加古大池
これは、あまり他に例をみません。
というのは、新しい村をつくるということは、池などを造り、まず水の確保がされなければなりません。
新しく池などを造ると、既にある近隣の村では流れてくる水が少なくなります。
当然のこととして抗議があります。
加古新田の場合は、加古大池等を造りました。
加古大池の水は、雨水だけでは当然足りません。
草谷川からの水を使うことになります。
草谷川の水は、川郷が水を使わない時期に加古大池に草谷川から水を引くとはいえ、水利権の一部を放棄したことになります。
当然、下流の野村・下村・宗佐・船町・上西条・中西条などの草谷川の川郷からの抗議があるはずです。
加古新村の場合、それがあまりなかったのです。
理由は、何といっても加古新村の開拓が姫路藩の強い支援の下に進められたことです。
藩をバックにした新田開発のため、川郷の農民は表立って反対できなかったのでしょう。
また、新田開発の中心になった才兵衛・喜平次・治兵衛が、同じ川郷の中西条・上西条・下村からの出ていることで、加古新村は川郷の枝村的な性格を持っていたためと考えられます。
用語の整理をしておきます。
◇川郷(かわごう)◇
江戸時代、同じ川筋、あるいは水源を同じくする流れによって池を造り、用水を取る村々
*写真:現在、兵庫県最大の規模を誇る加古大池
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