ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

一面だけで判断する愚かさ

2005-05-26 16:22:02 | 脳みその日常
音楽に限ったことではないが、物事をトータルで判断できない奴はダメである。分かりやすい例を挙げるなら、ある人を判断する時にひとりの意見を聞くだけではダメということ。意見する人がどんなに信用のおける人であっても、その意見はあくまでその人の見解に過ぎない。自分で確かめる方法がなければ、複数の人の意見を聞いてみることだ。そうすることにより、「ある人」のイメージが自ずと浮かんでくる。

批評だって基本的にはそのスタンスでなければならないと思っている。もちろん誰かに「この演奏はどうだった?」なんてことは訊ねない。あくまで自分のなかで判断するのみ。ただし、ワシの場合は演奏を感覚だけに依存することはない。むろん音に対する感覚がなければ判断なんて無理。しかし、感覚のみに頼ると、いつの間にか自分の嗜好に近いものが良い演奏のように錯覚しがち。それでは感想に過ぎない。じゃあどうするのか。

演奏を聴きながら、その作品が書かれた時代の特徴などを考える。音楽史や演奏史の視点も考慮しつつ、演奏を聴く。その上でこの演奏が妥当であるか否かを判断するのだ。こう書くと、何だかエラソーに見えるかもしれない。だが、批評する人間の嗜好だけで判断されては、演奏家があまりに気の毒ではないか。もし演奏家のやり方が合理的なアプローチであったとしても、「そんな演奏はキライだ!」というオタッキーな批評家にダメ出しをされたら演奏家の苦労は水の泡。きっと演奏家の恨みだけが残ることになる。それでは批評する意味がない。

とはいうものの、ほとんどの批評家は何の根拠もなく書き散らかしているからタチが悪い。彼らの多くは音楽史のことや音楽理論についてまともに学んでいない。なのに音楽批評をしている。不思議でならない。彼らがそうしたことを学んでいないことを知るには、彼らの書いた曲目解説を読めば一目瞭然。解説の「か」の字にもならないお粗末な文章だから。それがバレるのが怖くて、解説の依頼を受けない者も多い。なのに批評はする。笑止千万だよな? 思うに、彼らが批評の仕事を堂々と受けるのは、長年クラシック音楽を聴いて来たというワケのわからない自信があるからにほかならない。

しかし、いくら聴体験があろうと、基本的なことがわかっていなければどうしても的外れなことしか書けない。なぜそう言えるのかというと、ワシの講座の受講者の話を聞いていて確信したのだ。ちゃんと音楽史を勉強していればトンチンカンな質問などしないはず。なのに悪びれることなく質問してくる。もちろん、この人たちはアマチュアの愛好家だし、知らないことを教えるのがワシの仕事だから質問されるのは一向に構わない。むしろどんどん質問して欲しいくらいだ。問題なのは、長年音楽は聴いているが、実は音楽の構造や歴史などをロクに知らない批評家のほうなのである。仮にもプロとしてやっているのなら基本的な知識ぐらい持てよ。

彼らの悪口を書くつもりは毛頭ない。ただ、そういう連中に批評を依頼する業界の神経が理解できないのである。ま、こんなところでボヤいても仕方ないが…。
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