加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名
万治四年(1661)、開拓が認められた時、 才兵衛は「才兵衛の祖先よりの苗字・加古から“加古新村”と名づけたい」と申し出ました。
しかし、「苗字を村名にすることはできない」と認められませんでした。
そこで、才兵衛は、新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけることを許された。
加古新村、沢才兵衛の誕生です。
才兵衛・治兵衛・喜平次は、加古新村の「頭百姓(とうびゃくしょう)」として新村に居住しました。
開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。
姫路藩は、この新村の開発を進めるために援助をおしみませんでした。
新田村の池溝普請の人夫として10.217人を動員し、これを完成させました。
そして、この時人夫一人一日に7合5勺宛を支給した。これにより加古大池の基が作られた。
加古大池については、次号で調べることにします。
*写真は、加古の八幡神社
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