ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

地域農民の悲願!…滝谷池

2023-03-09 07:01:37 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市槙山(まきやま)にある淀川水系の滝谷池(たきたにいけ)を目指します。アクセスは県道50号から入って行くと到着します。ただ、入るところには何の目印もないので真木山神社を探し、その西側あたりにある道が目的地への道となります。

滝谷池という名称は滝谷川を堰き止めて築造されたことに由来します。伊賀市が作成したため池ハザードマップによると、高さは21.5m(参考)。だからなのかダム便覧にも滝谷池は載っています。ところがダム便覧に記された高さはなぜか23.5mなんですよね(参考)。この2.0mの違いは何なのでしょうか。

それはさておき、滝谷池は右岸から見るとこんな感じです。


順を追って見ていきます。上に記した道を進んで行くと突然こんな「関所」が現われます。一瞬、ゲゲッと焦りますが、よく見れば進入禁止ではなく、単に野生動物が通らないようにするゲートなので手動で開閉して進むことができます。


そして進んで行くと滝谷池の左岸に到着します。


左岸、ダム横には「滝谷池竣工碑」と刻まれた石碑が建っています。


石碑の文言を転記すると以下の通り。

   「建碑誌
王滝鞆田の地帯は由来水利の便匱しく天一度旱すれば忽ち田面乾涸して嘉禾稔らずまた之が田圃の復旧にも多大な労費を要し住民常に艱むかかる災害は遂年或は三四年を離て繰返さるこれは古くは寛政年間旧藩主より年貢米全免扶米の恩典近くは明治大正の旱害免租また大正十一年より三歳に及ぶ大旱害に際し開墾助成耕地整理国庫補助の恩典に與り大小溜池の新設拡築など水源涵養に努めしが殆んど奔命の憾なりき只抜本的解決の途は大溜池の構築によって貯水灌漑によるの外なきに至れりこの窮極に際し昭和二十二年十一月縣に於て伊賀東北旱害対策委員會を結成せられ関係国会並に縣議會議員の絶大なる御協力により調査研究を重ね遂に昭和二十五年十月縣營を以て大溜池築造の工に着手せられたり以来結据実に六星霜を閲し昭和三十一年工事完成す貯水量八十万立米の碧水山容に満ち豊なる水溢れて余水吐を掩ふの盛観を呈す而して費すところ三億四千余万円水路●●々三万六千七百余水に及び重畳たる滋賀縣境を繞り巌を削り山腹を貫き以て王滝鞆田四百町歩の養水を流す大小の隧道八十有一伏越工十有八掛樋十有五蓋し稀有の難工事たり顧るに工を起すや住民の熱意と関係者の総親和総努力により百難を排し櫛風沐雨に耐えてこの大業を完成し永き炎嘆の患を絶ちてその恵沢千載に盡きず嗟乎偉なる哉人の熱大いなる哉人の和天工を補いて水系を更め然して地租を滋くし木毛を培いて民生を厚くす世遷り人代るともこの池畔に立てば山紫水明の天恵と共に永久に民衆の幸を希ふものなり
  昭和三十一年十月六日  三 重 縣 知 事  田中覚 題字
              三重縣土地改良協会長 東畑四郎 撰」

要約すると、もともと水が乏しかったこの地域では江戸時代から明治・大正時代にかけて免租されたり、国の補助金によって大小の溜池が築造されるなどの恩恵を受けてきたが、抜本的な解決にはならなかった。そこで昭和22年11月、伊賀東北旱害対策委員會が結成され、調査研究を重ねた結果、昭和25年10月に三重県が主導する大溜池(滝谷池)の築造に着手。そして昭和31年(1956年)に完成したと記されています。

左岸の滝谷池側には取水設備らしき建物があります。

そこからダム上を見ると、こんな感じ。


これがダム上。ダム上は立入禁止ではないので歩いてみます。


ダム上、中央から見た滝谷池の様子。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、滝谷池側から見た様子。


越流式の洪水吐は右岸のさらに外側にあります。


竣工碑のような石碑があると築造の経緯などがわかって見方が変わりますね。例えば、工事、大変だったんだろうなぁ…とかね。
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