今年の大学入試も大詰め。2月25日26日の国公立大学の前期試験はその頂点である。そこで毎年この時期は、大学入試の過去問の演習をする。
先日、京都大学の2023年の国語の問題をやつた。著者は福田恆存で、題材は『藝術とはなにか』である。
その問三。「そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(三行)
ネットから解答を拾ふ。
演劇が演技を見せるものに留まり、精神の可能性を問いかける観客の主体性を発揮できないならば、演じる側の方がものまねの快感を味わえる分楽しみが大きいから。(75)
演劇で日常生活のものまねを見て楽しみを感じる程度のことであれば、鑑賞に主体性を欠くので、観劇するより、創造する方に主体性を感じ、精神の自由を認めることができるから。(82)
近代劇の観客は、日常を模倣するだけの舞台を見させられる受動的な存在に甘んじるよりも、舞台を作り出す側にまわりこんで、わずかに主体性を補おうとするから。(75)
私の解答は、今手元にないので、後から張り付けておく。
本文がないのでわかりにくいと思ふが、「演戯ではなく演技(この「演戯」と「演技」の術語は、福田恆存のキーワードなので、愛読者ならすぐにピンとくる問題。かうした部分を題材に問題を作るとは、京大の先生に福田ファンがゐるのだらうな!)程度の芝居を見るぐらゐなら、下手でも演じた方がよい」といふ主旨の文章についての傍線部説明である。
上の解答では、私は二番目を採りたい。「創造」「主体性」「精神の自由」の三つが入つてゐるからである。
傍線部の解釈は、この程度でいいだらう。問題は、その次である。
授業は滞りなく終はつたところで、質問が出た。「ところで、観客が主体となつて作り上げるやうな活力ある理想的な演劇などといふものは現実にあるのか」といふ問であつた。
「実際の芝居を見たことあるか」といふ問がまづ口から出て来た。
「ある」といふ。
「さうか」「現実にあるかか」「福田恆存の芝居がさういふものであつたかどうか、私も観てゐないので分からない」「たぶん、さういふものではなかつたのではないか。それでもさういふものを目指すことが、いやさういふものがあるといふことを知りながら芝居を作るといふことが大事なのではないか」
このあといろいろと言ひたくなつたが、言へなかつた。
理想といふものの必要性。それを言ひたかつた。理想は言はば虚数であつて、それによつて現実を整理したり制御したりする。そこが重要なのだ。福田恆存流に言へば、理想と現実の二元論である。それらは永遠の平行をたどる。無闇に現実を理想に近づけてはいけない。現実を理想で破壊してはいけない。
しかし、言へなかつた。福田恆存の文章の無力を感じたからである。いや無力なのではなく、福田恆存を読むには、それを読むための土台となるものが既に現代の読者の多くに無くなつてしまつたといふ無力感があつたからである。
藝術にさへ、理想といふ言葉がなくなり、現実の表現がいつも「表出(expression)」であつて「表象(representation)」でなくなつたといふことである。一回きりのものであり、「再び」は起きないといふことである。たとへば誰かが絵を描くとして、一生に一度だけ絵を描くのであれば、理想など不要である。しかし、画家はなぜデッサンの折に何度も何度も線を引くのであらうか。それは理想の線を求めてゐるからである。一つの動作の繰り返しを動機づける理想があるからである。表現とは本来再表現であつて、理想を意識して何度も表現することである。
ちなみに言へば、岡本太郎は「藝術は場数だ」と言つた(それを人は「藝術は爆発だ」ととらへたが)。まさに場数が必要なのだ。何度描いても何度書いても何度演じてもそこに「私」がゐるのは、「私」が視線を向けてゐる理想が同じだからである。それは「単」表出ではなく、「再」表出である。
福田恆存は、その人生を通じてただ一つのことを言ひ続けたやうに思ふ。だからこそ、論じる事柄は違つてゐても、気づかされることが同じなのである。氏が視線を寄せてゐる理想はいつも同じだからである。
『藝術とはなにか』は、確かに理想が勝ち過ぎた文章である。そこに生徒は敏感に反応し、「さういふものが現実にあるのか」と問うたのであらう。さうであれば、京都大学の狙ひは大成功である。若者よ、理想を捨ててはならぬぞ、と。京都大学はさういふ若者を待ち望んでゐる(はずであるとおのづから言ひたくなるやうに思はれるやうな気がする)。
(私の解答)
近代劇の観客は、役者の迫真の演技を見て感心するのがせいぜいで、精神の運動による創造的な観劇の営みによって真の快楽を得ることはできず、演じることによって少しは主体性を回復できるから。