ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨の地震(6) 「南海地震」・詳細は報道されず

2016-04-22 10:03:47 | 播磨の地震

     「南海地震」・詳細は報道されず

 突然の地震は昭和21年12月21日の早朝に発生し、死者は、1、300人をこえました。

 潮岬の沖合いを震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震です。

 この時期、日本は敗戦により占領されていおり、マスコミの自由な報道も禁止されていました。

 そのためか、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方のようすを次のように伝えています。

 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。・・・」

 この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

 最近、さらに大きな、次の南海地震が近いと、さかんに報道されています。

 要注意です。(no3193)

 

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わたの里通信誌(48)  廃藩置県後、綿作は衰えたが・・・

2016-04-22 09:31:55 | わたの里通信誌

     『村明細帳』から見た江戸時代の村々について(3)  

    上月昭信(東播磨地域史懇話会会長・兵庫県文化財保護指導委員)

   廃藩置県後、綿作は衰えたが・・・

 やがてこのことが、廃藩置県後、姫路藩の保護がなくなり、多くの木綿問屋が衰退するなかで大坂問屋との関係を続けていた稲岡家が発展する要因の一つになる。

 なお、この頃、綿栽培の肥料として干鰯が使われており、稲岡家では購入代金が用意できない百姓には干鰯の代金も貸し付けていたようで綿布の購入時にその代金と清算していたことが稲岡家の「干鰯通」に記されている。

 江戸時代、各村々の働きの中心は米作りであったが余業も大切な稼業であった。

 「村明細帳」を通じてわかることは、江戸時代の中期から後期にかけて印南郡と加古郡の人々は自分達の住んでいる環境や立地、自然にうまく順応して暮らしを立てていたことである。例えば、海辺の村であれば塩田を利用して塩の生産と陸塩売を行い、街道沿いの宿場町で加古川沿いの村では小商や往来働き、旅籠屋、茶屋、渡守、また、人々が集まることから古手商人・饅頭屋・豆腐屋、毛綿商人、綿繰屋などの職業があったことが知られる。また、それらとは無縁の志方などの純農村では、「農業の間、男は薪を取り、草を刈り、女は木綿を織る」とあり、村によっては「塩俵」や「縄俵」を拵えていたことが知られる。

 いずれにしても江戸時代、旧印南郡と加古郡の村々に暮らした人々にとって木綿は大切な収入源で人々の生活を支えていたのである。

 ※「村明細帳」の記述のうち加古川市域のものは「加古川市史第5巻」加古川市1987年、高砂市域のものは「高砂市史第5巻」高砂市2005年、播磨町域のものは「阿閇の里」播磨町1982年、稲美町域のものは「稲美町史」稲美町1982年によった。(no3192)  

 *写真:稲岡家の干鰯通

 

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