この手の雑誌を手にすることはほとんどない。『諸君!』があつたころは毎号欠かさず見てゐたが、現在では『文藝春秋』も見ない(だいぶ傾向が変はつてしまつた)。今は『正論』『中央公論』『VOICE』ぐらゐ。本屋で見て気になれば購入するといふ程度である。これまでにも何度も書いてきたが、読みたい著述家がほとんどゐないからである。それでもこれらの雑誌が継続してゐるといふことは、読者の私の方が時代とズレてゐるといふことであらう。さういふことも事実としてあるだらう。しかし、その一方で今の著述家言論人で30年後にも読まれる文章を書いてゐる人はどれぐらゐゐるのだらうかといふ疑問もぬぐい切れない。それほどに時評的後付け評論が多いといふのが率直なところである。30年とは言はぬ。一年後にも紙切れになつてしまふ著述言論が多いのではないか。「つぶやき」「100字」で語る時代にあつては、理路整然と時代を超えた人間論に根差した文章は、読まれず書かれず現れずなのである。
となれば、勢ひモラリストの過去の言論に惹かれることになるのは当然なのである。
その代表的な人物が福田恆存である。御子息で明治大学の名誉教授である福田逸氏と『福田恆存全集』の編集担当であつた寺田英視(シメスヘンは示)氏との対談は面白い。近著の『福田恆存の手紙』を話題にして、福田恆存のさまざまな思ひ出を語つてゐる。
寺田氏と福田恆存とのつながりは、全集出版を機に始まつたのではなく、二十代の終はり頃の個人的な「福田さんの話を聞く会」からだと言ふ。それはそれは濃密な時間であつたらうと想像する。先日お会ひした佐藤松男さんからもその頃の福田恆存の様子を合はせると、本当に貴重な月旦が聞けたのであらう。羨ましい。
また、寺田氏によれば、『全集』には書簡集、来簡集は入れないといふのが福田恆存の強い意向だつたといふ。さうであれば、この『福田恆存の手紙』はもし生きてゐれば出なかつたのかもしれない。しかし、死後三十年経ち、「手紙そのものが研究対象にもなるだろう」との逸氏の決断で出されたのである。
この対談自体も貴重な資料になるに違ひない。寺田氏には「福田恆存の思ひ出」をどこかで書いて欲しいと思つてゐる。