ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨の地震(5)  加古川地方の津波

2016-04-21 11:38:33 | 播磨の地震

          津 波

  東北地方太平洋沖地震では、過去に例をみないマグニチュード(M)9.0の大地震による津波が、東北地方全域を一瞬に飲みこんでしまいました。

 津波の高さは10メートルの堤防を軽々と越えてしまいました。

 津波は10~20メートルとかいわれていますが、被害状況をみているとそんなレベルではないようです。

 リアス式海岸を襲った津波は、せり上がり、50メートルという高さまで到達したところもあったようです。

    加古川地方の津波

 では、加古川地方(瀬戸内地方)は、かつて津波の襲来どのようであったのでしょう。

 瀬戸内海沿岸に来襲した地震津波に関しては、被害が少なかったためか関心も薄く、その実態はほとんど研究されていません。

 それでも、津波に関する古記録がわずかに残されています。

 それらから推測されます。

  宝永地震(宝永四年・1707)による津波

 宝永地震による瀬戸内海沿岸各地の津波は、大阪府で2.5~3㍍で、兵庫県では赤穂で最高の3㍍を記録しています。

 岡山県でも最高3㍍を記録しています。

 広島県では1.2~2㍍と、津波の高さは東高西低の傾向が見られます。

 これらの記録から、加古川地方でも最高3㍍の津波があったのではないかと推測されます。

  安政地震(安政元年・1854)による津波

 安政地震では、大阪府で2.4~3㍍、兵庫県2~3㍍で、神戸では2㍍、赤穂では最高3㍍の津波を記録しています。

 この時は、岡山県では1~2㍍程度の津波でした。

 このような状況から加古川地方の津波は2~2.5㍍程度の津波があったのではないかと想像できます。

 なお、後に紹介する昭和21(1946)の南海地震の津波は0.8~1.2と低い津波でした。

 残された記録等による推測によれば、加古川地方では津波による被害はほとんどなかったようです。

 しかし、次の東海・東南海・南海地震が同時におきるのではないかと危惧されています。

 そうなれば、歴史の記録だけでは安心はできません。(no3191)

 *論文:「瀬戸内海の歴史南海地震の津波について」(山本尚明)参照

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播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412)

2016-04-21 11:16:23 | 播磨の地震

       米田大地震(応永19年・1412)
 中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』に応永19年(1412)11月14日の早朝・米田に大地震があったことを記録しています。
 地震の記事は、次のようです。
 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋(人家)はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
 播磨以外では、さほどのことはなかったようです。
 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。
 この時の米田の地震は、震源地が浅く、今で言う直下型の地震であったようです。

  加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を厚く覆い、地震を引き起こす地下の断層が分からなくなっています。
 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でしょうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害を引き起こすかもしれません。
 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのでしょう。
 歴史か教訓を学んでおく必要がありそうです。

  米田大地震については『室町お坊さん物語(田中貴子著』(写真)をお読みください。

  なお、『鎮僧私聞書』は、応永32年(1525)の加古川大洪水についても記録しています。(no3190)

  *『加古川市史(第二巻)』・『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編さん室)参照

   『室町お坊さん物語(田中貴子著』(講談社現代新書)

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わたの里通信誌(47)  『村明細帳』から見た江戸時代の村々(2)

2016-04-21 08:47:22 | わたの里通信誌

     『村明細帳』から見た江戸時代の村々について(2)  

     上月昭信(東播磨地域史懇話会会長・兵庫県文化財保護指導委員)

 加古郡を見ると、13ケ村のうち12カ村で「男かせき 耕作の外日用かせぎ仕申候 女稼 耕作の外木綿稼仕候」と記されており、印南郡と同様、「木綿稼ぎ」は「女の余業」として記されている。

 また、木綿稼ぎの記載のない「荒井村」では、職業として「陸塩売197人・米麦豆売商人7人・問屋10人・小商人73人・干鰯屋3人」、「村に而浜奉公人男130人、女142人・近村へ一年切奉公に参候者男83人、女29人・明石・兵庫・大坂へ一年切奉公に参候者65人・大坂へ一年切奉公に参候者23人・紀州浜稼に参候者45人・江戸稼に参候者6人・船乗39人・漁師2人」と記されており、陸塩売や村の浜奉公、近村への一年奉公、明石・兵庫・大坂への一年奉公、紀州への浜稼ぎや江戸稼ぎに出かけるなどして生活を支えていたことがわかる。なお、「陸塩売」とはこの地域で生産された塩を奥地に運んで売る商売で、奥地には陸塩商人の歩行荷か馬荷によって運ばれていた。

     姫路藩の綿専売制

 姫路藩は文化5年(1808年)、藩主酒井忠道は藩の債務が73万両に達したため、河合道臣(寸翁)に藩政改革を委任する。河井道臣は姫路藩内の産業の中で特に加古川下流域の「東郷地域」で盛んに行われていた木綿生産に目をつける。

 姫路藩は「木綿専売制」をめざし各地の産地と争いながら江戸の問屋や幕府の役人の了解を得て文政6年(1823年)、「姫路木綿」の江戸での専売権を獲得して木綿専売制を始める。専売制のもと、東郷地域(印南郡と加古郡)の「姫路木綿」は、一定の幅と長さで織られた白木綿で「長束木綿」と呼ばれ江戸で好評を博し売れ行きも順調であった。

 一方、長束問屋として出発した印南郡横大路村の稲岡家は、天保12年(1841年)8月、九兵衛の代に本家である稲岡大蔵家から分家し、以後、長束問屋として成長し、やがて明治期にはタオル製造会社として発展することになる。

 木綿専売制の仕組みを見てみると、東郷地域の各村々では、綿の種を畑に蒔き干鰯などの肥料を与えて栽培し、収穫した綿を自分で綿繰りするか綿繰屋に出し、繊維と種に分離し、種は売り、繊維は糸にして紡ぎ、紡いだ糸で綿布(木綿)を織り、一定の規格に織り上がった木綿を仲買商人が各家庭(織元)を回って買い集め、仲買商人は集めた木綿を木綿問屋に売り、木綿問屋はそれを「江戸積み」として船で江戸に送り、江戸問屋に販売することを基本としていた。     

 しかし、稲岡家などの長束問屋の一部は大坂問屋との関係が深く、旧来からの得意先であった大坂問屋との関係を大切にし、以前と同様、継続して取引をしていたことが記録から知られる。(no3189)  

 *写真:稲岡家分家に関する書類

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