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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

三たび『バッシング論』

2021年12月14日 22時02分53秒 | 本と雑誌

 みたび『バッシング論』を引く。

 先崎氏は、小川榮太郎氏の文章についてかう書く。

「文章には、全く『他者』が存在しない」「小川氏は論争しているつもりで、言葉を書きなぐったのかもしれない。しかしこれは論争でもなんでもない。」「自己の意見を相手に『説得』するための技量がありません。怒りを叩き付け、自分の感情を赤裸々に曝けだしているだけです。これでは文章の内容を読み込む前に、聞き手は文体から響いてくる罵声にまず驚かされ、暴力性に耳を塞いでしまうのではないですか。相手にたいする否定という病しか、聴き取れないからです。」

「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気が、日本全体を雨雲のように覆いつくしている」と見る先崎氏の目に映る小川氏の論文は、その典型なのであらう。私は、当の小川氏の文章を読んでゐないから、その当否は言へない。しかし、その言葉が一定の支持を得てゐるといふことが持つ日本の雰囲気については考へたい。

 つまり、他者を否定することで自分の不快な気分を解決し、溜飲をさげるといふ雰囲気が蔓延してゐるといふことである。先崎氏は、言はないが、もし小川氏がその雰囲気を打ち払ふために、あへてその相手の手法に則つた文体を用ゐたのだとしたら、どうなのだらうか。そこまで先崎氏の筆が触れて、その当否を問ふのであればより収穫の多い指摘になつたであらう。それを言はずに小川氏の「罵声」や「暴力性」を批判すれば、先崎氏の文章にも「全く『他者』が存在しない」ことになつてしまはないだらうか。

 何度も言ふが、私はこの「他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気」が問題であると思つてゐる。それを「バッシング」といふのであれば、それを論ふ意味はある。ただ、先崎氏の文体にはどこか他人事のやうな感じがして温もりを感じない。自身の血が流れてゐないからである。具体的に言へば、小川氏に直接論争を挑めばよかつた。それで自分の言論がどの程度通用するのかを試して欲しい。

 これで、終はりとする。

 

 

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『バッシング論』を読む

2021年12月12日 20時22分17秒 | 本と雑誌

 

 

 先崎彰容氏の旧著であるが、読んでゐなかつたので読んでみた。これに先立つ『違和感の正体』よりは、やや読みにくかつたが、それはたぶん天皇を巡る言説だらう。

 平成の最後に先帝はご高齢を理由に譲位を望まれた。それに対して保守派も革新派も反対し、先崎氏は先帝のお心を無視した「饒舌だが心貧しい」言論であると一蹴する。ここに私は違和感があつた。辞めたければ辞めればいい、それが人間天皇のお気持ちであるとは、結局、日本は天皇の国といふことなのだらう。もちろん、天皇を戴く国であることは間違ひないことではあるが、その在位は生涯であるといふことが否定されれば天皇は職能であるといふことになる。体力的にきついといふのであれば、その職能部分は皇太子に担つていただけばよいのではないか。生きてあることが天皇であることの証しであり、その身体は御霊を受けつぐ御神体である。

 私がこの『バッシング論』に違和感を感じ、その正体を見極めバッシングするのは以上のことである。

 ただ、次の言葉は深く同意する。

「時代全体が屈折した現在では、伸びやかな思考は難しい。結果、他者を否定し、溜飲をさげる雰囲気が、日本全体を雨雲のように覆いつくしている。これをどうにかできないものか」

 あるいは「辞書的基底」といふ造語を使ひ、社会の根底にあるべき価値基準が失はれたことこそ、時代全体の屈折や不安定さを生み出す原因であるといふ分析も鋭いと思ふ。

 しかし、そのことの処方箋のとばくちに「五箇条の御誓文」を置くといふのは、どうにも贔屓の引き倒しの感はぬぐへない。天皇を戴く国の解決にはそれしかないといふ直観なのだらうが、それが「辞書的基底」になり得ると考へてゐるとすれば、その辞書的基底なるものも地割れした現代を接ぐ弥縫策に過ぎないのではないかと感じてしまふ。

 先崎氏の頭にある現代の青年たちは、きつと天皇とのつながりを求めてゐるのであらう。ロマン的な、あまりにロマン的な社会評論である。

 

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白石一文『一瞬の光』を読む

2021年09月14日 21時20分46秒 | 本と雑誌

 

 

 初めて読む作家である。小川榮太郎氏が、Facebookで取り上げてゐたのを読んで興味を持ち、読んでみた。初めは苦手かもなと思つたが、途中から引き込まれた。最後には、読み終はるのが残念でわざと読む速度を落としたが、昨晩はついにその抵抗も効かず、寝る時間が一時間ほど遅れてしまつた。

 38歳の大企業のエリートの男は、最高実力者の派閥に属し、その人の身内同然の立場で社内で振る舞ひ、力を大いに発揮する。今は人事課長になつたその男が、ある日新卒者の面接で訪れた女の子と知り合ふ。その女の子には、どうやら複雑な家族関係が影を差してゐる。そんなところに引かれていく男は、しだいに会社での自分の仕事に違和感を持ち始める。そして、最高実力者であり、自分の後見人でもあつたはずの存在が大きな失態をしでかし、それをごま化すために自分たち「身内」を裏切らうとしてゐることが発覚する。社内の派閥争ひが大きく動き出す。

 企業といふ組織の中で生きる現代人の苦しみやもがき、権力を巡つて言葉の爆弾が飛び交ひ、駆け引きの数々。遠くで見てゐる分には、戦国時代の武将たちの争ひにも似た「ロマン」にも感じるが、同じく企業内で働く身には、あまりにも身近でその発熱が触角を刺戟するので、ただ「楽しめた」とはいかない。途中不快な気分になることも何度かあつた。それでも読み進めたのは、その闘ひに敗れながらも自分の生き方を見出すことを優先した生が描かれてゐたからだらう。それはたいへん強く、鋭利なものであつた。

 引用するのも気が引けるが、同じく最高権力者の「身内」であり、主人公の男の先輩にあたる男が自殺をしてしまつた後で、その男が「事が起きると必ず読み返していた一冊の本」の言葉として、次の言葉が引かれてゐた。

「なにか大事が起きたとき、人は自問自答して、多くの人は”誰かがことにあたるだろう”と考えるが、稀には”なぜ私がことにあたらないでおられよう”と考える人がいる。この両者のあいだに、人類の道徳的進化の全過程がある」

 かういふ言葉を座右の銘として心に留める人を、身の回りで見たことはないが、さういふ言葉を読んで心を痛める存在ではありたいと思ふ。ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』の言葉を私たちは、果たしてどう感じるだらうか。人類の道徳的進化などといふ大柄でそれでゐて深遠な発想を持てるだらうか。そんな深刻な溝も彼我には感じる。

 決断は一瞬だが、そこには光があつてほしい。人生が闇であると思へるものだけが一瞬の決断をできるのであらう。なぜなら、光は闇のなかでしか見えないからである。

 主人公の決断は一般的な成功からは遠いが、光に根差してゐるものだと感じた。

 

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児美川孝一郎『自分のミライの見つけ方』を読む

2021年08月22日 10時53分47秒 | 本と雑誌

 

 そろそろ夏休みも終はるので、仕事のモードの本を読み始めてゐる。

 私は、今の学校でキャリアデザイン部といふところの取りまとめをしてゐる。柄にもないと自分でも思ふ。文学やら思想やらの本を読むことを専らにしながら、仕事では「キャリアデザイン」を生徒に向けてアドバイスするといふのは、違和感もある。

 ところが、この児美川先生の文章を読んでから、その考へが変はつた。氏の『キャリア教育のウソ』は名著である。全国の高校大学の先生方はお読みになられると良い。何が嘘か。就職は自分の夢の実現だといふ常識である。大学や高校の教員自身が、いまの仕事や研究内容を18歳で決めてゐるはずないのに、青年には「なりたい職業は何か」といふことを迫る。その自己欺瞞をやめよといふのである。私は快哉をあげた。まつたくその通りである。「なりたい職業を探す」「就きたい職業を決める」それはいい。しかし、それはあくまでも「仮置き」であるといふことを前提とすべきで、大事なことは「探す」といふことの練習をしませうといふことだ。

 本書でも、「七五三」といふ名称で、中卒高卒大卒生が三年後にどれぐらゐ離職するかといふ統計を示してゐる。実際には高卒が四割、大卒が四割に近い三割ださうだが、それぐらゐ離職するのが現状だ。それは「今の若者は堪え性がないからだ」と非難したくなる人も多いだらうが、果たしてさうだらうか。18歳や22歳で一生を決められるほど、現代社会は安定化してゐるのだらうか。私は保守的な人間だが、こと職業選択については30歳までに決めればいいのではぐらゐに思つてゐる。

「キャリアデザイン」の主語は、各自である。「進路指導」のやうに主語が教員であれば、教員が進路について熟知してゐることが少なくとも前提になければならない。しかし、そんなことはできない。もはや諦めた方がよい。しかも教員といふ職種についた人間は、本当に”就職活動”などしたことあるのだらうか。研究室に入り浸つたり、会社勤めが苦手だつたりするやうな人種がなる職業ではないだらうか。さうであれば、そこはあつさりと諦めて、生徒学生自身が自分で「探す」といふことの知恵と技術とを訓練する機会を提供するだけでよいと思ふ。私たちはそれを「キャリア構想力」と名付けた。

 さて、本書であるが、高校生や大学生向けに書かれたものであるので、さつと2時間ほどあれば読めてしまふ。大人には物足りないが、それは狙ひが違ふのであるから仕方ない。それより読みやすくするための工夫に感動した。さすがた児美川先生である。

 職業選択には、自分軸だけでなく、社会軸といふものも必要だ。そして、本書ではあまり書かれてゐなかつたが、自分の出来ること(能力軸とでも言ふのだらうか)の軸もある。「やりたいこと」「やるべきこと」そして「やれること」の三軸である。「やりたいこと」について、本書では「資源」といふ言葉で新たに説明がされてゐた。ここに「能力軸」が暗示されてもゐるやうだ。「自分は何が好きか、得意か、何をやっているときが面白いか、充実しているか。そうしたことに自覚的になって、コツコツ蓄えていってほしい。すると、いざというときには『やってみよう』と一歩をふみだせるんじゃないだろうか」。

「資源とは、自分の中の小さな感動のこと」とある。これまで、私は中等教育では「やりたくないこと」を見つけようといふ言はば「補集合(ある集合Aが全体集合Uの部分集合であるとき、ある集合を全体集合から除いたあとの集合。)戦略」でキャリアデザインを語つて来た。今後もそれでいいと思つてゐるが、この「資源」といふ言葉を活用して、その「戦略」を補強していかうと思つた。

「やりたいことは何か」の呪縛にとらはれてゐる生徒学生(いやいやその戦略しか知らない教員たちこそ強い呪縛にぐるぐる巻きにされて喜んでゐる!)に、薦めたい書である。

 

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『昔は面白かったな』を読む。

2021年08月21日 13時08分51秒 | 本と雑誌

 

 石原慎太郎と坂本忠雄の対談集。

 雑誌『三田文学』の連載対談を本にまとめたもので、同じ話が何度も出てくるし、特に話題を深めるといふこともなく、新潮社の名編集長と呼ばれた坂本がもつと怜悧な視点で石原に挑むかと思つたがそれもない。文字通り、「昔は面白かつた」と言つてゐるだけだ。もつとも「昔は良かつたな」ではないところがミソ。文壇といふ、私たち一般人にはその名称しか分からない作家たちの社交の場の人間模様を描いてゐて、確かに「面白い」。小林秀雄の水上勉いじめはつとに有名だが、川端康成の三島嫌ひや、大江健三郎の石原称揚は、初めて知つたし、古いところでは、林房雄と高見順が大喧嘩したときに川端の一言で止んだといふのも、文章には現れない作家の表情がある。もちろん、それらは文學の価値とは何の関係もないが。といふことは、これは石原慎太郎の個人的関心事を、かつての担当編集者が聞き出したといふ本である。それはそれでいいのだらう。それ以上でもそれ以下でもない。

 私は、石原の小説を読んでゐないので、坂本の評価についてはなるほどさうかと聞くばかりである。ただ、今後は読んでみたいと思つたのも事実である。『刃鋼』といふ小説は、特に読んでみたいと思つた。森元孝といふ文藝評論家が『石原慎太郎の社会現象学』といふ本を出してゐると言ふ。それも面白さうだ。

 三島由紀夫に対するアンビバレンスも面白かつた。「僕は三島さんが好きだったし、尊敬もしてたけど、自伝の『太陽と鉄』がそうだけど、あまりに自分についての嘘が多くてね」といふ言葉は、石原の三島評の過不足なく評価だらうけれども、三島文学の「豊饒な不毛」について分からないのだと思つた。文学つていふのは不毛でいいのではないか。嘘の多さを言つても、それが豊饒であれば。それよりも嘘が多い上に不毛ばかりの大江健三郎の方が、私には度し難いと思ふ。私の尊敬する文藝評論家の故遠藤浩一は三島由紀夫と福田恆存を並べて論じたが、三島由紀夫と石原慎太郎を論じてもいいかもしれない。「豊饒な不毛と二毛作」つてどうだらうか。

 福田恆存の名が出てきたついでに、福田恆存評についても腐しておく。

 石原は「福田訳のシェークスピアはあんまり魅力ないな」と言ふ(どこがどうなのかを訊きたいけれど)。

 それに対して坂本は「福田さんは人柄がよくて真面目な人でしたが、何か文章が痩せている気がしますね。吉田健一のほうがふわっとして柔らかいと思います」と。「文章が痩せている」の根拠が「ふわっとして柔らか」くないといふのであれば、それは好き好きだらう。それで批評されたらたまらない。吉田健一の文章が「ふわっとして柔らかい」といふのも吉田も嬉しいかどうか。じつに感覚的な評言で、現代文学の先細りも案外かういふところに原因があるのかもしれない。

 それにしても、この本には出てこない作家に、丸谷才一がゐる。石原は吉行淳之介が嫌ひださうだ。それは本人にも直接言つてゐたらしい。しかし、同じく芥川賞の選考委員であつた丸谷については言はない。それから江藤淳については盟友のやうな関係で頻繁に出てきたが、同じ時代の批評家である山崎正和についても何も触れない。丸谷と山崎とを黙殺するといふところに、「文壇」の闇もあるのだらう。文壇がサロン(大人の社交の場)にならずに、仲良しグループでしかないといふのは、作家連中の集まりが子供会でしかないといふことを意味してゐるのではないか。「昔は面白かった」の「面白さ」とはさういふ位相にあつたとすれば残念だ。精神の未熟さが日本近代文学を生み出したのだとすれば、いまのさつぱりとしたサラリーマン作家の作品群の方が青年段階に到達したといふことになるのかもしれないのである。

 それにしても時代の記録としては「面白かったな」。

追記 文藝評論として読んだ時、坂本の重要な指摘は、石原文学にはいつも「死」が隣接してゐるといふことである。それに対して石原は自分は肉体派だからなと応じるのも極めて興味深い解答である。

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