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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

吉田茂、岸信介、そして安倍晋三

2025年03月16日 21時52分29秒 | 評論・評伝
 昨日と今日と、年末に録画してあつたNHKの番組を見た。
「映像の世紀 バタフライエフェクト」シリーズの2本、「吉田茂 占領下のワンマン宰相」と「戦後日本の設計者 3人の宰相」とである。
 後者の3人には安倍晋三は入つてゐない。吉田、岸、そして田中角栄である。安倍晋三は岸邸で遊ぶ子供として登場してゐた。
 吉田は白洲次郎と共に戦後の方向性を決定づけた。経済生活が何より大事であるといふことである。そして、岸はそれに異論をぶつける。真の独立には憲法改正が必要だと主張したのである。こんな戦後史の基礎を今更書くのは、番組を見て現在の宰相との違ひを感じたからだ。今の宰相にはさういふ「やりたいこと」を微塵も感じない。そのことの落差が国力の劣化そのもののやうに思へる。穏やかに沈んでいく。とんでもない時代であるのに、それを感じることなく溶けていく。そのことが加古隆の「パリは燃えているか」の調べによつて心に染み込んできた。
 これ以上適切な時代はない時に生を受けた、日本人離れした強烈な個性を、吉田は外交の術を駆使しながら、時にはマッカーサーを手玉に取つて戦つた。そしてその時、これ以上適切な参謀はゐないといふほどの参謀として白州を抜擢した。これも天が日本を見捨てなかつた証である。
 そして岸もまた、それに劣らず、国民の民意といふ化け物を相手にしながら、次の時代の民意を完全に見通す眼力をもつて戦ひ抜いた。安保条約の改定の自然承認を公邸で待つ姿は、背中に刃物を差し込まれ肉の中から背骨が見えたやうな、日本の命脈を1人で守らうとする姿であつた。国会議事堂を取り囲む群衆を見て、それでも信念を通せる政治家は今の世に果たしてゐるだらうか。

 安倍晋三は、その血を引いてゐた。間もなく3年になる。その死を心から残念に思ふ。文明の衰退の時期に大きな決断を下すことは、吉田や岸の時よりも難しいのであらう。だから慎重にならざるを得なかつた。それは分かる。しかし、かういふ事態になるのであれば、もつと急ぐべきであつたと思ふ。もちろんそれは望蜀の願ひではあるけれども。優柔不断と熟慮とは似て非なるものであらう。
 管、岸田、石破、彼らには全く期待も出来ない。
 今、時代は戦前を迎へてゐる。
 その時代の認識ぐらゐは伝へていきたい。私の出来ることの一つである。

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新保祐司『美か義か 日本人の再興』を読む

2025年03月11日 11時26分09秒 | 評論・評伝
 
 久しぶりに考へながら読む本に出合つた。とは言つても本屋で吟味して手にしたものではない。著者である新保先生からお送りいただいたものである。そして、今じつくりと読み進めてゐる。
 美か義か―—その選択に悩みながら生きてゐるといふ人を日常のなかで見かけることはない。そのほとんどは、損か、得かで生きてゐる人ばかりである。もちろん、私自身もさうであつてはいけないと自戒しつつ生きてゐるつもりではあつても、その実はたから見れば、「お前だつてさうだらう」と言はれるやうな生き方であらう。
 
 「美か義か」この言葉は、内村鑑三の言葉であるやうだ。そして「その選択は人生重大の問題である」と続いてゐると言ふ。さすが『後世への最大遺物』として「高尚なる人生」を生きた鑑三の言葉であるが、その重みを受け止める器が今の時代にはないのではないか。そんな風に思ふ。
「美か義か」などといふ高尚な言葉はストンと抜け落ちていき、せいぜい「知か愚か」が生き方の基準であつて、もつと本音の世界では「損か得か」で生きてゐる、まことに不義なる世界になつてゐる。コストパフォーマンスやらタイムパフォーマンスやらが、生き方の指針になるやうでは、美も義も受け止める心意気がないのはないか。そんな思ひが湧いてくる。
 では、「美か義か」の問は必要ないのか。そんなことはない。その理想を掲げ、その問を自問する人物が一人二人と増えることが肝心なのである。理想は現実とは違ふ。理想が現実化されてゐないことに苦しみ、簡単に世を諦めることこそ、警戒すべき理想主義者の陥穽である。理想を掲げつつ、それを背中に感じながら、視線は現実を見据ゑ、格闘しなければならない。現実と理想の平衡術の訓練こそ、かうした問の果たす役割である。

 かうした本質的な問を世に投げかける書は、聖書でいふ「手紙」である。ローマの属国にあつて、パウロが「異邦人」に宛てた手紙は、現実を見ながらも理想を語つてゐる。その伝にならへば、本書はさながら「敷島の大和人への手紙」である。
 その真意は届く人には届くはずである。幸ひ、新保先生は今も書き続けてゐられる。引き続き届くだらう手紙を、私も読んで読んで考へて読んでいかうと思ふ。
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時事評論石川 2025年2月20日(第849・50)号

2025年02月27日 16時09分00秒 | 評論・評伝
今号の紹介です。
 なんと言つても今月号と来月号で「休刊」といふことを記さずにはゐられない。
 一面左上に掲げられた「編集の方針」には、次のことが書かれてゐる。
  一、 国家目標の実現と確立
  一、 日本の歴史と文化の正しい継承
  一、 21世紀を拓く人間教育への転換
  一、 国際的視野からの正論報道
  一、 地域共同体(コミュニティ)精神の再確認
 「国家目標」といふ言葉自体を取り上げる政治家も総合雑誌も今では見かけないが、思ひ返せば1980年代まで共産主義の脅威が現実的だつた頃には、さういふ言葉が輝きを以て語られてゐた。しかし、「日本の歴史」も「正しい」といふ言葉も、なほかつ「継承すべきもの」として使はれることも、「人間教育」も「正論報道」といふ言葉も白々しく感じられるほど、私たちの生活から失はれてしまつた。コミュニティといふ言葉だけが賑やかに使はれてはゐるが、それは変な枠組みとして日本の社会を縛つてゐるやうにさへ思はれる。
 そんな中で、石川県にかうした編集方針を掲げた言論紙があつたことは、歴史に留めておくべき事柄である。
 休刊直前の今月号に私も書かせていただいた。「時代のきしみ」とは、上のやうな感慨を込めてのものである。
 ご関心がありましたら御購讀ください。 
 1部200圓です。 (いちばん下に、問合はせ先があります。)
            ●   
私の憂国論 三島由紀夫「豊饒の海」の突きつけること
    評論家 三浦小太郎
            ●
コラム 北潮(ベルグソン「思想と動き」)
            ●
時代のきしみ 何をどう考へればよいのか
    文藝評論家 前田嘉則
            ●
教育隨想 選択的夫婦別姓――拙速な導入は戒めよ(勝)
             ●
今村均陸軍大将から学ぶこと
   指揮官はどのように己を成長させていったか
    歴史研究家 岩井秀一郎
            ●
コラム 眼光
   淀んだ負のスパイラル(慶)
        
            ●
コラム
  米国とは何なのか(紫)
  アメリカ社会の変遷と我が国への影響(石壁)
  今年は歴史認識問題の分水嶺となる(男性)
  偽装難民と無法国家(梓弓)
           
  ● 問ひ合せ     電   話 076-264-1119  
         ファックス   076-231-7009
        北国銀行金沢市役所普235247
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「ゆきてかへらぬ」を観る

2025年02月26日 21時54分01秒 | 評論・評伝
 
 
 中原中也 長谷川泰子 小林秀雄
 この三人の物語が映画化されては観ないわけにはいかない。決して評判になるやうな映画でないだらうことは分かつてゐるが、田舎にゐると上演館まで行くのに車で一時間はかかつてしまふとは思はなかつた。
 しかし、見終はつて、いい映画だつたと素直に思へた。景色は昭和の初期を描いてゐるのだが、着る物も家の中の様子もどうにも綺麗すぎるのはたまに傷だが、2025年の現代に何もかもかつての姿を再現する必要もないだらう。それを言ふなら、誰もが現代の美形の役者が演じること自体を否定しなければならなくなつてしまふ。
 詩をつかまうとして生き急ぐ中原中也、そして、言葉が空回りしてゐることにむしろ自負と責任とを感じてゐるやうな小林秀雄、そして二人の友情(愛情にも見える)を引き裂くやうに、情念をまき散らす長谷川泰子。どうしてこの三人が出会つてしまつたのか。そんなことを感じながらも、どうしやうもない愛情の渦のなかに自づから入り込んだ三人であつたらう。
 近くにこんな人間が生身でゐたら、私ならきつと近づくことはしない。しかし、彼らには言葉があるから、そしてそれが残つてゐるから、その言葉を彼らとの間において、防波堤のやうにして私は味はつてゐる。不思議なものだ。言葉とは、普段はその人の思ひや考へを伝へてくれるものであるのに、あまりにもその熱量が大きい場合には、むしろ緩衝材のやうな役目をしてくれる。
 畳の上でもがき苦しむ三人の姿を、私は彼らの言葉を読みながらこれまでもきつと映画のやうに思ひ描いてゐたのであらう。だから、この映画は私にとつては再確認の時間であつた。
 日本の近代に、フランス文学にその生命の息吹を感じ、日本語で象徴主義の詩を書かうとした男と、自分の言葉で文藝評論の道を作り上げようとした男とがゐたこと。そして、どうやらその二人の男を張り合はせるには、女の狂気が必要であつたといふことである。近代がやうやく産み落とされるときには、狂おしい人間の不自然な振る舞ひが必要であつたといふことだ。
 言葉が追ひ付かない。そのもどかしさを残しながら、この映画を讃頌したい。
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理想的な演劇はあるのか

2025年02月16日 11時00分53秒 | 評論・評伝
 
 今年の大学入試も大詰め。2月25日26日の国公立大学の前期試験はその頂点である。そこで毎年この時期は、大学入試の過去問の演習をする。
 先日、京都大学の2023年の国語の問題をやつた。著者は福田恆存で、題材は『藝術とはなにか』である。
 その問三。「そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(三行)

ネットから解答を拾ふ。
演劇が演技を見せるものに留まり、精神の可能性を問いかける観客の主体性を発揮できないならば、演じる側の方がものまねの快感を味わえる分楽しみが大きいから。(75)

演劇で日常生活のものまねを見て楽しみを感じる程度のことであれば、鑑賞に主体性を欠くので、観劇するより、創造する方に主体性を感じ、精神の自由を認めることができるから。(82)

近代劇の観客は、日常を模倣するだけの舞台を見させられる受動的な存在に甘んじるよりも、舞台を作り出す側にまわりこんで、わずかに主体性を補おうとするから。(75)

 私の解答は、今手元にないので、後から張り付けておく。
 本文がないのでわかりにくいと思ふが、「演戯ではなく演技(この「演戯」と「演技」の術語は、福田恆存のキーワードなので、愛読者ならすぐにピンとくる問題。かうした部分を題材に問題を作るとは、京大の先生に福田ファンがゐるのだらうな!)程度の芝居を見るぐらゐなら、下手でも演じた方がよい」といふ主旨の文章についての傍線部説明である。
 上の解答では、私は二番目を採りたい。「創造」「主体性」「精神の自由」の三つが入つてゐるからである。
 傍線部の解釈は、この程度でいいだらう。問題は、その次である。
 授業は滞りなく終はつたところで、質問が出た。「ところで、観客が主体となつて作り上げるやうな活力ある理想的な演劇などといふものは現実にあるのか」といふ問であつた。
「実際の芝居を見たことあるか」といふ問がまづ口から出て来た。
「ある」といふ。
「さうか」「現実にあるかか」「福田恆存の芝居がさういふものであつたかどうか、私も観てゐないので分からない」「たぶん、さういふものではなかつたのではないか。それでもさういふものを目指すことが、いやさういふものがあるといふことを知りながら芝居を作るといふことが大事なのではないか」
 このあといろいろと言ひたくなつたが、言へなかつた。
 理想といふものの必要性。それを言ひたかつた。理想は言はば虚数であつて、それによつて現実を整理したり制御したりする。そこが重要なのだ。福田恆存流に言へば、理想と現実の二元論である。それらは永遠の平行をたどる。無闇に現実を理想に近づけてはいけない。現実を理想で破壊してはいけない。
 しかし、言へなかつた。福田恆存の文章の無力を感じたからである。いや無力なのではなく、福田恆存を読むには、それを読むための土台となるものが既に現代の読者の多くに無くなつてしまつたといふ無力感があつたからである。
 藝術にさへ、理想といふ言葉がなくなり、現実の表現がいつも「表出(expression)」であつて「表象(representation)」でなくなつたといふことである。一回きりのものであり、「再び」は起きないといふことである。たとへば誰かが絵を描くとして、一生に一度だけ絵を描くのであれば、理想など不要である。しかし、画家はなぜデッサンの折に何度も何度も線を引くのであらうか。それは理想の線を求めてゐるからである。一つの動作の繰り返しを動機づける理想があるからである。表現とは本来再表現であつて、理想を意識して何度も表現することである。
 ちなみに言へば、岡本太郎は「藝術は場数だ」と言つた(それを人は「藝術は爆発だ」ととらへたが)。まさに場数が必要なのだ。何度描いても何度書いても何度演じてもそこに「私」がゐるのは、「私」が視線を向けてゐる理想が同じだからである。それは「単」表出ではなく、「再」表出である。
 福田恆存は、その人生を通じてただ一つのことを言ひ続けたやうに思ふ。だからこそ、論じる事柄は違つてゐても、気づかされることが同じなのである。氏が視線を寄せてゐる理想はいつも同じだからである。
『藝術とはなにか』は、確かに理想が勝ち過ぎた文章である。そこに生徒は敏感に反応し、「さういふものが現実にあるのか」と問うたのであらう。さうであれば、京都大学の狙ひは大成功である。若者よ、理想を捨ててはならぬぞ、と。京都大学はさういふ若者を待ち望んでゐる(はずであるとおのづから言ひたくなるやうに思はれるやうな気がする)。

 (私の解答)
近代劇の観客は、役者の迫真の演技を見て感心するのがせいぜいで、精神の運動による創造的な観劇の営みによって真の快楽を得ることはできず、演じることによって少しは主体性を回復できるから。
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