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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

丸谷才一の評論2つ 日本近代文学の隘路

2024年12月30日 10時21分57秒 | 評論・評伝
 
 ふと目についた丸谷才一の本『悠々鬱々』を、書棚から取り読んだ。その中の評論2つが印象に残つた。
1 日本文学のなかの世界文学
2 実生活とは何か、実感とはなにか

 載せられた媒体は異なるものの書かれた時期ほぼ同じ。前者が『展望』昭和41年1月号、後者が『群像』昭和41年2月号である。
 したがつて、主旨には通じるものがあつた。
 それは何か。
 日本近代文学が手本としたのは、19世紀ヨーロッパ文学であり、それがゆゑに私小説・自然主義文学こそが「純文学」であるといふ観念を作り出してしまつた。しかし、そもそも19世紀ヨーロッパ文学とはそれ以前の文学への反抗の表象であり、伝統的なヨーロッパの文学においてはむしろ異質なものであつた。それを手本としてしまつた日本の近代文学が生まれながらにして持つてしまつたこの性格は、当然ながら文学を痩せたものにしてしまふこととなつた。それが隘路である。
 もちろん、周辺の日本近代文学などお構ひなしに、欧米文学はなほも進んでいく(つまり遠慮なく文学の伝統への求心と遠心とを自在に活かしていく)。トーマス・マンは『ドクトル・ファウストス』を、ジョイスは『ユリシーズ』を書いたのは、「何よりもまづ伝統尊重的な作風のもの」であることの証であり、その「態度の底には、明らかに、19世紀文学への批判があつた」と丸谷は記してゐる。孤立する19世紀の文学を文学の正統と考へた日本近代文学は、丸谷にとつては排すべきものだつたのである。
 
 また、小林秀雄がトルストイの家出をめぐつて正宗白鳥と論争した時に「思想と実生活」といふ言葉を用ゐたが、それを「生活」と言はずに、なぜ「実生活」といふ言葉を用ゐたのかといふことについて触れた「2」も面白い指摘であつた。実生活とは、real lifeの直訳であるが、それはフランス語やドイツ語では一般的には使はない言葉であると言ふ。19世紀文学を日本近代文学は手本としたが、フランス自然主義を英訳で読んだところに淵源があるらしい。しかし、それは「小説や戯曲のなかで描かれてゐるのとは違ふ、普通の日常生活」といふ意味でのreal lifeを、批評用語として用ゐられた(丸谷は本多秋五を挙げてゐる)とき、「一人前の大人が実社会で苦労する辛い生活」といふ意味に変換されたと見てゐる。そして武者小路のやうな白樺派の文学への批判として「『実生活』をもっていた証拠」(本多『「白樺」派の文学』)といふ言葉を引いてゐる。ここには本多の白樺派作家たちへの「軽蔑の口調」があると丸谷は見てゐる。
 私自身も、自著『文學の救ひ』の帯に「『思想と實生活』このふたつの間に横たはる難問を、現代文學は解決しただらうか」と記したが、その時にかうしたことを意識はしてゐなかつた。しかし、本多が先のやうに揶揄したところで、本多が「実生活」で解決すべき事柄を文学に持ち込んでゐなかつたといふ証拠になる訳も、丸谷が実生活といふ言葉の異質性を突いたところで、丸谷が優れた「思想」を小説に描いてゐたといふ証明にはならない。『「裏声」で歌へ君が代』が20世紀文学に遺るかと言はれれば否と言ふしかあるまい。しかし、それすらも些末なことに過ぎない。もつと大事なのは(唯一大事なことは)、思想は思想、生活は生活といふ二つの次元を生きることができないところに日本近代の貧しさがあるといふことである。生活を文学の質を探る手段とする必要などさらさらないといふことが本質である。丸谷の評論に今日的な価値があるとしても、そのことを言ひ切つてをらず、「実生活尊重」への批判に終はつてゐるばかりである。残念であつた。
 
 
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時事評論石川 2024年12月20日(第848)号

2024年12月26日 18時02分57秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 年の瀬である。仕事納めとなり、やうやく冬休みを迎へた。読みたい本を選別し、ゆつくり本を読んだり映画を観たりしようと思ふ。寒い季節は外に出るのも躊躇されるので、友人や知人に会はうといふ気も年々減退してゐるやうに感じる。これはまずいなとは思ふ。しかし、その一方でさういふ気持ちの変化は自然なことなのだから、その自然に逆らうのもよくないのではと思つてしまふ。
 3面の照屋先生の論考にはたいへん刺戟を受けた。「非近代的なもの」を近代化にとつて「除去されるべき障害物」と見ることは、明らかに「非」である。そのことを何となく感じて「バイデン=ハリス」を拒否したのがアメリカの国民であり、「バイデン=ハリス」的な、非近代的なものに価値を見出せない流れを追つてゐるのが、現代日本の社会の流行であると言ふ。その端的な例が「東京高裁の『同性婚訴訟』判決」である。裁判所が本来判断すべき事柄でないことを「社会的受容は高まっている」との文言は、活動家に「同調し屈したと評するより他はない」としてゐる。この発言は、1面の吉田先生の論考とも重なるもので、令和6(2024)年の最大の「凶事」であらう。
 照屋氏が引用したモンテスキューの次の言葉は、重い。
「儀礼や慣行を無視された時ほど人々が傷つけられることはない」
 アメリカの分断といふことが殊更言はれる。それは「バイデン=ハリス」的言説が「儀礼や慣行を無視」するからであり、それによつて「傷つけられ」た人々がどれだけゐるかといふことの証左である。
 そして、私たちの国において、保守政党である自民党が今年の総選挙で一敗地にまみれた(私にはもう復活はないだらうと思へる)のは、さういふ「傷つけられ」た人の声を彼らが無視したからである。「儀礼や慣行」の大事さを誰がどうやつて守るのか。そのことに心を尽くす人々がこの社会を守つてゐるのである。

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令和六年「腹立ち三大噺」多様性といふ妖怪
    コラムニスト・「救う会宮崎」会長 吉田好克
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コラム 北潮(西尾幹二 追悼)
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「石破おろし」はなぜ起きないのか
   政権投げ出さぬ限り石破首相の下での選挙しかない
    政治評論家 伊藤達美   寺井融
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教育隨想 昭和天皇が育まれた、沖縄と本土の絆(勝)
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トランプ当選は凶事か
   選挙結果は社会の脆弱化止めようとする米国民の意志
    早大名誉教授 照屋佳男
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コラム 眼光
   既存メディアの独り負け(慶)
        
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コラム
  明治元年、水戸にて(紫)
  SNSと主流メディア・その影響力の相違(石壁)
  何のために追悼式を開催するのか?(男性)
  巧言令色とSDGs(梓弓)
           
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『神様のカルテ』を観る

2024年12月20日 18時44分01秒 | 評論・評伝
 
 
 夏川草介の小説をしばらく讀んでゐたが、出世作であるこの小説は未讀のまま時間があつたので、Primevideoで観た。
 最初から最後まで、この作品は櫻井翔であることで味はひが台無しになつてしまつたのではないか、そんな風に思つた。宮崎あおい、池脇千鶴、吉瀬美智子、加賀まりこ、江本明、要潤と周囲の人物は見事であるが、肝心の主役が違ふのだ。
 ではお前なら誰に依頼するかと自問すると、はて、と思つてしまふ。「一止(いちと)」といふ名前の人物は、正しいといふ漢字を連想させるが、それは正しさを主張する前に一度止まるといふ意味にも思はれた。正しさは控へめにといふことでもあらうが、若さに任せない慎重さと、経験不足への謙遜と、それでゐて自分の腕への誇りとを併せ持つ、複雑さがなければならない。それは正義感を表明して少しもたぢろぐことを知らない櫻井翔には期待などできるはずがない。ニュース番組のキャスターが出来る人物は、複雑さは仇になる。
 ちなみに家内は、窪田正孝を挙げてゐたが、「ラジエーションハウス」(診療放射線技師のドラマ)の影響かもしれない。
 私なら、綾野剛、坂口健太郎、中村蒼かな。興行成績はどうなるかを考へたら櫻井翔になつたといふことなのかもしれない。

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時事評論石川 2024年11月20日(第847)号

2024年11月24日 13時03分09秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 やうやく冬らしくなつてきた。総選挙も終はり、いきなり外交の成果を問はれる石破総理だが、やはり厳しい評価をするしかない。彼の人は、もう三十年以上前の「政治制度改革」の嵐が吹き荒れる頃から見てゐるが、論理的に話してゐるやうで、どうも根本的なところで間違つてゐるのではないかといふことを感じてゐた。かつて数学者の藤原正彦が書いてゐたが、論理とはA⇒B⇒C…⇒Nのことを言ふが、最も大事なことは最初にAを選んだことである。したがつて結論Nの成否は、その過程が論理的かどうかといふことよりも、最初にAを選んだことの成否にかかつてゐるといふことだ。
 ではAはどのやうにして選ばれてゐるのだらうか、それがまさに直観である。直感(思ひつき)ではない。直観だ。本質をとらへる眼力である。同じく数学者の岡潔がつとに述べてゐたやうに、情緒の賜物である。そこが貧困で偏りのあるものであれば、論理などといふものは何の効果も挙げはしない。
 論理的思考力といふことがもてはやされてゐるが、私はそこに懐疑的な理由もここにある。そもそも弁護士といふ職業があることも、あるいは冤罪などといふことがあるのも、論理的思考力など「偏見」には敵はないといふことの証左である。

 さて、3面の「選択的夫婦別姓」への疑問はたいへん大事な指摘である。選択的夫婦別姓は、「強制的親子別姓」を意味し、子供は出生時に自ら姓を選ぶことはできないのだから、強制的に父や母の姓とは異なることを求められてゐるといふことである。夫婦の片方が不利益があるのだから、それを改善するために次代の権利を侵害してよいのだといふ主張は、果たして権利を主張したがる「選択的夫婦別姓」論者の理屈に合つてゐるのかどうか。やはり論理は嘘をつく。出発点が間違つてゐるのである。何のことはない。自己の権利拡大は他者の権利侵害に勝るといふ「直感」である。なんと貧困で偏向したものであるか。
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石破茂総理大臣に望む思いーーなぜ拉致被害者を救えないのか
    拓殖大学海外事情研究所教授
    特定失踪者問題調査会代表  荒木和博
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コラム 北潮(田内学『きみのお金は誰のため』)
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躍進! 国民民主党へ期待と注文
   国家主権についても発信せよ
    元民社党広報部長
    NPO法人アジア母子福祉協会理事長   寺井融
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教育隨想  特攻隊の若者が護らうとしたもの(勝)
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国連女子差別撤廃委員会の「外圧」
    選択的夫婦別姓・皇室典範改正勧告に反撃を
    麗澤大学国際問題研究センター客員教授 勝岡寛次
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コラム 眼光
   決められない政治(慶)
        
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コラム
  働いてもらうことも大切(紫)
  北朝鮮のウクライナ派兵・危惧と期待(石壁)
  自民党大敗は石破氏の政治的不誠実が原因だ(男性)
  選挙結果と日本の未来(梓弓)
           
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『語り合いを生む教育実践研究』を読む

2024年11月17日 19時37分53秒 | 評論・評伝
 ここでは、あまり私の本業である「教育」について記すことはない。その理由ははつきりしてゐて、毎日取り組んでゐることについては実践での反省や改善に勝ることはないからである。教育は仕事であり、その効果は毎日の教室でのやり取りで判断されてゐる。うまく行く日も行かない日ももちろんあるが、目指してゐるとこへ向かつて歩いてゐる。学校は年中行事の繰り返しのやうに見えるが、じつは自然の変化と同じで同じことは二度と起きない。同じ文章を、同じ時期に取り上げても、クラスが違へば異なるし、更には私自身の体調も生徒の感情も変数として加はるから、同じことは行ひやうがない。それでもそこにはある種の運動があつてリズムを伴つてゐる。そのリズムが乱れてゐるかどうかに意識は集中してゐる。だから、わざわざ文章にする必要はない。

 とは言へ、学校は個人で営む場所ではない。教員も集団として存在するし、学校もまた社会に位置づけられる。さうであれば、この時代のこの日本社会において、学校や教育がどういふ位相にあるかといふことを俯瞰的にと言ふのか、遠目で見ると言ふのか、さういふ時間も必要になる。そこで、年に一度、「日本教育方法学会」の年次総会に出かけることにしてゐる。
 と言ひながら、今年は北海道大学での開催だつたので行けなかつた。そこで送られて来た「教育方法53」の『語り合いを生む教育実践研究』を読んでみた。
 巻頭の文章が秋田大学名誉教授の阿部昇先生の「授業の劣化と授業研究の崩壊、その原因と再構築の可能性」である。
 凄まじいタイトルである。「授業の劣化」「授業研究の崩壊」を論じつつ、その「原因」も「再構築の可能性」も示されるといふ。
 大変なことであるが、その意識はたぶん日本中で感じてゐる人は少ないのではないか。確かに、大学をはじめ教育機関の「改革」が日々行はれてをり、変化が求められてゐることは事実であらう。しかしながら、「授業の劣化」といふことを学会誌の巻頭論文で書かれるといふ状況に現代日本があるとは思ひも寄らないだらう。
 学力を二層に分け、一つ目を「確かな知識・スキル」、二つ目を「批判的思考力などの一つ目の学力の上層にある学力」としてゐる。しかし、その一層目さへ、今日の学校の授業では格差を縮めてゐないといふ見立てである。
 私の職場においても、それを百パーセント実現してゐるとは言はない。そして「授業の停滞」はある。しかし、それを「劣化」といふからには「かつてはもつと良かつた」といふことを言はなければ恣意的な主張になつてしまふ。率直に言へば、印象論のやうに読めた。
 ただし、「授業研究の崩壊」は思ひ当たる節はある。崩壊といふよりも形骸化といふ方がふさはしい。それはなぜ起きてゐるのか。教育の目的が何なのかが不明だからである。有り体に言へば、有名大学に何人入れるか、運動部で全国的に名を馳せるか、入学者の数を安定させるか以上でも以下でもないからである。もちろん、表では有為な社会人を目指すやうに語るが、その裏では経営が目指されてゐる。当たり前のことではある。しかし、それならばなぜ「学校の存続のために君たちを鍛へる」と言はないのか。その本音と建前の乖離に素知らぬ顔をするから、授業研究などの必要性は無視されるのである。仲間と協働していい授業とは何かを探る中で、日々活力を増していくといふ律動が生まれるはずなのに、学校は組織化し授業もカリキュラムの実践作業となつてしまふ。模擬試験の点数を上げることが目標となれば、授業研究など必要とはされない。「仕方ないからやつてゐます」といふことになるのは理の当然であらう。
 阿部先生の論稿からは随分離れてしまつた。しかし、学校は確かにまずい事態になつてゐる。しかも、それを支へるはずの社会が壊れてゐるのであるから、さう簡単に修繕できるはずもない。
 教育学といふ学問は、学校の現実を正確に捉へることを端緒とすべきと考へる。
 
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