〈お知らせ〉
明日24日(日)と25日(月)は私用のため、ブログはお休みさせていただきます。都合により、26日(火)もお休みになるかもしれません。ご了解ください。
きょうのブログは、「わたの里通信誌」の続きの予定でしたが内容が途中で、途切れますので、来週になります。
なお、今日の「首都。加古川遷都論」は先に紹介した話題ですが、「播磨の地震」として再掲します。
首都・加古川(幻の遷都論)
大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。
「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つにあげています。
加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということであったようです。
が、その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。
候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられていました。
ソウルを日本の首都に候補に挙げたのは、露骨な中国大陸侵略に備えた遷都論です。
「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。
「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、(大きな)大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。
防空という観点からも理想的である。
商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」
この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。
加古川の地は、他にも平清盛の時、日本の首都の候補にあがったことがあります。(no3194)
*写真:関東大震災直後の東京