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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町探訪:別府川・別府川防潮水門

2009-02-14 12:15:11 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_025 ◇別府川◇

 ここしばらくは『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)を参照に別府町の探訪をしている。

 今日の「別府川・別府川防潮水門(写真)」も、『手枕』の記事の一部をお借りした。

 『手枕』では、「別府町は、標高五㍍で、この地を流れる別府川は北在家、野口町長砂地域の多くの水路を集めて約四キロ㍍ほど南東に向かって流れ、別府と西脇の間で播磨灘に注いでいる・・・・」と別府川を紹介している。

 現在、別府川は加古川町大野の北で曇川と結ぶ延長工事が進められている。

 JR日岡駅のところまで完成している。

 あと少しを残して、用地買収や行革のために完成は大幅に遅れている。

 完成すれば、別府川は今の二倍に延長され、流れ(水量)も大きく変わることになる。

 ◇別府川防潮水門◇

 さて、水門であるが、別府町は低い平地に位置しているために播磨灘の影響を受けてきた。

 特に台風の時などは、海水が高潮となって別府川をさかのぼり「潮止枠樋門」に達し、しばしば付近の両岸の人家に侵入し、田んぼにも塩害をあたえていた。

 現在は、別府川の両岸も高く築かれた。

 そして、「別府川防潮水門」が昭和44年に造られた。

 地元の人は「わくのくち水門」といって大切にしている。

 が、別府川延長後は、水門の再建が求められるかもしれない。

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別府町探訪:小学校とクスノキ

2009-02-13 10:58:38 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_020_2  別府小学校の校門のところに、写真のような見事なクスノキがある。

 歴史の古い小学校には、よくクスノキがある。

 今日は、小学校とクスノキについて書いてみたい。

 戦前の教育は、天皇中心の教育だった。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたした。

 小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹された。

 それも、複数のクスノキが植樹された。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていた。

 忠臣楠木正成を表すために6本を植えたり、楠木正成と4本を植えられた例もあった。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採された。

322a0477_2  別府小学校もそんな例の一つと思われるが詳しくは分からない。

 大正十四年卒業のTさんは「校庭には三本ならんで楠木の大木が大きく四方に枝を張って、・・・」と、『別府小学校創立百年誌』に投稿されている。

 旧校舎時代の校庭には、写真下のように確かに3本(一本は、手前に幹の一部と葉がある)の楠木がある。

 もっと多くの楠木があり、枯れたのか、あるいは元から3本で、「大楠公」をあらわしたものかは分からない。

 現在の校門のところの楠木の巨木は、かって運動場にあった楠木の一本である。

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別府町探訪:将棋屋(割烹うなぎ料理店)

2009-02-12 08:44:48 |  ・加古川市別府町を歩く

81853410_2  右の写真をご覧願いたい。

 中央の将棋を打っているようすを見ているのは、多木久米次郎である。

 左は、当時の三十四銀行頭取・小山健三で、その相手が貴多文太郎である。

 この写真は、大正元年に撮影されている。

 今日は、貴多文太郎(初代:将棋屋)を紹介したい。

 江戸時代も終わりの頃、彼は西宮に生まれた。

 明治になり、多木化学の荷夫の頭として働いていた。

 彼は将棋がめっぽう強く、当時の将棋名人・関根金次郎より六段の免許を与えられた。

 しばしば久米次郎や健三に将棋を伝授した。

Befu_028  明治41年に料理屋兼旅館業をはじめ、大正5・6年頃から、うなぎの蒲焼を始めた。

 その時、店の名を特技であった将棋から名づけ「将棋屋」とした。

 場所は、宝蔵寺から北東に徒歩2・3分の所である。

 「将棋屋(写真下)」の前を散策したとき、「うなぎ屋」なのに「将棋屋」とは不思議な名前と思われた人も多いのではなかろうか。

 *『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)参照

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別府町探訪:別府村事件

2009-02-11 12:36:40 |  ・加古川市別府町を歩く

Dbe70a70_6  大正11年、「人の世に熱あれ、人間に光あれ・・」と高らかに宣言が掲げ、全国は結成された。

 差別反対運動の取り組みは高まった。

 大正12年12月5日、加古郡・北別府支部も結成された。

 さっそく、この年の8月に差別事件がおきた。

 青年に対する差別の憤りが村民あげての闘いになった。

 この抗議行動は、「別府村事件」と呼ばれた。

 教照寺(写真上:写真は、旧教照寺本堂)を本部として「・・・・謝罪状を手に入れるまで、生きて帰ろうとは思わない・・」と決意をかためた。

 この抗議行動で、村内男子は出動した警察隊と衝突しほとんどの青年が検挙された。

 そして、12名が有罪に判決を受けた。

Befu_001_2  謝罪を再三にわたり要求したが、全て拒否された。

 このまま泣き寝入りしては「子孫末代まで、頭が上がらない。身を犠牲にしても目的を達成しなければ・・・」と考えた末の行動であった。

 抗議行動は「相手が手を出さぬうちはてをだすな・・」など統制のある行動であったが、犯罪者として扱われた。

 への偏見を改めようとするの人々にとって、やむにやまれぬ行動であったが当時の警察権力により弾圧されたのである。

 この「別府村事件」は、その後あまり語り伝えられなかったためか忘れ去られようとしている。

 別府の歴史を一歩前進させた事件であった。

  *『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)参照

   写真下は「別府村事件」の顕彰碑

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別府町探訪:蓬田和正選手(円盤投げ、中学新記録保持者)

2009-02-10 13:31:19 |  ・加古川市別府町を歩く

7079ac97  2002年9月29日、全国ジュニア・オリンピック大会の当日である。

 その日の横浜国立総合競技場は小雨が降っていた。

 蓬田和正(当時、別府中学校3年)は、円盤投げで、この大会に出場した。

 顧問のH先生も、当時、中学生にはしては考えられない好記録の続出に驚いていた。

 体も一回り大きくなった。ますます、練習に熱が入った。

 ジュニア・オリンピック兵庫県大会、(場所は神戸ユニバスタジアム)で、59㍍27㌢の中学新記録を出していた。

 夢の60㍍の大記録は目前であった。

 蓬田は、全国大会で、なんとしても60㍍の大記録を出して全国優勝したかった。

 誰にも負けない練習量で自信はあった。

 四投目、慢心の力をこめて投げた。円盤はぐんぐん伸び、61㍍24。

 ついに、60㍍を越え、自分の持つ中学新記録を更新した。

 この試技で、事実上の優勝を決めた。

 61㍍24の円盤投げの中学新記録は、現在も破られていない。

 なお、蓬田選手は、この大会で男子最優秀選手に選ばれた。

 高校でもインターハイで全国優勝を果した。

 蓬田選手は、現在(2009年2月)、国士舘大学の3回生であり、全国一線の円投げの選手として活躍している。

 *写真は、中学新記録つくった翌年(2003年)の大会誌『ジュニア・オリンピク陸上競技大会』で1p全面で紹介された蓬田選手

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別府町探訪:低いトンネル

2009-02-09 11:49:04 |  ・加古川市別府町を歩く

Hp_071_5  先日(1月13日)の神戸新聞の「まちをあるけば」の欄に「最低なんて言わせない」と題して、別府町にある低いトンネルを紹介してた。

 きょうのブログ「別府町探訪」は、その記事を転載させていただきたい。(写真は別)

 ・・・加古川市別府町の山陽電鉄沿い。

 別府駅の北西約二百五十㍍で、線路とその下をくぐる道路との、とても低い立体交差に出会った。

 頭をぶつけないよう腰をかがめて往来する住民ら。

 なんだか不便そうだけど・・・・

 山電によるとこの“高架”は「新野辺架道橋」。橋けた下約1.2㍍で、現存する山電の架道橋では最も低い。

 建設の経緯は不明だが、「水路を残すためだったのでは」と担当者。

 水路点検用に設けられたとか。

 それがいつの間にか生活道路に。

 ここ以外で線路を渡るには、約二百㍍北西か南東に遠回りしないといけないためだ。「こう見えて便利なんですって。(1月13日・神戸新聞より)

 知りたがりの私。この記事を読んでさっそくデジカメを持って見学にでかけた。向こうへぬけてみると、さすがに窮屈だった。(写真はその時に撮影)

 別府町への親しみが、また一つ増えた。                               

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別府町探訪:御坏江 ⇒ 一木村 ⇒ 別府村

2009-02-08 11:42:55 |  ・加古川市別府町を歩く

E895e196_2  風土記は、古代の別府のあたりの海を次のように書いている。

 「・・・・大和朝廷の景行天皇(けいこうてんのう)が現在の高砂あたりにあったナビツマ島に渡った女性の妻訪(つまどい)をされた。

 その時に、村人は御食事(アエ)をさしあげた。

 そこから、この地をアエと言うようになり、また入江の魚を捕り、料理して坏(つき)に盛ってだした。

 そこで、このあたりを御坏江(みつきえ)と呼ぶようになった・・・」

 現在の別府町から播磨町の宮西のあたりは、深い入江で人が住めるような状態ではなかったと思われる。

 風土記の内容の真偽は、ともかくとして、このあたりは御坏江と呼ばれていた。

 *図は5世紀ごろの加古川の河口の想定図(『播磨の国)風土記の謎に迫る(田井恭一著)』(神戸新聞出版センター)より

 ブログでも既に述べたが、やがてこのあたりの陸化がすすみ人が住むようになり、一木村(いちきむら)と呼ばれた。

 その後、一木村は別府(平安時代に役所が発行した開拓許可証)によりさらに開拓が進み、一木村は別府村と呼ばれるようになった。

 整理しておきたい。

 御坏江(古代)・・・・一木村( ~平安時代末期・鎌倉時代)・・・・別府村(室町時代)

 別府村の地名の変遷である。

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別府町探訪:三ッ葉葵の鬼瓦と徳川将軍の位牌

2009-02-07 15:23:42 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_017 別府町の名刹:宝蔵寺(写真)は瀧家の菩提寺であることは、先に紹介した。

 「新右衛門(瓢水の父)菩提」(2月4日・水のブログ)をご覧ください。

 この宝蔵寺に不思議な物がある。

 三っ葉葵の紋の入った瓦と徳川将軍の位牌である。

 今の宝蔵寺は昭和63年3月に、270年ほど前に建立された古寺が、老朽化したため取り壊され、全面改築された。

 その時、本堂の一部に三ッ葉葵の紋が入った鬼瓦が使用されていた。

 徳川将軍の位牌は、徳川家康(初代将軍)、家宣(六代)、吉宗(八代)、家斉(十一代)・家定(十三代)の位牌である。

 その経過について知りたいが、宝蔵寺は寛永年間(1624年頃)の大火により一切のものが灰燼に帰し、創設以来の古記録が残っていない。

 詳しいことは分からない。

 ただ、宝蔵寺に朱印領(幕府から与えられた土地)があったことが知られている。

 三つ葉葵の瓦・徳川将軍の位牌はこの朱印領に関係しているように思える。

 *三ッ葉葵の紋の入った瓦、将軍の位牌の写真は、この記事に間にあわなかった。後日紹介したい。

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別府町探訪:瀧家は辻堂(別府町元町)のあたり

2009-02-06 08:47:25 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_012  瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれた。

 父は、瀧新右衛門仲春、母は参といった。

 家は、現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂(写真)のあたりで、約100m四方の広大な屋敷だった。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていた。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができる。

 ◇瀧家は別府城址か?◇

 瀧家は三木合戦で籠城し、落城(天正8年・1580)後は現在の加東市滝野町で暮らしたが、新右衛門元春(天正六年生まれ)は、別府村に移った。

 三木合戦で最初に攻防のあった別府城のあった場所は分かっていない。

 が、戦況・地形から考えて瀧家のあった辻堂あたりがふさわしい。

 ともかく、三木合戦後、別府城は取り壊された。広い跡地が残った。

 瀧家は、そこに屋敷を構えた。

 想像である。史料があっての話ではない。

 そこは、船の出入りする別府川の河口に近い。

 住吉神社のあたりの海岸は、現在の地形と異なっていた。

 住吉神社の西のあたりは、別府川がS字状にまがった湛保(たんぽ)という船溜まりがあったという記録もある。

 瀧家は、そんな別府の港に目をつけた。

 三木合戦を最後に、この地方は時代は戦争のない平和な時代へとかわった。

 農業は大きく発展し、それに伴い商業活動もさかんになった。

 瀧家は、海運業者として時流に乗った。

 別府の浜は賑わった。

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別府町探訪:瓢水「手枕の松」と命名

2009-02-05 10:25:48 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_007  2007年6月8日のブログで「手枕の松」を紹介した。

 少し復習しておきたい。

 ◇手枕の松◇

 手枕の松は、広く知られ『播磨鑑(はりまかがみ)』にも「・・・この社(別府の神社のこと)に松の大木あり、、一抱えばかりの太さに、地より一間ばかり上にて、横にこけたる長さ十間ばかり、枝繁茂して、年々青く茂りたり。

  曽根の松に続き無双の霊松なり。

 こけたる幹につか柱(支え棒)有り、廻りを石の垣にて隔つ・・」とある。

 現在、手枕の松は、社殿に向かって左前にあるが、『播磨鑑』の挿絵を見ると、当時の手枕の松は社殿に向って右側にあった。

 この手枕の松は、ずいぶん昔からあったようで「一木(いちき)」と呼ばれ、このあたりの集落も古くは「一木村」と呼ばれていた。

 もっとも、室町時代の頃、村は別府村と呼ばれていたようである。

 この霊松に「手枕の松」と命名したのは、(瀧)瓢水である。

 住吉神社には、2月1日のブログでも紹介した「住吉太明神」の瓢水自筆の扁額がある。

 瀧家は、瓢水の代に衰えてくるが、住吉神社から歩いて西へ五分のところにあり、別府を代表する豪商であり、大スポンサーであった。

 瀧家は、住吉神社にも大きな影響力をもっていた。そんな事情もあり、瓢水の「手枕の松」と名づける希望もかなえられたのであろう。

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別府町探訪:新右衛門(瓢水の父)菩提

2009-02-04 09:30:07 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_013_4  山電・別府駅の西の道を南へ真っ直ぐ行くと、別府川に突き当たる。

 そのあたりに、名刹・真言宗:宝蔵寺がある。瀧家の菩提寺である。

 瓢水の父の亡くなったのは、元禄四年(1691)で瓢水八才の時であった。

 宝蔵寺の過去帳には、「覚元浄法 元禄四年辛未九月二十五日 瀧新右衛門」とある。

 宝蔵寺の本堂の正面に写真のように二基の石燈籠がる。

 新右衛門(仲春)の死後、親類一統で、仲春の菩提を弔うために寄進した石灯籠である。

Befu_014  正面の印刻銘は、左右の燈籠とも同じで、梵字があり、その下に「覚元浄法菩提」とある。

 それにしても、本堂の正面に堂々と二基の燈籠である。

 なみの檀家ではこうはいかない。

 宝蔵寺と瀧家はよほど深い関係があったのであろう。

 当時、瀧家は別府の豪商である。

 瀧家の財力が、大いに宝蔵寺を支えたことであろう。

 瀧家の賑わいが伝わってくる。

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別府町探訪:瓢水の父母の墓標はどこに?

2009-02-03 09:06:27 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_041  昨日の続きである。

 現在の加東市滝野町から別府に移り住んだ瀧家は、初代・元春から三代・政清で財を成した。

 家業は、廻船問屋で、叶屋(かのうや)と号し別府港に拠点をおき、加古川の流域の物産を集め大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する一大商社として大いに繁栄し、千石船七艘を所有するまでになった。

 その家業も四代・瓢水の代になり、急速に衰えていった。

 それもそのはずである。家業は、他人まかせで異常なほどに趣味の俳句にのめりこんだのである。

  ◇瀧家の墓所◇

 瀧家の墓所について紹介したい。

 瀧家の墓所は、別府の西町の共同墓地にあるが、もともとこの場所にあったのではない。

 別府町以外の人には、分かりにく申し訳ないが、今の「別府町民会館」のある場所である。

 江戸時代、ここに金蔵坊という僧坊があり、そこの墓地に埋葬されていた

 明治初年、今の場所に移されている。

 余話をしておくと、明治22年、別府村・西脇村・新野辺村が合併して新しい別府村ができたとき、金蔵坊があった場所に村役場がおかれた。

 西町の現在の瀧家の墓所に話をもどしたい。

 瀧家の墓所には、初代(元春)・二代(清春:瓢水の祖父)の墓標はあるが三代(政清:瓢水の父)の墓標が見当たらない。

 それに、昨日紹介した、「さればとて 石に布団は かけられず」と瓢水が詠んだ母・参の墓標もない。

 ともに数年前まで、ここにあった。

 その経過が分からない。瓢水の父母の墓標であるが、貴重な地域の語りべであり、文化財でもある。

 瓢水の墓標であるが、瓢水は宝暦十二年(1762)五月、七十九才の時大坂の旅先で没した。

 そして、現在の大阪市天王寺区生玉町の持明院(生国魂神社東)の墓所で眠っている。

 *写真は、別府西町の瀧家の墓地

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別府町探訪:さればとて 石に布団は きせられず

2009-02-02 11:08:30 |  ・加古川市別府町を歩く

Befu_002_2  瀧 瓢水について説明も無く書いているが、瓢水については、2006年7月30日のブログ「瀧瓢水」を参照ください。

 彼の句を紹介しているが、再度「さればとて 石に布団は きせられず」を読んでおきたい。 

 彼の母、「参」が亡くなった後に詠んだ句である。

 瀧家について説明しておきたい。

 瀧家の祖先は、三木合戦で三木城に籠城したようである。

 三木落城後、現在の加東市滝野町に帰りその後別府に転居し、名前も出身地の滝野からとり「瀧」とした。

 初代は、天正六年(1578)生まれの新右衛門元春、第二代は与一右衛門清春(瓢水の祖父)そして、第三代目が瓢水の父・新右衛門政清(仲春)である。

 瓢水は、貞享元年(1684)、別府村に生まれた。

 父・仲春は、瓢水が八才の時に亡くなった。

 瓢水は、祖父の清春が後見者となり、幼くして瀧家を継いだ。

 瀧家は、一町四方(約100m四方)の広い屋敷であった。

 その後の瓢水は、母に心配をかけ続けた。

 享保18年(1732)、母・参が亡くなった。

 瓢水は大坂で、このニュースを知った。

 急いで、別府に帰った瓢水は号泣したという。

 その後に詠んだ句が、上記の「さればとて 石に布団は きせられず」である。

  *写真の瓢水の句碑は、平岡町一色霊園内(加古川東郵便局前) 

 

 

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別府町探訪:住吉神社の扁額

2009-02-01 14:21:04 |  ・加古川市別府町を歩く

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 昨年の6月29日で休んでいたブログを再開させようと思います。

 このブログを休んでいる間も、毎日100程度のアクセスをいただきました。

 本当にありがとうございました。

 最近は、別府町をよく歩きますので、「別府町探訪」の続から再開させたいと思います。

 ◇住吉神社の扁額◇

 先日、写真にある扁額を見に、浜の「あかがね御殿」の西にある住吉神社を訪ねた。

 扁額は、以前神社の拝殿にあったが、痛みを防ぐために社務所の玄関に移されていた。

 この扁額は、瀧瓢水の筆によるもので雄渾な字体で書かれている。

 銘は、「瀧有恒書」とある。

 瓢水は、富治斎(ふしゅんさい)・野橋斎(やぎょうさい)・一鷹舎(いちようしゃ)とも号し、剃髪してからは自得(じとく)と言った。

 瀧有恒(たきありつね)は、彼の本名である。

 瓢水の家は、住吉神社の西、およそ300メートルの場所にあり、ここへよく足をはこんだことだろう。

 海の向こうに淡路島が横たわり、はるか右手に家島が、さらに向こうに小豆島が見眺めることができた。

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別府町探訪:潮風の町

2007-07-03 09:22:26 |  ・加古川市別府町を歩く

_029_4     「(ブログ)別府町探訪」のため、デジカメを片手に何回となく別府の町を歩いた。

  きまって、半ズボンにスリッパの「おっさんスタイル」である。

  歩く度に、手枕の松への道標が目についた。

  まずは、玉垣商店の三叉路の道標(写真右)である。

  高さ  70センチ 正面23センチ 側面20センチ

   碑銘(正面)  左 あかし大坂 道

      (右側)  右 おのへ高砂 道

      (左側)  寛政元酉九月立 

               *寛政元(1789)

  他には、別府町民会館の旧浜街道沿いに、比較的新しいと思われる「右 田まくらの松 明石大坂道」の道標がある。

  手枕の松への狭い路地を行くと、さらに途中で二つの道標があった。

  旅人は、手枕の松へと道をいそいだ。_034_1

  むかし、「手枕の松」辺りの海岸は、よほど見事な風景であったのであろう。多くの旅人がここを訪れている。

  6月8日のブログでも書いたが、手枕の松には茶店もあったという。

  心地よい潮風の茶店で、旅人は故郷の話でもしたのだろう。

  「故郷はいい所なんだが、この景色にはまけたね・・・」とでも。

  楽しいひと時を過ごした後、旅人は別府川の川尻(あかがね御殿のすぐ東、現在、ここに石の地蔵がある)まで行き、そこから渡し舟で対岸の西脇に出た。そこにも、かつて道標(写真下)があった。

  旧街道の面影をとどめていたが、最近の開発で道標は別府町西脇の歓福寺の裏門の側に移されていた。

  別府町は港が似合った町であった。潮風のにおいも消えた。

*「別府町探訪」を少し休んで、明日から「加古川の戦争」の続きを一週間ばかり取り上げる予定。

           

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