ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨の地震(3) 山崎断層

2016-04-20 11:21:10 | 播磨の地震

  「熊本地震が起きました」というより、現在進行中で、大災害をもたらしています。

 「ひろかずのブログ」では、熊本地震発生以降「播磨の地震」関係の記事へのアクセスが急増しています。

 そのため。今までブログで取り上げた、地震関連のブログを再掲します。

   山 崎 断 層

 兵庫県南部を東西に走る中国自動車道には、福崎から佐用までの間にトンネルがほとんどありません。

 谷がつながる地形が東西に伸びています。その上を中国自動車道が走っています。

 この谷がまさに山崎断層(写真)です。中国自動車道は、山崎断層の真上を走っているのです。

 自動車道の工事の為に山崎断層の地形はかなり損なわれましたが、それでも注意すれば、いたるところに活断層でできた地形を見ることができます。

 山崎断層は大地震のたびにずれ、谷や尾根に特徴的な地形を作ってきました。

 山崎断層は左ずれの断層です。

 写真は、昭和46年の撮影(夢前町四辻付近)です。現在はこの道に沿って中国自動車道が走っています。

 尾根の先端部分をご覧ください。

 尾根の先端部分が左(写真にむかっては右)にずれています。

 山崎断層はおよそ500㍍左にずれています。これらの地形は、「左横ずれ」という水平方向の断層運動でつくられたものです。

 この断層運動はまた,「破砕帯」とよばれる軟弱な岩盤を活断層にそって帯状に発達させました。

 破砕帯は侵食されやすく,それにそって谷がのびたり,谷幅が広がったりするため,直線的に続く起伏の小さな地形をつくります。

 トンネルのない中国自動車道は,まさに山崎断層がつくりだした景観です。

  30年以内に山崎断層でおきる地震の確率:5%?

 「播磨の地震(2)」で紹介した「貞観10年(868)の播磨大地震」は、山崎断層が震源であった可能性が高く,山崎断層の小規模な地震はしばしばおきているものの、その後千年以上、大地震を起こしていないことが注目されています。

 播磨地震から1,100年以上が過ぎた現在、山崎断層西部が近い将来に大地震を起こす可能性は大きいといわれています。
 一方、山崎断層系東部の東端の私たちの地方は、今後30年に山崎断層を震源とする地震(M7.3程度)が発生する確率は5%と予想されています。

 が、現在「予想外」の出来事が多すぎます。(no3188)

 *写真:山崎断層と中国道

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わたの里通信誌(46)  「村明細帳」からみた江戸時代の村々(1)

2016-04-20 09:52:31 | わたの里通信誌

    村明細帳」からみた江戸時代の村々について(1)

                              上月 昭信

  旧印南郡と旧加古郡内には江戸時代の「村明細帳」が各地に残る。この「村明細帳」は、当時の領主が支配下の村々の様子を書かせたもので、その中に農間(農事の間)の余業の記述がみられるものがあり、それを読むことによって江戸時代中期以降の村内の様子をうかがい知ることができる。

 今回、該当地域の「市史」、「町誌」をもとに旧印南郡35ケ村、旧加古郡13ケ村、合計48ケ村の江戸時代の村明細帳にあたり、元文2年(1737年)頃から文政6年(1823年)頃の人々の農間余業を調べてみた。なお、この地域は姫路藩から見て「東の村々」、つまり「東郷地域」と呼ばれていた。

 印南郡で「村明細帳」の残っている村は35ケ村あり、そのうち余業が記されているのは32ケ村で、それらには「男女共夏秋は耕作仕候、春冬は耕作の透に木綿仕渡世送り」、あるいは「男かせき 耕作の外 縄俵等仕申候 女かせぎ 木綿仕候」、「農業の間 男は薪を取り草を刈り縄俵こしらえ、女は木綿を織る」、「土産 木綿仕売申候」と記され、すべての村で木綿の生産が人々の生計を助けていたことがわかる。

 このうち、「加古川村」では「女の木綿かせぎ」の外に「男は小商並往来働仕」とあり、また職種として「毛綿商人12人・綿繰屋26人」など綿に関する職業のほか、「古手商人17人・饅頭屋2人・豆腐屋2人・旅籠屋3人・茶屋3人・渡守6人」などがあり、加古川沿いの村で、なおかつ西国街道沿いの宿場町であった村の性格をよく示した内容となっている。

 海岸近くの「北脇村」では「作間に男 小塩売 女 浜織・木綿稼」の外に「塩売商人70」、「塩浜 釜数4 塩焼4ケ所 塩生産1ケ所年平均1斗6升~2斗入俵3000石程」とあり、作間に木綿稼ぎに加えて塩作りや塩売りで生活が支えられていたことがわかる。

 また、木綿についての記載のない「魚崎村」では「7軒前 塩生産高1軒前1斗8升入4320俵」とあり、すでに池田輝政の許可を得て古式入浜塩田が開発されていたことから、塩の生産によって生活が営まれていたことがわかる。(no3187)

 *写真:上月昭信氏(郷土史家)

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