永室の磯野道子さんが、姑(きよ)さんからのすばらしい聞き語り(村の風俗習慣)を著書『めんめらの生きた道』に書きのこしておられます。
それには、この地域が水で困ったことをも記録されていますので、その部分を二回に分けて掲載させていただきます。
(小見出しをつけています)
雨乞い
「雨ごい たま乞い じゅうごいの(龍ごいの) 雲にしずくも ないかいな」(磯野道子さんが採集された地元に残る雨乞いの歌)
日やけで、ひとっつも雨が降らへん年にな、田植がでけへんいうて雨乞いしてんで。
男の人が、昔の唐傘(からかさ)をさかとんぼに上向けて、そん中へ木でも竹でも、燃えるもんいっぱい入れたり、松の枝持ったり、小麦藁を竹の先に括ったりして、長楽寺へ集まってね。
長楽寺でご祈祷してもろてから、蓮池の土手へ出て雨乞いしよったったで。
松の枝や小麦藁持った人は、松明みたいに火付けて、それ振りまわしながら歌うとて土手の上を歩いていくね。
唐傘の火も、よう燃えて、火の粉が散ってきれかったで。
「おぱあちゃん蓮池まで見にいたったんか」
「うちは姉さんといっしょに、高まちまで見にいてん」
「高まちまで歌の声も聞こえてくんのか」
「そら天まで聞こえるように、大きな声でいよってのに、高まちの高い田んぼのあで畦)へあがったら、よう見えてよう聞こえたで」
「そえで雨が降ってったんか」
「さあ、雨乞いしたら、じっきに降ったんか、どないやったかわっせてもたけど、火イ燃やしたら、よう雨が降るねで」
戦時中まで続いた雨乞い
私は実際に雨乞いに参加した人をたずねて、その時のようすを聞いてみた。
「水が足らんいうて、毎年のように雨乞いしよりましたで。
火をようけ燃やしたら、空気がうすなるさけん雲を呼んで雨が降るいうのは道理だっしゃろな。
雨乞いしたらやっぱり雨が降りましたで」
その後、こどもの頃に雨乞いを見たという数人の人に出会ったが、昭和の戦時中までは水が足りなくて、農家は水の苦労が絶えなかったらしい。
「それでも爾が降らへんのはどこの村も同じことで、蓮池の土手で雨乞いしよる時には、西牧も、西中も原の大池でも、どこの村でも、赤い火燃やして廻り夜のが見えよりましたで。
成井の村かしらんけど、高御位の上へ松明持ってあがりよんのも、見えよりましたで」
「どの村も雨乞いしよったけど、一番水に困っとったんは、永室やろな」(つづく)
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