壊後のロシア人の精神的空白、江戸幕府滅亡後の佐幕派の虚脱感などが挙げられる。といふことは、それだけ「ありふれた出来事」であるとも言へる。

 しかし、その「ビョーキ」は結構深刻なものである。そのためには、新たな目標が必要となるのだが、それをどう立て、そもそも「ビューキ」にならない目標を立てるといふのがコツであるのだが、里見氏は少なくとも今月号では記してゐない。もちろん、それを求めてゐるわけではないが。

 そんな中で思つたのは、芥川龍之介「芋粥」である。里見氏も取り上げてゐた。あらすぢは必要ないとは思ふが、平安朝の時代、名も無き侍が滅多に食べられない芋粥を、腹いつぱいになるまで食べたいといふ欲望を抱き、それを知つたお役人が彼の夢を叶へてあげたといふ話である。風采の上がらない冴えない男の夢は芋粥を飽きるまで食べたいといふことであつた。もちろん、それは「大それた望み」である。裕福な人から見れば、じつにちつぽけな望みである。しかし、この男にとつては叶ふことは無いとさへ思へる望みであつた。それが叶つてしまつた。しかし、この喪失感は、単なる虚脱感ではないだらう。自分で努力したわけでもなく、手応へを一切感じたわけでもなく、周囲から馬鹿にされ施しを受ける形で自分の欲望を叶へられてしまつたのである。すべては眼の前で映像が映し出されるやうにして実現してしまふ。欲望を抱いてゐた時に感じるわづかな喜びを奪はれたまま、欲望の実現を見せ付けられる。「さあこれが君のお望みだらう」と言はれるのである。

 それは、喪失感や虚脱感でもない。より一層の虚無感であらう。芥川でなければ書けない作品である。書かれたのが大正5年。作家として活動をし始めた直後である。作家といふ生き方が、芥川にとつて「大それた望み」であつたかどうかは、私には分からないが、活動の初期においてすでにかういふ作風を得てゐるといふのは、驚きである。

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