みたび『バッシング論』を引く。
先崎氏は、小川榮太郎氏の文章についてかう書く。
「文章には、全く『他者』が存在しない」「小川氏は論争しているつもりで、言葉を書きなぐったのかもしれない。しかしこれは論争でもなんでもない。」「自己の意見を相手に『説得』するための技量がありません。怒りを叩き付け、自分の感情を赤裸々に曝けだしているだけです。これでは文章の内容を読み込む前に、聞き手は文体から響いてくる罵声にまず驚かされ、暴力性に耳を塞いでしまうのではないですか。相手にたいする否定という病しか、聴き取れないからです。」
「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気が、日本全体を雨雲のように覆いつくしている」と見る先崎氏の目に映る小川氏の論文は、その典型なのであらう。私は、当の小川氏の文章を読んでゐないから、その当否は言へない。しかし、その言葉が一定の支持を得てゐるといふことが持つ日本の雰囲気については考へたい。
つまり、他者を否定することで自分の不快な気分を解決し、溜飲をさげるといふ雰囲気が蔓延してゐるといふことである。先崎氏は、言はないが、もし小川氏がその雰囲気を打ち払ふために、あへてその相手の手法に則つた文体を用ゐたのだとしたら、どうなのだらうか。そこまで先崎氏の筆が触れて、その当否を問ふのであればより収穫の多い指摘になつたであらう。それを言はずに小川氏の「罵声」や「暴力性」を批判すれば、先崎氏の文章にも「全く『他者』が存在しない」ことになつてしまはないだらうか。
何度も言ふが、私はこの「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気」が問題であると思つてゐる。それを「バッシング」といふのであれば、それを論ふ意味はある。ただ、先崎氏の文体にはどこか他人事のやうな感じがして温もりを感じない。自身の血が流れてゐないからである。具体的に言へば、小川氏に直接論争を挑めばよかつた。それで自分の言論がどの程度通用するのかを試して欲しい。
これで、終はりとする。