今から8年前の2011年の2月に、次のやうな文章を書いた。時事評論石川に掲載していただいたが、その感慨は一層深い。何もかも結論が出ずに、消しゴムで字を書いてゐるやうな時代である。しかし、それはいつしか訪れるだらう本物の時代が来るまでは仕方なく過ごさねばならない時代である。私たちの責任のすべてはそこにある。保守にしても守るべきものがすでにない。革新にしても改めるべきものがない。何もかもが「人ぞれぞれ」の時代には、共有すべきものが見つからない。壊してしまつたのだから仕方ない。しかも、その破壊は「創造的破壊」などとうそぶいて行はれ、破壊してゐる意識すらもない。壊された時代に出来ることは、ひたすら「待つ」ことだけである。
「いつまで待てるかな」
「待つ」しかないではないか――代用の近代の終り
文藝批評家 前田嘉則
この十年の間に總理大臣が八人誕生してゐる。小泉純一郎氏の五年半の在任期間を除けばその他の首相は一年にも滿たず、いかにも短い。しかもいづれも自滅型。現首相などは、言ふに事缺いて「これまでは假免許」などと言ふ始末で、まつたく政策に「疎い」のだから早晩自滅する。
かうして見ると、確かに近年の政治家の不手際や稚拙さは疑へない。しかしながら、さうした政治家の不手際を承知の上で、私たちの輕信や短慮も省みる必要は大いにある。議員を選んだのは我我であるといふ民主主義の第一義を思ひ出せといふのではなく、他人任せの言動が習性になつてゐては、政治家をとやかく言へる筋合ひではないといふことである。かういふ愚行を繰り返してゐるうちにとんでもないことが起きるといふのが歴史の教へるところではないか。
時の訪れを待つ林達夫と太宰治
かつて林達夫は眞珠灣攻撃を前にした昭和十五年に『歴史の暮方』を書いた。日本の戰勝が傳へられ國民の意識が對米參戰へと昂揚していく時代、それは言つて良ければ多くの人人にとつて「歴史の明方」に思へた時期に書かれたものであつた。林はかう記してゐる。
絶望の唄を歌ふのはまだ早い、と人は言ふかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さへ認めることができないでゐる。だれのために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさつぱりわからなくなつてしまつてゐるのだ。
もちろん、林の慨歎は今とは逆である。人人は希望に溢れて浮かれてゐた時に彼はそれを憂いたといふことである。かうした感慨は或る種の知識人の中にも共有されてゐるものでもあつて、太宰治は同じ年の小説「鴎」にかう書いてゐる。
「待つ」といふ言葉が、いきなり特筆大書で、額に光つた。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。唖の鴎は、沖をさまよひ、さう思ひつつ、けれども無言で、さまよひつづける。
聲の出ない、いや出せない鴎に太宰は自分を見、時代に流されて生きていかざるをえない自身の荒廢の姿を見てゐる。それほどに浮かれた世相を訝しむのであらうか。そこには戰後の作品に露骨に出てくるやうなあのデカダンスは現はれずに、時を「待つ」ことに救ひを見出さうとしてゐるかのやうである。この鴎のなんと健氣なことか。
二年後の昭和十七年には、その名も「待つ」といふ掌篇小説を太宰は書いてゐる。主人公の「私」にかう語らせてゐる。
一體、私は、誰を待つてゐるのだらう。はつきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしてゐる。けれども、私は待つてゐる。
林にしても太宰にしても、眼前の世相を越えて次の世界を見つめてゐた。林の方が絶望は深く、太宰にはわづかな期待があつたのかも知れぬ。あるいはそれが、思想家と小説家との資質の違ひかも知れぬ。ただ一つ注意しなければならないのは、戰前の社會は決して今日の我我が思ふほど暗黒な社會ではなかつたといふことだ。時は對米戰が始まる意氣揚揚とした時代である。昭和十五年は紀元二千六百年。國民は御祭りムードであつたといふのは端的な例である。彼等は「歴史の明方」を見たのである。しかし、林は「歴史の暮方」を見、先のところに續けてかう記してゐる。
流れに抗して、溺れ死することに覺悟をひそかにきめてゐるのである。(中略)選良も信じなければ、多數者も信じない。みんなどうかしてゐるのだ。(あるいはこちらがどうかしてゐるのかも知れない。)こんなに頼りにならぬ人間ばかりだとは思つてゐなかつた。
「選良」とは代議士のことである。流れる世相は「選ばれし優れた人人」や「みんな」を撒き込み溺死させる。頼りになる人間は誰もゐない。どうして流れに抗する人は誰もゐないのか、慨歎と無力とを感じながら、ただ現實をよく見て考へよと叫んでゐるやうだ。だから「要望と現實とをすりかへてはならない。無いものはあくまでも無いのだし、缺けてゐるものはあくまでも缺けてゐるのだ。率直に先づそれを凝視することから始めるべきだ。冷酷無慙に」と言へたのだ。
絶望氣取りの「お調子者」
では、現在はどうか。安直な「絶望の唄」ばかりが巷に聞かれ、思想家や選良は格差や貧困を取り上げ、同情と慰めとをテーマに書き上げてゐる。「無いものはあくまでも無いのだし、缺けてゐるものはあくまでも缺けてゐる」と「冷酷無慙に」言ふ者はゐない。
大學生の就職率が低いことを稱して「超氷河期」などと叫ぶが、絶望氣取りとしか聞えない。彼等の就職率の低さの要因はマッチングの問題がほとんどで、高望みさへしなければ就職先はいくらでもある。愛社精神のかけらもないやうな大學生が大企業の安定性(それもどこまで保證されるか不透明な時代であるにもかかはらずに)だけを求めて、ひたすらそこからの内定をもらふために奔走する構圖は、喜劇のそれである。その上親が一緒になつて「絶望の唄」を歌ふといふのであれば、それは場面を盛上げるBGMにしか聞えない。學生時代はさんざカラオケで馬鹿騷ぎをしてゐて、それで就職がうまくいかなければ時代を憂ふ、そんな人間こそが氷河である。就職に至らない原因を内省する、それこそが氷河を解かす早道であらう。
生命を捨てるといふことは人人が想像するほどそんなに苦痛ではないが、生死の苦勞を重ねるといふことは持續的な緊張ゆゑに生易しいわざではない。我我は後者の點で未だ深刻な試煉を經てゐない國民であることを遺憾ながら認めねばならぬ。逆境に入つて取り亂すものは、要するにお調子者に外ならない。我我はそのお調子者だつたのであらうか。
この「新スコラ時代」を林が書いたのがやはり昭和十五年である。その後敗戰があり、占領時代へと續くのであるが、林は「未だ深刻な試煉を經てゐない國民である」との認識を變へてゐない。そして私は今もさうだと思ふ。敗戰が終戰に言ひ換へられ、押付け憲法が押戴き憲法になつてしまひ、國語を表音化し、人間關係を平板化し、國旗を掲げずガムを噛みながら國歌を聽いて平氣な國民が、自分の自分だけの未來に暗雲がたちこめると途端に大聲で「絶望の唄を歌ふ」といふのはその證據である。「いつまで經つても歴史の夜明けが來ない」と明るい電燈の下で嘆いてゐる。電燈がやや暗くなつてきて「取り亂し」てゐる姿は「お調子者」そのものである。
他人任せの似非近代との決別
さうであれば、今は「待つ」しかないのだ。自由でも民主主義でも何でもいい、私たちが近代の中で作り上げたものが代用品でしかないといふことを自覺して、叮嚀に誠實に作り直すといふ手順を辿る以外にはない。自分の心根を振り返つてどうだらうか。例へば、自由といふ言葉を考へてみればいい。他人に取り入らうとする心根との決別なしには自由の確立など起き得ないとは思はぬだらうか。始まりはそこからである。その上で他者への期待はすべきだ。
政治家に對して期待するのは、國民を恐れるなといふことである。「民はこれを由らしむべくして知らしむべからず」と「論語」が言ふのは、國民に眞實を知らせることは難しいのだから、默つて從はせればよいといふことであつて、それを斷行する氣概こそが必要なのである。
誰も彼もが他人任せの批評家氣取りになつてしまつた。そこには左右の別なく、現代日本人の作法なのである。しかし、もうこの作法ではやつてはいけない。精神の構へこそが必要なのだ。その心構へが生れるのに時間がかかるといふのであれば、それは待つしかないではないか。いやもう待ち續けたではないか、いい加減にしろ、トンネルはまだ拔けないのかとの聲も聞える。しかし、それが出來てゐない以上待つしかないではないか。見渡してどこに信頼に足る人がゐるか、いやその前に信頼に足る自分になつてゐるか。なつてゐないのであれば、それを實現することは、それだけで十分に一大事業である。時間をかけるしかあるまい。