あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

私の想い、二・二六事件 『 頼むべからざるものを頼みとして 』

2023年02月14日 15時15分05秒 | 昭和 ・ 私の記憶

内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師團出動ノ大命渙發セラレ、
年來御維新翼賛ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
將ニ萬里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世狀ニ憂心轉々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶對道ヲ 今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顯ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス ・・・蹶起趣意書


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら
三宅坂方面に向い行進する安藤隊

「 自分たちが起って國家の爲に犠牲にならなければ、
 かえって我々に天誅が下るだろう 」・・・野中四郎

「 我々は國家の現狀を憂いて、ただ大君の爲に起ったまでです。
 一寸の私心もありません 」
「 いつか前島に  『 農家の現狀を中隊長殿は知っていますか 』
 と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
かし お前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった 」・・・安藤輝三


昭和の聖代
正義が常に正義として通用する 此 眞の聖代と謂う
正義とは大御心を謂う  
・・・大御心そのものが正義
而して、大御心は正義を體現するもの
玆に、赤誠の正義はきつと大御心に副うのである

「 
なに、陛下だって御不満さ ・・・村中孝次
・・・彼等は
頼むべからざるものを頼みとして
蹶起したのである。

日本の國體は
一天子を中心として 萬民一律に平等差別であるべきものです。

聖天子が 改造を御斷行遊ばすべき 大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります。
之に反して
大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません。  ・・・北一輝

昔から七生報國というけれど、
わしゃもう人間に生れて來ようとは思わんわい。

こんな苦勞の多い正義の通らん人生はいやだわい。 ・・・西田税
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< 註 >
「 なに、陛下だって御不満さ 」 
山口一太郎大尉より聞く所に依れば、
陛下は現在の御境遇に関し、
述ぶるに忍びざる内容の嘆きの御言葉を洩らされたる趣拝承す ・・・村中孝次
陛下朝見式に於て賜はりたる勅語の聖旨を実現せんとしたる ・・・香田清貞
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・・・・ ノート  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 ・二六事件 = 昭和維新

昭和維新とは
「 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」 
・・・藤田東湖
・・・大義とは國體  國體明徴
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スル 」
蹶起の眞精神は、
「 大權を犯し國體を紊る君側の奸を討って大權を守り、國體を守らんとす 」
・・・天皇の御爲に大權を守り、大權干犯したるものを誅陸す
「 天皇の御爲 」 = 臣下の正義、日本人の正義   
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陸軍大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ 
・・・國體明徴=國體の 眞姿顯現
國體とは、
一天子を中心として萬民一律に平等無差別であり、
それは天皇と國民の精神的結合を示すものである ・・・村中孝次
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一君萬民、國民一體の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の國民がほんとうに
天皇の下に一體となり
建國の理想に向って前進することである
・・・青年将校
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一君萬民、君民一體の政治とは何か
青年將校が天皇とともに喜びともに悲しむという一體観、
そこでは一君を中心とした國民の結集であり、
そこに君と国國民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
國民は無差別、平等に天皇に直參するものであることを表現して
天皇に一切をささげる國民が、
天皇の御聲のままに、翼賛する政治の體制を、理想とする
どうすれば、このような理想形態に導きうるのか
現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える惡者をとりのぞき、                   ・・・君側の奸
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ
同時に全國民に維新への感動を激發すれば ことはなる
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「 我國體は上は萬世一系連綿不變の天皇を奉戴し、
萬世一神の天皇を中心とせる全國民の生命結合なることにゆいて
萬邦無比といわざるべからず。 我國體の眞髄は實にここに存す 」
すなわち、我が國體は天子を中心とする全國民の渾一的生命體であり
天皇と國民とは直通一體たるべく、
したがって、天皇と國民とを分斷する一切は排除せられ、    ・・・君側の奸
國民は天皇の赤子として奉公翼賛にあたるべきもの。


天皇陛下萬歳

2023年02月13日 09時07分32秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。

・・・
万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた

怨み、いかり、殺されても死なぬ、鬼となって生きぬくとは、
これら刑死将校たちのひとしく書きのこしているところである。
もちろん、それは軍当局とくに中央部幕僚に対する、すさまじいまでの痛憤であり、
天皇に対しては、いささかもうらめしい言葉は残していない。
むしろ、天皇による軍裁判によって死刑に処せられながら、
ひたすらに天皇への忠誠を誓い 天皇陛下万歳を唱えて死についている。

・・
万斛の恨み・・・それでもなお 『 天皇陛下万歳 』 

天皇陛下萬歳

目次
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・ 天皇陛下萬歳、萬歳、萬歳 
・ 
林八郎の介錯人・進藤義彦少尉

「 今日も会えたなあ 」 
・ 処刑前夜・・・時ならぬうたげ 
・ 長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 
『 やられたら直ぐ 血みどろな姿で陛下の許へ参る 』 

・ 
昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 
・ 昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉 
・ 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・・十二日は日本歴史の悲劇であつた
同志は起床すると一同君が代を唱へ、
又 例の澁川の讀經に和して眼目の祈りを捧げた様子で
余と村とは離れたる監房から、わづかにその聲をきくのであつた
朝食を了りてしばらくすると、
萬才萬才の聲がしきりに起る、
悲痛なる最後の聲だ、
うらみの声だ、
血と共にしぼり出す聲だ、
笑ひ聲もきこえる、
その聲たるや誠にイン惨である、
惡鬼がゲラゲラと笑ふ聲にも比較出來ぬ声だ、
澄み切つた非常なる怒りとうらみと憤激とから來る涙のはての笑ひ聲だ、
カラカラした、ちつともウルヲイのない澄み切つた笑聲だ、
うれしくてたらなぬ時の涙より、もつともつとひどい、形容の出來ぬ悲しみの極みの笑だ
余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと思ったが、
泣ける所か涙一滴出ぬ、
カラカラした気持ちでボヲーとして、何だか氣がとほくなつて、
氣狂ひの様に意味もなく ゲラゲラと笑ってみたくなつた
午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃聲をきく、
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた
余りに氣が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思ってやつてみたが、
聲がうまく出ないのでやめて 部屋をグルグルまわつて何かしらブツブツ云ってみた、
御經をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた
午前中に大體終了した様子だ
午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて來て話しもしないで聲を立てて泣いた、
アンマリ軍部のやり方がヒドイと云って泣いた、
皆さんはえらい、たしかに靑年將校は日本中のだれよりもえらいと云って泣いた、
必ず世の中がかわります、キット仇は討ちますと云って泣いた、
コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云って泣いた、
中には私の手をにぎつて、
磯部さん、私たちも日本國民です。
貴方達の志を無にはしませんと云って、誓言をする者さへあつた
この狀態が單に一時の興奮だとは考へられぬ、
私は國民の声を看守諸君からきいたのだ、
全日本人の被壓拍階級は、コトゴトク吾々の味方だと云ふことを知って、力強い心持になつた、
その夜から二日二夜は死人の様になつてコンコンと眠った
・・・磯部淺一獄中日記  先月十二日は日本の悲劇であつた

・ 
昭和11年7月12日 (二) 香田淸貞大尉 
・ 昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉 
・ 昭和11年7月12日 (九) 栗原安秀中尉 
・ 
昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉 

・ 昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十二) 丹生誠忠中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十三) 坂井直中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十四) 田中勝中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十五) 高橋太郎少尉 

・ 昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十七) 中島莞爾少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉 
・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 
・ 
昭和11年7月12日 (十九) 水上源一 

昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉 
・ 昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉 
・ 黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景 
・ 
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった 
・ 
「当日 親族者二十数名と共に 
午前十一時半代々木練兵場の一角 陸軍刑務所に参り、
まず 両親および嫁の三名は刑務所長塚本定吉氏の懇諭を受け、
午後零時二十分頃 衆と共に裏門より死体安置所に入り、
棺蓋を開いて一同告別を行いました。
前日には元気潑刺たりし彼、今や全く見る影もなし。
眉間に凄惨なる一点の弾痕 眼を開き歯を食い縛りたる無念の形相。
肉親縁者として誰かは泣かざる者がありましょう。
一度に悲鳴の声が起こりました
如山(勇) はこのとき声を励まして死体に向い
秀 国家のためを思い、よく死んでくれた。父は満足している。
家と一家のことに関しては、何も心配を残さず、安心して成仏せよ。」
また 同行の人たちに対しては
「皆さん、昨日までは笑って下さいと申しましたが、今日は思う存分泣いて下さい」 と。

・・・「 栗原死すとも、維新は死せず 」 

村中、磯部は一部未決のものの証人として、一方的に死期をのばされたのである。
ともに死ぬはずだった同志から引きはなされ、
私たちが同じ屋根の下から出るまでの半年、
それからさらに半年以上、四季をひとめぐりして再び夏を迎え、
それの終わるころまでのばされ、
結局は規定の処刑の座に就くのである。
大岸頼好は後年折にふれては、このことを
「 ちょっと前例のない残酷な処置だ 」
いっていた。

・・・ 
「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 

・ 
昭和12年8月19日 (三) 村中孝次 
・ 
昭和12年8月19日 (四) 磯部淺一 
・ 昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 


叛亂將校達を反逆者として處刑したとき、
 大元帥陛下の帥い給う皇軍 ( すなわち天皇の軍隊 ) は亡んだのである
彼らの銃殺のために撃つたあの銃聲は、
 實は皇軍精神の崩壊を知らしめる響きであつたのである
しかも、その銃には菊の御紋章が入っているのである
大元帥陛下の御紋章の入っている銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、
 極度の憎しみで射殺したのである
・・・橋本徹馬


西田税 『 このままでは 日本は亡びますよ 』

2023年02月12日 16時24分37秒 | 西田税


西田税の歌である
青雲の涯にいったのかどうかはわからない
ただ
「 天皇陛下万歳 」
の 叫びを私の心に刻みつけて
再び会うことも 話し合うこともできない、
それだけに どこか遥かな遠い涯にいったことだけは事実である
・・末松太平


殺身成仁鐵血群
概世淋漓天劔寒
士林莊外風蕭々
壯士一去皆不還     
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
幽囚未死秋欲暮
染血原頭落陽寒

・・・遺書

「自分としては色々考へる処もあり、到底當分の間そういふ事は同意は出來ない
社會状勢の判斷、自分の希望し努力してゐる事の今日の程度等から見て
實は賛成が出來ないが、
併し諸君の立場を考へれば止むを得ない氣持ちもあるだろう
自分は五 ・一五事件の時にも御承知の様な事になり、幸にして今日生きてゐるので、
自分の生命に就ては別に惜しいとも何とも思ってゐないが、
若い將校達は何れも満洲に行かねばならず、
行けば最近に於ける満洲の狀態から見て對露關係が遂次險惡化して居る折柄、
勿論生きて歸ると云ふ様な事は思ひもよ
らぬであろう
其点から言っても國内の事を色々憂慮して苦労して來られた人達が
此儘で戰地へ行く氣になれないのも無理もないと思ふ
元來私共の原則として何処に居っても御維新の御奉公は出來るし、
満洲に出征するからその前に必ず何かしなければならんと云ふ事は
正しい考へ方ではないと思ふが、
それは理屈であって人情の上からは一概に否定する事も出來ないと思ふ
以前海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後近く上海に出征するのを控へて
御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度いと云ふ手紙を
昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、
私は當時の狀勢等から絶對反對の返事をやった爲
同少佐非常に失望落騰して其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもので、
今の諸君の立場に對しても私自身の立場からは理屈以外の色々な點を考へさせられます
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから
御國の爲になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ
私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます
人間は或運命があると思ふので
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます
どちらでも良いから良く考へて頂き度い 」
・・・西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」

西田氏を思ふ、
氏は現代日本の大材である、
士官候補生時代、
早くも國家の前途に憂心を抱き、改革運動の渦中に投じて、
爾來十有五年、
一貫してあらゆる權力、威武、不義、不正とたたかひて たゆむ所がない、
ともすれば權門に阿り威武に屈して、その主義を忘れ、主張を更へ、
恬然 テンゼン たる改革運動の陣営内に於て、氏の如く不屈不惑の士は けだし絶無である
氏の偉大なる所以は、單にその運動に於ける經驗多き先輩なるが爲でもなく、
又 特權階級に向つて膝を屈せざる爲のみでもない、
氏はその骨髄から血管、筋肉、外皮迄、全身全體が革命的であるのだ、
眞聖の革命家である、
この點が何人の追ズイモ許さない所だ
氏の言動、一句一行悉く革命的である、
決して妥協しない、だから敵も多いのである、
しかも氏は、この多數の敵の中にキ然として節を持する、
敵が多ければ多い程 敢然たる態度をとつて寸分の譲歩をしない、
この信念だけは氏以外の同志に見出すことが出來ない、
余は數十数百の同志を失ふとも、
革命日本の爲 氏一人のみは決して失ってはならぬと心痛している
・・・磯部浅一 『  
獄中日記 (四)  八月十九日 』 



西田税  ニシダ ミツギ
『 このままでは日本は亡びますよ 』
目次

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無眼私論 
 ・ 無眼私論 1 「 今仆れるのは 不忠、不孝である 」 
 ・ 無眼私論 2 「 クーデッタ、不淨を清めよ 」 
 ・ 無眼私論 3 「 日本は亡國たらんとす 」 
 ・ 無眼私論 4 「 女は戀するものである 」 
 ・ 無眼私論 5 「 眞人 」
 
西田税 ・戰雲を麾く
 ・ 戰雲を麾く 1 「 救うてやる 」
 ・ 戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意氣だ 」
 ・ 戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御學友と決定せり 」
 ・ 戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより他ないと思ひます 」
 ・ 戰雲を麾く 5 「 靑年亜細亜同盟 」
 ・ 戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下一の書なり 」
 ・ 戰雲を麾く 7 「 必ず卿等は屡々報ぜよ 」

 ・ 戰雲を麾く 8 「 達者でいたか 」
 ・ 戰雲を麾く 9 「 畢竟、人生は永遠に戰ひつづけるもの 」

・ 
西田騎兵少尉 
・ 「 殿下、ここが、有名な安來節の本場でございます 」 

西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」 
・ 
西田税と大學寮 1 『 大學寮 』 
・ 
西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動発祥の地 』 

・ 
西田税ノ抱懐セル國家改造論 竝 其ノ改造實現ノ手段方法

西田税 『 士林莊 』 
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に發した書簡   
・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧錄


天皇と農民 ・・※

・ 
ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 
・ 
ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』 

・ 五 ・一五事件 『 西田を殺せ 』 
・ 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 
・ 紫の袱紗包み 「 明後日參内して、陛下にさし上げよう 」
・ 昭和天皇と秩父宮 1
・ 
昭和天皇と秩父宮 2 


・ 末松太平 ・ 十月事件の體驗 (1) 郷詩會の會合 
西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』 
・ 絆 ・ 西田税と末松太平 

・ 統制派と靑年將校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」
・ 西田税の十一月二十日事件 
・ 悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

西田はつ 回顧 西田税 1 五 ・一五事件 「 つかまえろ 」 
西田はつ 回顧 西田税 2 二 ・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 
・ 
西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 「 男としてやりたいことをやって來たから、思い残すことはないが、お前には申譯ない 」 


青一髪  萬頃の 波がしら
一劔天下行  欲斬風拓雲
萬里不見道  只見萬里天
・・・西田税 ・ 金屏風への落書 



赤子の微衷

西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
西田税、村中孝次 ・ 二月二十ニ日の会見 『 貴方モ一緒ニ蹶起シタラ何ウデスカ 』 
・ 西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の会見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』 
・ 西田税、栗原安秀 ・ 二月十八日の会見 『 今度コソハ中止シナイ 』 
・ 西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』
・ 西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」

・ 西田税 2 「 僕は行き度くない 」
・ 西田税 3 「 私の客観情勢に對する認識 及び御維新實現に關する方針 」
・ 西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 西田税 (一) 「 貴方から意見を聞かうとは思はぬ 」
・ 西田税 (二) 「萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 」
・ 西田税 (三) 「石原は相變らず、皇族内閣などを云って居るとすれば、國體違反だ 」
・ 西田税 (四) 「若いものが起ちましたから、其収拾に就てはよろしく御盡力をお願ひ致します 」
・ 西田税 (五) 「眞崎大將をして時局収拾せしめたいと鞏調しました 」

・ 西田税 (六) 道程 1

・ 西田税 (七) 道程 2 

・ 「 貴様が止めなくて一體誰が止めるんだ 」 

・ 反駁 ・ 北一輝、西田税、龜川哲也 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 1 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 2 
・ 反駁 ・ 北一輝 
・ 反駁 ・ 西田税 

西田税 ・北一輝
はじめから死刑に決めていた
「 両人は極刑にすべきである。兩人は證拠の有無にかかわらず、黒幕である 」 ・・・寺内陸相

「 二・二六事件を引き起こした靑年將校は 荒木とか眞崎といった一部の將軍と結びつき、
 それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです 」 ・・・片倉衷

・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」


陸軍軍法會議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、
結論的に言うと、指揮權發動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛亂幇助罪で3年くらいのところ、
また、西田については、もっと輕くてよいところ、
鞏引に寺内陸軍大臣が指揮權發動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事實である。
これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・
拵えられた憲兵調書 

何事モ勢デアリ、
勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
蹶起シタ青年將校ハ
去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、
天皇陛下萬歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、
半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、
此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報國ト云フ言葉ガアリマスガ、
私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。
・・・最終陳述

・ 西田税の手記 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


・ 
菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
・ 
大蔵榮一 「 回想 ・西田税 」 
・ 
「 軍刀をガチャさかせるだけですね 」 

・ 
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 ・・・昭和10年12月31日
西田税 ・ 金屏風への落書 

・ 
西田税が描いた昭和維新のプランとは・・

あを雲の涯 (二十一) 西田税 
・ 西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 家族との最後の面会 
・ 西田税 「 家族との今生の別れに 」 
・ 西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」 
・ 西田税 ・ 悲母の憤怒 
西田税 「 このように亂れた世の中に、二度と生れ變わりたくない 」 
・ 「 俺は殺される時、靑年將校のように、天皇陛下萬歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  

昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
・ 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 
・ 西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「 さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。

・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯


松浦邁 『 現下靑年将校の往くべき道 』

2023年02月11日 11時28分18秒 | 松浦邁

奈良に着いたときは、日が暮れていた。
松浦邁少尉は週番勤務中であった。 ( マツウラツグル )
士官学校を八月に卒業して、二カ月間の見習士官を経て十月に任官した、
ホヤホヤの新品少尉である松浦は、予想以上に元気であった。
『 五・一五事件 』 で おきざりにされて、精神的苦痛に悩んだ、候補生時代の暗い影は、
すでに消えていた。
私は和歌山で大岸大尉に会ったこと、大阪で中村義明と三人で田崎仁義博士を訪問したことなど、
こまごまと話した。
「 大岸さんは、中村義明は転向者と、ただひとこといっただけだったが、
貴様、中村という男を知っているのか 」
「 よく知っています 」
松浦が話をしてくれたのは、次のようであった。
中村はかつて浜松楽器の労働者争議を指導した若き共産党の闘士として、
活躍した経験の持主である。
三・一五事件 ( 昭和三年三月十五日、新生共産党の全国いっせい大検挙 ) のとき
検挙されて入獄し、獄中で渥美勝の 『 桃太郎主義 』 や 遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などによって、
百八十度の転向をして出獄した。
そのころ、立憲養正会の里見岸雄は、盛んに天皇の科学的研究を唱道していた。
その講演会が、大阪で開かれた。
松浦は、たまたま先輩の鶴見重文中尉 ( 陸士四十期、後平井と改姓 ) と共に聴講した。
里見岸雄の講演内容に対して、堂々批判の一矢いっしをむくいたものがいた。
天皇を科学的に分析する態度に同調し得ない、という中村義明であった。
その中村の批判に全く同感の意を表したのが田崎仁義博士であった。
そのことがきっかけとなって田崎と中村との親交がはじまり、
当然のようにこれを通じて松浦と中村、田崎との交流がはじまった。
それがやがて大岸、中村のコンビに発展するのであるが、
私が大岸を訪ねた、その一日前に中村の反吐事件を誘発し、その交流が強化されたというわけだ。
「 そうですか。 義明が反吐を吐きましたか、よかったですね 」
松浦は愉快そうに笑った。
「 週番中の宿題みたいな気持ちで、ちょっと書いてみたんですが、読んで見てくれませんか、
つまらないものですが・・・」
松浦は、部厚い原稿を出した。
私は、その原稿を四つ折りにして、上衣の内ポケットにしまい込んだ。
本人のいうように、どうせ、つまらないものと思いながら・・・・。
松浦少尉と別れて、東京行きの汽車に乗ったのは、夜もだいぶ更けてからであった。
旅の疲れが一度に出て、私は、いつの間にか寝てしまった。
沼津で眼が覚めた。
いままで忘れていた松浦の原稿を、フト思い出した。
私は睡眠不足の重い頭で読んでみた。
『 現下青年将校の往くべき道 』 の 表題で書きつづられている文章を一枚、二枚と読んでいくうちに、
私の眠気は一ぺんにふっ飛んだ。言々句々、まさに珠玉の文章であった。
一気に読み終わった。
二度、三度倦むことなく読み返した。
これが、新品少尉のものした文章であろうか、と 疑ったほどの大文章であった。
東京でも、絶賛を惜しまなかった。
このままに埋もれさすのは惜しいというので、印刷に付すことにした。
香田中尉の斡旋で、まず 五百部が刷られた。
全国の各聯隊はもちろん、朝鮮、満洲の守備隊に至るまで配付した影響は大きかった。
この 『 現下青年将校の往くべき道 』 が、啓蒙の上に大きな役割を果たしたことは、
いうまでもない。 ・・・大蔵栄一 著  二・二六事件への挽歌  「 
松浦少尉、警世の大一文 」 から


松浦邁
(つぐる)
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『 現下靑年将校の往くべき道 』 
松浦邁 ・ 異聞

松浦中尉はそのころ鶴見中尉と同じ奈良の三十八聯隊にいて、
いわば和歌山勢といったところだった。
彼は前に述べたように、
『 日本改造方案大綱 』をめぐっての東京と和歌山の確執を解くべく一役買って上京したこともある。

もともと彼は五 ・一五事件の士官候補生とは士官学校時代からの同志だが、
なにかのはずみで、この事件に参加しなかった。
それを彼は討入りにはぐれた赤穂浪士のように負い目に感じていた。
少佐になってからも、折にふれてそういった心境を私にもらしていた。
しかし彼が見習士官時代に聯隊長からの課題作業として綴った 『 青年将校の行くべき道 』 の一文は、すぐれた作品だった。
私たちは満洲事変中、満洲でそれの印刷したものを受取ったが、
凱旋の途次 新京で会った菅波大尉も、これを激賞して
「 誰が書いたのだろう、大岸さんではないかと思っているがね 」 と いっていた。
彼はしかし 二・二六事件にも連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、
懸命の奔走をつづけたのだった。
・・・末松太平著  私の昭和史  から


澁川善助 『 絶對の境地 』

2023年02月10日 08時07分37秒 | 澁川善助

昨夜 安藤と会ったあの応接室には、十数名の将校が集っていた。
安藤も坂井も鈴木もいた。
勿論 見馴れぬ将校もいた。
わたくしがそこに這入って行くや、
坂井に話す隙もあらばこそ、忽ち数名の者から、
「何うだ、何うだ」
と、質問の矢を浴びてしまった。
これは余り様子が違う。
野中や坂井が誰と交渉したのか、それさえも知らぬわたくしである。
ただ知っているのは奉勅命令のことである。
「奉勅命令が出たんです。お帰りになるんでしょう」
わたくしは慰撫的にそう云った。
これはかれらには意外だったらしい。
「 何が残念だ、奉勅命令が何うしたと云うのだ、余りくだらんことを云うな 」
歩兵第一旅団の副官で、事件に参加した香田大尉がこう叫んだ。
かれらはまだ自分の都合のよい大詔の渙発を期待しているのだ。
奉勅命令については全然知らない。
わたくしは茫然立っているだけであった。
この時
紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。

それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全国の農民が、可哀想ではないんですか 」

澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

澁川は会津若松の出身で、仙台陸軍幼年学校を経て陸士に進んだ ( 三九期 )。
幼年学校では、二期上に村中、一期上に安藤がいた。
彼は、士官学校予科を二番で卒業し、将来を嘱望された。
しかし、本科卒業直前に、士官学校の教育方針を批判したというだけの理由で、退校処分を受けた。
ときの校長は眞崎甚三郎であった。
その後明治大学専門部に学んだが、在学中社会問題、思想問題に関心を抱き、
満川亀太郎らの指導を受けて国家革新運動に奔走するようになった。
昭和九年頃大森一声、西郷隆秀らと、学生を対象とする精神修養団体 「 直心道場 」 を創設し、
塾生の指導に当たる傍ら、道場に置かれた 「 核心社 」 の同人として雑誌 『 核心 』 の発行に携わった。
昭和一〇年一一月相澤中佐が起訴されると、西田税らと共に相澤の救援活動に当たっていた。
同志の澁川評は、
「 直情径行の士で、実行力に富む 」 ( 福井幸 ・第五回予審調書 )
「 昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。
 激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない 」 ( 中橋照夫 ・第一回公判 )
「 一徹に進んで行くかと思うと、途中でいかぬと思えばすぐに引き返し、
 今度は引き返した方向に一徹に進むという急進 ・直角的で、
 樫の木のような性格の持ち主 」 ( 西田税 ・第三回公判 )
と、ほとんど一致する。
彼が明晰な頭脳と鋭い論鋒の持ち主だったことの片鱗は、
裁判長らに宛てた 「 公判進行ニ関スル上申 」 に示されている。
しかし、私が何よりも驚嘆するのは、彼の強固でしぶとい意思についてである。
一例を挙げよう。
後述のように、彼は事件の前日、
偵察先の湯河原に同行していた妻を、連絡のため上京させた。
帰途西田から託された手紙を夫に渡した。
これは、妻も西田もあっさり認めた事実だが、澁川だけはついに最後までしらを切り通した。
取調官が確証を握っている事実について否認し通すことは、通常人にはできない仕業である。
澁川は、兄事していた西田に関する事項については、徹底徹尾諴黙を守っている。
西田を庇った被告人は、もちろん彼だけに止まらない。
村中 ・磯部 ・栗原らは、予審 ・公判を問わず、
極力西田が事件と直接関係のないことを主張した。
とりわけ磯部は、北 ・西田の助命のため、
獄中から百武侍従長その他の要路関係者に対して、
次々と秘密の怪文書を発送している。
しかし、まるで西田が存在しないかのように西田関係について黙秘した者は、澁川を除いてはなかった。
これは、彼の人間研究に見落とすことのできない点である。
リンク
獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」)
獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」 
獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」  )

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二月二三日、澁川は村中から本件の計画を知らされ、
牧野伸顕の所在偵察を依頼されてこれを快諾した。
この時点で、彼は直接行動には加わることなく、外部から蹶起を支援することになっていた。
彼は、即日妻キヌを同伴して湯治却を装い、
佐藤光佑という偽名で湯河原の伊藤屋旅館に投宿し、牧野の動静を探った。
二五日朝、彼は妻を上京させて磯部に情報を届けた。
午後、河野大尉が旅館を訪れ、直接澁川から情報を得ると共に、
牧野が滞在している同旅館別館の周囲の状況を自ら見分した。
澁川は、午後九時頃旅館に戻ったばかりの妻をせき立てて、
旅館には 「 親戚の子どもの具合が急に悪くなったので帰る 」 との口実で、
湯河原発午後一〇時三四分発の終列車 ( 横浜止まり ) で帰京した。 ( 澁川キヌ ・第二回検察官聴取書、稲井静江 ・検察官聴取書 )
妻が旅館に戻ったとき、彼は妻が帰ってくるのを待っていたような様子であり、
トランクなどもきちんと整理とてあったというから、当初から帰京のつもりだったと思われる。
帰京した彼は、終夜歩一 ・歩三の周辺で部隊の様子を窺っていた。
午前四時過ぎに部隊が営門から出発するのを確認した彼は、直ちに電話でこのことを西田に報告している。
事件発生後の澁川は、情報の蒐集と提供、民間右翼に対する協力要請などに走り回っていたが、
二七日旧知の中橋照夫 ( 明治大学生 ) から山形県農民青年同盟の同志らと謀って蹶起する旨を告げられ、
拳銃五挺の入手方を依頼された。
澁川は、歩兵第三二聯隊 ( 山形 ) の浦野大尉への紹介状を渡し、
まず軍隊と連絡を取るようにと助言する一方、栗原に依頼して入手した拳銃五挺し実包二五発を与えた
( さらに栗原を介して銃砲店に実包三〇〇発を注文したが、これは入手できなかった )。
中橋は、出発直前の二八日午前九時頃自宅で警察官に逮捕され、
反乱幇助で起訴されたが、判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定されて禁錮三年に處せられている。
このほか、澁川は、二八日青森の歩兵第五聯隊の末松太平大尉のもとに、
東京の情況説明と地方同志の奮起を促すため、佐藤正三 ( 中央大学専門部学生 ) を派遣している。
このため佐藤は反乱幇助罪で起訴されたが、
判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定され、禁錮一年六月 ・執行猶予四年の刑を受けている。
なお、末松は、革新青年将校の一員であり、澁川の同期生で親交があった。 ( 反乱者を利する罪で禁固四年 )
この事実は、澁川も被告人尋問で率直に認めている。
しかし、判決文からは、なぜかこの事実はすっかり欠落している。
おそらく、法務官のミスと思われる。
二八日午前一〇時頃、
澁川は 「 幸楽 」 にいた安藤大尉を訪れ、そのまま叛乱軍に止まった。
その理由について、
彼は法廷で、
「 外部の弾圧が激しく、検束されるおそれがあったからだ 」
と述べる。
確かに警視庁は、この日から民間関係者の一斉検束に乗り出している。
しかし、情報を得るために安藤に会いに行った澁川が、
急激に悪化した情況のため、戻るに戻れなくなった可能性もないわけではない。
以上の事実関係のもとで澁川を 「 謀議参与者 」 と認めることは、私には疑問がある。
牧野偵察はまさに幇助行為だし、
中橋らに対する行為にしても、彼が独自に行った支援行為にすぎないからである。
しかし、この点はさておいても、極刑の選択はあまりにも酷であった。
軍法会議は、民間の被告人らに対しては、とりわけ厳刑で臨んで居る。
澁川然り、湯河原班の水上然り ( 求刑は懲役一五年 )、北 ・西田また然りであった。
禁錮一五年の求刑を受けた亀川哲也も、判決は無期禁錮であった。
軍部に対する国民の非難を民間人に転嫁しようとする意図が窺える。
・・・北・西田裁判記録  松本一郎  から


澁川善助  シブカワ ゼンスケ
『 絶対の境地 』
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・ 澁川善助 ・ 道程 ( みちのり ) 

・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
・ 澁川善助の士官學校退校理由 

・ 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕 
・ 
末松の慶事、万歳!! 
・ 澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕 

・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
 皇国維新法案 『 これは一體誰が印刷したんだ 』 
・ 澁川理論の展開 
・ 
相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 

永田軍務局長を斬った時の感想として、
「 私の心の中の覚悟としましては、総て確信による行動であるから、
事の成ると成らざるを問わず、行動を終ればそのまま平然と任地に赴く考えでありました 」
と、澁川がその速記録を見ながら、相澤の心境を語った時、
安藤輝三大尉がクスクス笑い出してしまった。
これは笑うのがあたりまえだ。
一般国民でもかれは精神異常者ではないかと噂したほどであるから。
安藤は澁川と昵懇なので遠慮がないから笑えたので、
一緒に他の者が笑わなかったのは、ただ失礼と思っただけである。
澁川は陸士三十九期の中途退学生である。
「 笑ってはいけません。 安藤さん、あなたは禅を知らないからです 」
澁川が大きな声で叱った。
澁川のこの言葉に、一同は なる程そう云うものかなと、
全面的に納得はゆかぬものの、話はそれで進められた。
・・・
澁川善助 「 あなたは禅を知らないからです 」 

今回の行動に出でたる原因如何。

宇宙の進化、日本國體の進化は、
悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出來ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、
台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで

絶對の境地であります
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、
凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは當然の事と思って居ります
・・
澁川善助の四日間

昭和維新・澁川善助

・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
・ 澁川善助 ・ 昭和維新情報 
・ 澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

・ 澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 

・ 
澁川善助 『 感想錄 』 
・ あを雲の涯 (六) 澁川善助
・ 澁川善助の観音經 

事件勃発後は主として西田宅におり、
西田の指示により情報の収集と民間団体蹶起の呼びかけ等に専念していたが、
二十八日午前十時頃、幸楽の坂井部隊に入り、
爾来 事件終結まで 坂井隊と行動をともにした。
彼はこれがために 部隊指揮、すなわち 「 群集指揮 」 の責任の故に死刑となった。
澁川は日蓮宗にふかく歸依し、
獄中、常時讀經し、とくに刑死前夜には同志のため祈りつづけていた。
そして七月十二日午前八時三十分
泰然として刑場に臨み、
その刑の執行されんとするや、

「 國民よ、軍部を信頼するな !」
と 絶叫したという。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件 から


暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭 「 余は初めからケンカのつもりで出た 」

2023年02月09日 20時36分39秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略3 磯部淺一の闘争

一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ。
吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要點を陳べてゐない 又 事實と相違せる點も多々ある。
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは亂暴ではないか。
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは、
吾等は三月一日發表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である。
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重點としてもう一度ヨク豫審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か  義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに、
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反亂罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である。
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ。


暗黒裁判
幕僚の謀略 3

磯部淺一の闘爭
『 余は初めからケンカのつもりで出た 』
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1  奉勅命令について 
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ。
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない。
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ。
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ國賊云々の宣傳文は不届キ至極である。
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒嚴群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる。
勅命には抗してゐない、
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

「 奉勅命令ハ誰モ受領シアラズ 」 ・・・香田淸貞
「 山下奉文等、將に下達ノ時機切迫スト。一同ヲ集メ切腹セシメントス。
 一
同下達サルヽマデヤル覺悟、遂ニ下達サレズ、外部々隊包囲急ナリ 」 ・・・ 林八郎
「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」 ・・・安藤輝三
いずれも奉勅命令は伝達されなかったと遺書している。
だが軍當局は彼らが奉勅命令にしたがわなかったとして逆賊とした。

「 軍幕僚竝ニ重臣ハ吾人ノ純眞純忠ヲ蹂躙シテ權謀術策ヲ以テ逆賊トナセリ 」 ・・・香田淸貞
「 當時大命ニ抗セリトノ理由ノモトニ即時、吾人ヲ免官トシテ逆徒トヨベルハ、
 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルノカ 」 ・・・安藤輝三

忠誠心にこりかたまっていた彼らの悲憤、今日においてなお私たちの胸に迫るものがある。
彼らははたして「奉勅命令」そのものをどのように受けとったのであろうか。
「 奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトデ、私ドモノギョウ動を逆賊ノ行爲デアルノヨウニサレマシタコトハ、
事志ト全ク違イ忠魂ヲ抱イテ奮起シタ多數ノ同志ニ對シ寔ニ申シ譯ナイ次第デアリマス。
シカシ 私ドモハカツテ奉勅命令ニマデ逆オウトシタ意思ハ毛頭ナク
最後ハ奉勅命令ヲイタダイテ現位置ヲ撤退サセルトイウ戒嚴司令官ノ意圖デアルコトヲ知ツテ、
ソンナ事ニナラヌヨウニ、ソンナ奉勅命令ヲお下シニナラヌヨウニト、 
色々折衝シタダケデアリマシテ、決シテ逆賊ニナツテマデ奉勅命令ニ逆ウヨウナ意思ハ毛頭アリマセンデシタ。
事實、今日ニ至ルマデイカナル奉勅命令ガ下サレタノカ、ソノ命令内容ニ關シテハ全然知ラナイノデアリマス」
・・・村中孝次調書

奉勅命令で撤退せしめられるという意圖を知って、これが下達されないように工作したというのである。
奉勅命令がでれば、万事休すである。これは絶対だからだ。
それ故に、逆賊になってまで奉勅命令に逆う意思は毛頭なかったと、首謀者村中は言うのである。
「 奉勅命令ハ命令系統カラハ全然聞イテオリマセン。
タダ、二十八日夜ニ歩三聯隊長ガ幸楽ニ來テクレマシテ、
奉勅命令ガ下ツタトイウコトノ話ハアリマシタカラ、ソノ後小藤部隊長ノ命令ヲ持ツテオリマシタガ、
何ノ命令モナク、周囲ノ部隊ガ攻撃シテ來マスノデ、ドウスルコトモ出來ズ、
山王ホテルニ立チコモッテオリマシタヨウナ次第デ、
奉勅命令ニ抗スルトイウヨウナ氣持ハ毛頭ナク、
マタ事實、小藤部隊ノ指揮ニ入ツテオリマシタノデ、
奉勅命令ニ從ワナカツタトイウコトハナイト信ジマス」 ・・・安藤輝三調書

・・・ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2  
大臣告示に就いて 

どこに一語でも説得の文句があるか。
吾々をよく云って居る所ばかりではないか、
參議官一同は恐クし、
各閣僚も今後ヒキョウの誠致すと云ってゐるではないか。

吾々は明かに大臣によつて認められた。
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の將校の方へ配布された。

所が大臣告示が変化した。
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした。
そして曰く、
あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた。
そんな馬鹿な話があるか 大臣告示と銘打って出したものが 陸軍として出したものでないとか、
川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか、
豫審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て、
弱って今度は大臣告示は軍事參議官の説得案だと云ひ出した。
どこ迄も逃げをはるのだ。
そんな馬鹿な話しがあるか、
あの文面のどこに説得の意があるか、
行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか、
行動を認める説得と云ふものがあるか、
吾人は放火殺人をしてゐるのだ、
その行動を認めると云ふのだ、
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ、
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか、
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか、
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を眞意に訂正したと云ふのだ、
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ、
此処か面白い所だ、
即ち、最初はたしかに全參議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ、
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ、
第一印象は常に正しい、
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか、
軍事參議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事實はもうどうにも動かせぬではないか、


3  
戒嚴軍隊に編入されたること 
二月廿七日 吾人は戒嚴軍隊に編入され  
午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った。
・・・命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備ニ任ズ 」 
戒嚴は 天皇の宣告されるものだ。
その軍隊に編入されたと云ふことは 御上が義軍の義擧を許された、
御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ。

吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た。
続いて戒嚴軍隊に編入されて戒嚴命令により警備に任じた、
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである。
反亂罪にとはるゝ筈はないのだ。
然るに軍部は氣が狂ったのか、大臣告示は説得案と云ひ、
戒嚴軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反亂罪にかけてしまつた。

4  豫審について 
豫審官は決して正しい調へをしようとしなかつた。
自分の考へてゐることに 余を引き入れて 豫審調書を作成しようとした態度がありありと見えた。
それで余はコレデハタマラヌと考へたので、
「 一體吾々は義軍であるか否か  即ち吾人の行爲は認められたか否かと云ふことを調査せずに
 徒らに行動事實をしらべて何になるか。
吾人は反軍ではない反亂罪にとはるゝ道理はないのに、反亂罪の調査ばかりすると云ふのは以ての外だ 」
との意をのべたら豫審官は
「 君等の行爲は軍中央部に認められる以前に於て反亂だ 」
と 極く簡短に答へて シキリに行動事實だけを調べようとするのであつた。

[ 註 君等の行動ハ軍中央部ニ認メラルヽ前ニ於テ既ニ叛亂ダト云ケレドモ
ソレ程明瞭ナル反軍ニナゼアノ如き大臣告示ヲ出シタカ
又戒嚴軍ニ入レ警備ヲ命ジタカト云フコトハ公判ニ於テ陳述セリ ]・・・欄外記入


5  
公判について  
村、安、余、栗等はコソコソと公判の對策を打ち合せした。
流石に同志はえらい 皆期せずして一致していた。
1、奉勅命令の下達サレザルコトヲ主張スルコト
 大命に抗シタルニ非ずと云ふことを第一に主張スルコト
2、大臣告示を受けたことを主張シ行動を認められたる旨を充分に陳ベルコト
3、戒嚴軍に編入し警備命令をうけて守備をした事を主張スルコト
要点は右の三条であった

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・・・挿入・・・

「 いよいよ法廷に立ったときは、
 すっかり達観して死を待って居るかの如く至極簡單に淡々と陳述する者もありますし、
せめて裁判官にでも昭和維新の理念をたたきこんでやろうとするかの如く熱烈に陳述する者もあり、
神がかり的にその信念を縷々と述べる者もありました。
又 多少行き過ぎを自認した發言をする者も二、三ありました。
非公開なのは彼等の心残りであったのでしょう。
・・中略 ・・
彼等は政財界、重臣の腐敗、幕僚ファッショを衝きます。
それを調べずして裁判は出来ないと主張します。
・・中略 ・・
私達も暗黙の裡に、彼等の指摘する情勢については憂を同じくするところもありましたが 」
・・当時、特設軍法会議の半士・間野俊夫 ( 陸士33期、当時陸軍歩兵大尉 )

「 私は判士の一番末席にいて あまり被告とやり合った事はないが、

 被告から陸軍大臣告示や警備部隊編入のことを突かれると、判士は ぐっと詰る。
被告の言うことが眞実なのだ。
しかし、それを認めるとなると陸軍の上層部はみな叛乱罪か、叛乱に利す ということになり、
陸軍は大混乱になり、統制系統は崩壊の危機に立ち去る。
まあ、それを防ぐために必死になってやり合ったわけだ。
実際はあの時 上層部の二、三名が自決して責任をとっておれば 事態はもっと変ったであろうが、
無責任な将軍たちばかりだった。
この無責任な體質がついに陸軍をして大東亜戦争にまで暴走させてしまったのだ 」
・・当時、特設軍法会議の補助判士であった河辺忠三郎 談
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原因、動キ、思想、信念等は抜きにして事実シン理に入るのだ 暴も甚しい。
余は休ケイ時間に村兄に耳うちして
「 事實の陳述をやめて原因動キをのべる事を主とされよ、
 而して 彼の公判即決主義を打破せよ 公判はユツクリと充分に陳述せざれば不可である。
裁判官の云ふとほりにするとヒドイ目にアフゾ
彼等は公判を短時日にやつて少数者の極刑主義をとるのだから吾人はソノ裏をかくを要する。
成る可く彼等のキキタガル行動事實の陳述をアトニして
原因、動キ、思想信念を永々とのべ公判日時のセン延をハカル事、
又 少數者の極刑主義をとるにちがひないから 吾人は多數を処刑セネハナラヌ様にスルコト
ソシテ遂ニハ手ガツケラレナイ程ニ拡ゲテユクコト
コレガ爲メニハドウシテモ先ヅ第一ニ日時ノ遷延をハカラネバイケナイ
ソシテ村兄は先頭第一の訊問ダカラ敵の情況ヲモ偵察シツヽ陳述シテホシイ、
尚同志教育ま必要モアルカラ成ル可くクワシク ユツクリと陳述シテホシイ
同志教育ト云フノハ國家内外の客観情勢を同志によく知らして腹ゴシラヘをさせるのだ 」
との 意をのべた。  村兄 余の意見をとり陳述をス。

余は村兄に維新の意義 革命の哲学を説けと云ひて次の意見を具申す。
「 維新とは大義を明かにすることだ。
 日本的革命の哲学は皇権の奪取奉還である。
即ち兵馬大權が元老重臣軍閥等によつて侵されてゐるのを
大義にめざめたる文武の忠臣良ヒツが奪取奉還する事を維新と云ふのだ。
政治大權が政ト財バツによつて侵されたるを、
自覚國民 自主(民主)國民が奪取奉還することを維新と云ふのだ。
この点を説明してやらぬと裁官は全くワカラヌラシイ 
特に 統帥權の干犯者を斬って皇權を奪取奉還せる義軍事件の中心精神を説かれよ、」 と
村兄余の意見をとり 堂々の論を吐く。

余は初めからケンカのつもりで出た。
年齢 出生地等型の如き訊問をおわりたるのち裁判官に質問と称して
「 一體裁判官は何を基ソとして公判の訊問をするのだ、
 吾々に對する豫審はズサン極まるものである、
特に余の豫審の如きは未だ要点を陳べてゐない 又 事實と相違せる点も多々ある、
此くの如き豫審調書を基ソとして公判を開くとは乱暴ではないか、
特ニ吾々が遺憾に考へてゐるのは
吾等は三月一日発表(宮内省)によつて大命に抗し賊名をおびてゐる、
この賊名をおびたまゝでは公判庭で如何に名論雄弁に陳述した所で一切は空である、
ドロボウが仁義道徳をとく様なものだ、だから先づ國賊の汚名をとつてもらいたい、
國賊であるか否かを重点としてもう一度ヨク予審でしらべてもらひたい、
この重大事件を裁くのに國賊であるか否か  義軍なりや否やの調べは全く豫審に於てせずに
國賊なりとの斷定の下に、國賊即反徒 反乱罪と云ふ斷定のもとに公判を開くと云ふことは奇怪至極である
斯の如き公判庭に於て 余は訊問に答へるわけにゆかぬ 」
と 陳べた、
所が裁判官も一寸ヘドモドした様子であつたが
無礼なる藤井は
「 然らば公判を受けぬと云ふのか 受けぬならこちらで推理決定す 」 と 云ふ
コレヲキヽ 余は云ふ可きを知らない。
すべてが制圧的である。
彼等の規定の方針に従へようとして訊問をする、純然たる反徒としての取り調べ振りである。
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・・・挿入 ・・・
憲兵報告・公判狀況 3

午後四時二十五分再開ノ際、
 村中ハ健康上ノ都合ニ依リ休憩ヲ申出デタル爲、 
磯部淺一ノ訊問ニ移リタルガ、

磯部ハ潑剌タル元気ヲ以テ次ノ如ク檢察官ノ公訴事實ヲ反駁スルト共ニ、
裁判官ニ喰ツテカカリ、廷内ニ緊張ノ空気ヲ漂ハセタリ

(1)  檢察官ノ公訴事實ハ我々靑年將校ノ眞精神ヲ没却埋没シアリ。
 即チ、我々蹶起ノ眞精神ハ全然公訴事實ニ現ハサレアラズ。
(2)  國憲ニ反抗セリトノ言葉ヲ使用シアルガ、我々ハ斷ジテ國憲ニ反抗シタルモノニアラズ。
 國體破壊ノ元兇ヲ殪シタリトテ國憲反抗ト謂フベキニアラズ。
大臣官邸ニ宿營シタリトテ國憲反抗ニアラズ。
首相官邸ノ占據ヲ以テ國憲反抗トナスガ、國體破壊ノ元兇ヲ殪シテ其ノ儘其処ニ據リタリトテ、何ガ國憲反抗ナリヤ。
我々ハ國憲反抗ノ解釋ニ苦シムモノナリ。
(3)  奉勅命令ノ違反、之亦奉勅命令ノ發セラレタルコトヲ知ラザル者ニ違反ノ事實アル筈ナシ。
 我々ハ決シテオ上ニ對シ奉リ 弓ヲ引ク者ニアラズ。
我々ヲ賊軍扱ニスルハ奇怪ナリ。
(4)  兵ハ將校ニダマサレテ出動シタリト云フモ、斷ジテダマシタル事實ナシ。
 全ク志ヲ同ウスル者ノ團結ナルコトヲ斷言ス。
(5)  我々ガ小藤大佐ノ隷下ニ入リタルコト、續テ戒嚴部隊ニ編入セラレタルコトハ、 公訴事實ニ全然現ハサレアラズ。
以上五點ハ檢察官ノ公訴事實中承服出來ザル點ナリ。
茲ニ於テ判士長ニオ願ガアル。
斯カル公訴事實豫審ノ取調ヲ基礎トシテ取調ヲ受クレバ、反亂罪トシテ處斷セラルゝハ必然ナリ。
先ヅ 我々ガ義軍ナリヤ否ヤヲ明カニシテ、然ル後ニ取調ヲ進メラレ度シ。

 ト 判士長ニ詰ヨリ、法務官ヲシテ答ヘシムトノ判士長ノ返答ニ依リ、 法務官トノ間ニ押問答アリ
 結局、検察官ト裁判官トノ立場ノ異ルコトヲ諭サレテ承服ス 
・・・  ・・ 第四回公判狀況    昭和11年5月4日 
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6  
求刑と判決  

求刑
山本又、今泉を除き他は全部死刑
山本十五年、今泉七年
一同無言、
同志に話しかけられると、
何に 死はもとより平気だ
と云って 強ひて笑はんとするが その顔はゆがんでゐる。
こんな表情を余は生来始めて見た。
余も亦歪める笑をもらした、泣きたい様な怒りたい様な笑ひだ。
自分で自分の歪んだ表情、顔面の筋肉が不自然に動くのがわかつた、イヤナ気持ダ
無念ダ
シャクニサワル 
が復讐のしようがない。

論告 
は特に出タラ目ダ
民主革命を強行せんとしとあるに至っては一同慄然とした。
吾人の行動を民主革命と称するのだ。
國體を理解し得ない維新を解し得ぬ輩がよつて、たかつて吾人に泥をなすりつけるのだ。

世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない。
又 吾人が満足している名称でもない。
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので 余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ。
名称から享ける印象も決してばかにならぬから、余は豫審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても、
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に強調しておいた。
然らは余等は如何なる名称を欲するか と 云へは 義軍事件 と云ふ名称を欲する
否 欲するではない、事件そのものが義軍の義挙なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ。
余は豫審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した

・・・
二、二六事件等 変てコな名をつけた事は如何にも残念だ 
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『 判決 』  (七月五日)
死刑十七名、
無期五名、
山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ。
余は蹶起同志及全國同志に対してスマヌと云ふ気が強く差し込んで来て食事がとれなくなつた。
特に安ドに対しては誠にすまぬ。
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ。
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない。
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた為めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると 夜昼苦痛で居たゝまらなかつた。
余は只管に祈りを捧げた。

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・・・挿入 ・・・

磯部の遺書の中に 「 特に航空兵大尉の態度最も悪し 」
と 攻撃されている河辺忠三郎は、言う。
「 当時私は間野さんと同じく大尉であったが、下志津の陸軍航空学校の教官をしていた。
元来私は軍人は政治にかかわるべきでないと信じていたから、 決起将校には同情的ではなかった。
軍の統帥をふみにじった怪しからん奴だと憤慨していた。
ところが 軍法法廷で、彼等の陳述を聞いているうちに しだいに彼等に同情するようになった。
國家の腐敗、混乱を見るに忍びず、自らの家庭や生命を犠牲にして國家を建て直そうという 純粋な精神に感動したのだ。
まあ 生命を捨ててかかっている連中は鞏いのだ。
気魄が違う。
中央の幕僚たちがなんとか責任を免れよう、 履歴に傷がついて出世の妨げにならんように
と保身に汲々たる連中とは、天地の開きがある。
やった行爲は誰がみても許せない事だが、蹶起する動機の純粋さに判士たちはみな感激した。
彼等は他日 ( 何十年か後には ) みな 神に祭られる人々だ。
銃殺でなく、昔の武士の切腹のように名誉ある死を賜るようにすべきではないかと説く人もいた。
賛成する人も多かったが、陸軍刑法の定めは動かすことはできん。
ついに銃殺に決まった 」
「 間野さんは 彼等の目は輝いて 『 後を頼む 』 と 言っているように、私は思えました、
と書いているが、 實際に死刑の判決をうけた被告が、無期の判決をうけた者の傍にかけよって
『 おめでとう 、おめでとう  』 と言って慰めていた。
無期の連中は しょんぼり うなだれていた事は はっきり覚えている。
死に遅れて すまない という気持があったのではあるまいか 」
・・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から
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同志は實に偉大だ  特に若い同志に偉大な人物が多い
安田の如きは熱叫 軍の態度を攻撃した。
彼の最後の一言
「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
は 昭和維新を語る後世の徒の銘記すべき名言と云はねばならぬ。
安田はサイトに第一彈をアビセ 渡邊をオソヒ 一人二敵をタホシタル勇豪の同志、
剣に於ける彼の勇は言論にも勇であつた。
余は 彼の言をきゝ 余の云ひたきことを全部云ひツクシテ呉れたるを深謝した。
全同志等シク 兵教育ニヨツテ國家改造の必要を痛感せるを陳べ、  
ソノ兵下士の家庭を思ひ、
窮乏國民の家庭を思ひ、
國家の前途を憂ふるの情誠に痛切なるものあり、
流石専横の裁官も謹聴せざるを得ざる状況があつたのはイサヽカの喜びであつた。


昭和維新 ・ 蹶起の目的

2023年02月08日 14時48分59秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
昭和六年の事、
香田清貞は同期の大蔵栄一に しみじみとそう語った。


昭和4年10月に始まる世界第恐慌は 5年には日本農村に波及する。
米と繭の価格下落に加えて 6年、9年と続けて襲った東北大凶作に依り大被害となった。
米の価格は大正4年の一石40円71銭から、じり貧状態となっており、大恐慌の際にはいっきに17円77銭に暴落した。
繭も大正14年に一貫当り11円25銭であったのが 大恐慌によって昭和9年には2円52銭にまで惨落する。
1920年代後半から農村不況は進行し、1930年代前半に農村の疲弊はその極に達したのである。
借金のカタに差し押さえ、競売 又、収穫以前に出来秋の稲を事前に叩売りしてしまう 「 青田売り 」 が 行われ、
更に娘の身売りまで行われた。
東北地方の農村を中心に小学校の昼食時間に 弁当を持ってこない 「 欠食児童 」 が 大量に発生した
小作争議は急増し、恐慌下の生活破綻のなかで、 中小地主と小作人が小作地をめぐって血みどろの闘いを強いられた

    
小作争議                                                                                         満洲事変 ↑
大正十五年五月一日の早朝、西津軽郡車力村の鎮守の森から、突如として
「 聞け万国の労働者、とどろきわたるメーデーの示威者におこる勝鬨は  未来を告げる  トキの声・・・・」
と、インターナショナルの合唱が起こった。
村の人達は何事が始まったのかと、仕事を捨て、墨も黒々と左記の字句を列記していた。
小作人から田畑を取上げるナ---小作人から飯茶碗を取上げるナ---小作料をまけろ---小作人を人間扱いせヨ---
小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ---等のスローガンを掲げ、それに続く、むしろ旗や赤旗を押し立て、
ケラ ( 箕 ) を着て、縄帯を締め、素草鞋ばきで、手には草刈鎌やタチ ( 田のクロを切る農具 ) を持ち、鍬を肩に担いで、
木造きづくり町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、田茂木、芦野、地元の車力、下牛潟、富萢とみやち方面から、
約六百五十名の農民の大行列が、地元を揺り返が如き、勢で村内をインターナショナルの歌声で、行進した。
これが県下での初めてのメーデーである。 農民組合の発祥の地として、全国通々浦々に新聞等で、車力の名が紹介された。
この有様を二階の窓から見た或地主は 殺される! される!と叫んで家の中を逃げまわり土蔵の長持に隠れたというエピソードを、
いろんな本に書いているが、そうでなく、朝から夜中まで、便所の中に飯も食わずに、かくれていた事は本当で、
家の人がナダメて、やっとのことに、その中から出したという。
この地方は大昔から、二百十日頃になると毎年の如く、季節風が雨と一緒にやってくる。
暴風雨に混って、暗闇の中からドンドンと薄気味悪く鳴り響いてくる太鼓の音と共に、水だ---水だ---と ざわめく、悲痛な人声である。
本村の農民達は素早く種俵や土用俵をかついで、豪雨の中をジャッブ、ジャッブと走って行く足音が、次々と闇の中に吸い込まれた。
翌朝、あの広々とした津軽平野も、大海の如き様相を呈している。千貫の向うと、長泥の北はずれの岩木川の堤防が決裂したという。
人家は床下浸水どころか、軒下近くまで、水につかり、下車力や長泥の人々はマゲ ( 二階のように見せかけているが、様子がない )
で 一夜を明かした位だ。勿論 島立 ( 稲島 ) は流失して、皆無作である。焚出しを舟で運んだ。
土手の決壊の名残に岩木川の堤防沿いの東西に大、小の沼がある。これは今、昔の惨状を物語っている。
また太田山偏東風が続けば、山田川が十三湖より塩水の逆流で川や堰の魚が死んで浮いている。
叭や俵を背負って、それを拾いに行ったものである。無論、稲も枯死した。七分作、五分作、三分作、皆無作とその度合いによって異なった。
大正十二年頃から、内務省直営で、岩木川と山田川の堤防の改修工事が始められており、毎年に惨状が減って来た。
でも偏東風が植付早々吹き続き、綿入や犬の皮を着て田の草取りをし、早期に霜や あられが降ると、
未熟の稲穂が箒ほうきを逆立ちにしたようなものであって、いわゆる凶作である。このように、隔年的に水害と冷害に悩まされる。
減収による小作料の減免を乞うと地主は、弱い者には玄関払い、手答えの小作人には酒肴で誤魔化して、一粒も負けてくれなかった。
地主は数百ヘクターレル、数千ヘクタールを所有し、小作人はこれ等の田畑を借り受けて耕作していた。
その小作料を収納する土蔵を家の前後に、五つも六つも建造した。
小作人は残りの半分で、飯米、医療費、交際費、税金、学費、その他凡ゆるものに振り向けられていた。
田植を終った途端、飯米を不足している農民は三分の二位で、そうしたような窮地におかれていた。
村内には、人の弱みをつけ込んで、米貸し商売をしていたものもいた。現物返しで、一俵につき二斗の利米で、借りて生きて来た。
小作人等は来年の先行きも案じて、濁酒ではなく、清酒を無理して買い込み、利米に添えて持参した。偽ざる姿である。
この仕組はつい最近まで取引していたらしい。数える程少ない小作人のうちで、田植終了直後に、わずかに夏摺臼を廻せば、
人々はあそこの家がマブク ( 裕福 ) になったと注目した。
昔から、十三湖周辺の岩木川下流地域にある。中里町の武田、内潟と肩を並べて車力も冷水害に悩まされて来たことは
多くの津軽の関係史に残っているが、小作人は正に奴隷的存在であったことは云うまでもない。
政治家共は自己の利益のみに没頭し、農村問題対策には無頓着であった。
あれは確かに昭和六年頃だと思うが、東北地方は凶作の年だった。
全国的に不況のどん底におちいり、即ち、農村恐慌が深刻化する一方だった。
男たちは出稼ぎ、女たちは女工や女郎に身売りさせられた。
この最中に満洲事変が勃発した。騒然たる世相の中で、凶作に見舞われたこの地方の人々は、
どん底から更にどん底へつき落された。・・・攻略
・・・『 車力村村史 』 からの 小作争議
農民の窮状 ↓ 
     
     

紺の背広の澁川が熱狂的に叫んだ。
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」  誰かが駆け寄った。  それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」  野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」  澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」  野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」  野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・二月二十八日の幸楽

蹶起趣意書

昭和維新

蹶起の目的
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根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天剣によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。

・・・磯部浅一

今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の独斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此独斷専行を認めらるるか否かは位置に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反乱者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により処斷せらるるものたるを信ず。
・・・
村中孝次    

・ 
維新は天皇大權により發動されるもの 
・ 「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 
・ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」 
・ 蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった 
・ 「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」 

憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』 

・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1 
・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 

澁川善助
宇宙の進化、日本國體の進化は、悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
同志一同の行動は、大御心を上下に徹底し、上下民其所を得て尊皇絶對に邁進し、
皇威を八紘に輝らし 皇恩を四海に浴し乍ら、皇謨翼賛の重責を盡さず、
却って大御心を歪曲し奉りつつある奸臣を除かんとしたるものでありまして、蹶起趣意書の通りであります。
事件を決行しました動機の直接とか間接とか言ふ様なものは、
絶對の境地で行はれたものであり、説明は出来るものではありません。
然し 強いて申せば、
相澤中佐が公判廷に於て、あれ丈言はれたるに拘らず、
國家の上層部、軍上層部、軍幕僚、官僚、財閥、政党等が
何等反省の跡を見受ける事の出来ない事が 直接の原因動機でありますと申されませう。
・・・憲兵訊問調書 から

野中四郎 
迷夢昏々、萬民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶對絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、國内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戰士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ
・・・遺書・天壌無窮  から

村中孝次  
吾等は護國救世の念願抑止難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の擧を敢てせり。
今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒嚴令を宣布し軍政權を樹立して昭和維新を斷行し、
以って 北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を実現するに在りとなすは是悉ことごとく誤れり。
吾人は 「クーデター」 を企圖するものに非ず、
武力を以って政權を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を爲せるものに非ず、
吾人の念願する所は一に昭和維新招來の爲に大義を宣明するに在り。
昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
抑々維新とは國民の精神覺醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。
然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、
自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、
遂に武力を擁して權を専らにせんと企圖するに至る。
而して斯の如くして成立せる國家の改造は、
其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、
國民を頣使し、國民を抑圧して築きたるものは國民自身の城廓なりと思惟する能はず、
民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。
之に反し國民の精神飛躍により、擧世的一大覺醒を以て改造の實現に進むとき、
玆に初めて堅実不退転の建設を見るべく、
外形は学者の机上に於ける空想圖には及ばずと雖も、其の實質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、
吾人は維新とは國民の精神革命を第一義とし、
物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。
而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、實に國體に對する覺醒に在り、
明治維新は各藩志士の間に欝勃として興起せる尊皇心によって成り、 
建武の中興は当時の武士の國體観なく尊皇の大義に昏く滔々私慾に趨りし為、
梟雄尊氏の乗じる所となり敗衂せり。
而して明治末年以降、人心の荒怠と外國思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇國體に、社会理想を発見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔り 「デモクラシー」 を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機關説思想者流の乗じて以て議会中心主義、
憲政常道なる國體背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ一に明治大帝によりて確立復古せられたる國體理想に対する國民的認悟得なきによる、
玆に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事實を捉へ來って、
佐郷屋留雄先ず慨然奮起し、
次で血盟団、五 ・一五両事件の憂國の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、
吾等即ち全國民の魂の奥底より覚醒せしむる爲、
一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、
頃來期する所あり、機縁至って今回の擧を決行せしなり。
藤田東湖の回転史詩に曰く
『 苟も大義を明かにして民心を正せば皇道奚んぞ興起せざるを患んや 』  と。
國體の大義を正し、國民精神の興起を計るはこれ維新の基調、
而して維新の端は玆に発するものにあらずや。
吾人は昭和維新の達成を熱願す、
而して吾人の担當し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、
豈に微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当らんと企圖せるものならんや。
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「クーデター」 は國體破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて大權の發動を強要し奉るが如き結果を招來せば、
至尊の尊嚴、國體の權威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覺悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
國體護持の爲に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち 相澤大尉より 相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意圖は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の實現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
國體を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける國民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。
吾人は軍政權に反対し、
國民の一大覺醒運動による國家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。
吾人は國民運動の前衛戰を敢行したるに留る、
今後全國的、全國民的維新運動が展開せらるべく、
玆に不世出の英傑蔟出、 地涌し大業輔弼の任に当たるべく、 これを真の維新と言ふべし。
國民のこの覺醒運動なくしては、
區々たる軍政府とか或は眞崎内閣、柳川内閣といふが如き出現によって現在の國難を打開し得べけんや

・・・村中孝次・丹心録から

松浦 邁中尉
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は独り青年将校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵教育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ実に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には 何物か溢あふるゝその至純なる農民層の頼むあるは唯 我等青年将校のみ、
我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鉄火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に独り苦しめる老父母を残して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を残して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて帰りをのみ待てる弟妹を残して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。
彼等は唯 「天皇陛下の為に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に応ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生霊を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
・・・
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 から

栗原安秀
「 吾々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特權階級たる重臣財閥官僚政党等が私心を慾ほしい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝國を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中樞を打砕いたのである 」
・・・二十八日夜・幸楽での演説


河野壽
「 磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の ろぼ を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、  と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は嚴然として 飛びついて殺せ といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、
父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せ という たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ 」
・・・第磯部浅一  行動記  第八 

「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
・・・西田税


澁川善助 ・ 道程 ( みちのり )

2023年02月08日 09時08分59秒 | 澁川善助


澁川善助  

澁川善助  道程 ( みちのり )
明治38年
12月9日   福島県若松市七日町にて
海産物問屋を営む 父利吉 母ヨシの長男として生まれる。
 ・・・・                     会津若松市立第二尋常小学校卒業、
  ・・・・                     福島県立会津中学校第二学年を修業、
                              小中学校を首席でとおす。
大正9年
4月1日       仙台陸軍地方幼年学校を首席で入校す。( 第
24期生 )  入校式で入校宣誓文を読む。
大正12年
4月1日     陸軍士官学校予科第三期生として入校す。
                               歩兵を志願し、大正13年11月21日 歩兵科発表。
大正14年
3月14日   同校卒業。  成績は326人中の2番で、恩賜の銀時計を拝受し、
               摂政殿下裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を 「日露戦役ノ世界的影響 」 という題目で行う。・・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
              卒業後、士官候補生として郷土 ・
若松歩兵第29連隊配属。( 6ヶ月間 )
10月1日   陸軍士官学校本科 入校。( 第39期生 )
                入校して間もない頃 西田税と知合、北一輝著 「日本改造法案大綱 」 を読む。
 士官学校卒業写真
昭和2年
4月            同校を退学、同年5月28日士官候補生を免ぜられる。・・・ 澁川善助の士官學校退校理由 
昭和3年
4月            明治大学専門部政治経済科に入学する。
                  「天皇賛美論」 を書いた遠藤友四郎、大森一声等が主宰する 「 錦旗会 」のメンバーとなる。
9月23日     満川亀太郎を訪問。
昭和4年                 「 興国連盟 」 のメンバーとなる。
年10月          明治大学内に 「 興国同志会 」 を設立する。
昭和5年
9月           満川亀太郎塾頭とする 「 興亜学塾 」 の塾生となる。
昭和6年
3月            明大専門部政治経済科卒業。
4月            明大政治経済学部に入学。
8月26日    全国同志将校の会合 「 郷詩会 」 に出席する。 ・・・郷詩会の会合
昭和7年     西田税等と 「 維新同志会 」 を結成し、全面的に革新運動を展開する。
5月15日    五 ・一五事件、裏で策動する。
年7月        明大を退学する。
7年12月    「 敬天塾 」 の塾生となる。
昭和8年
1月            松平紹光 ・植田勇・竹嶌繼夫らによって会津若松市に設立された 「 皇道維新塾 」 の塾長となる。
4月            「 非国難非非常時 」 の小冊子を発刊する。
4月16日     満州に行く。
                  関東軍特務部と 「 在満決行大綱 」 を作成しクーデター計画を立て、
                 そのことで満州にいた菅波大尉に会う。

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「 在満決行計畫大綱 」 は、何人が何時何処で作成したものか
 此時押収の高検領第□号の証第□ 「 在満決行計畫大綱 」 を示したり
昭和八年五、六月頃、澁川善助が満洲國公主嶺の當時の私の官舎に於て作成したものであります。
如何なる事情で作成されたか
私は昭和五、六年頃は満洲國東邊道の匪賊討伐に從事中で、
 澁川が東京から來る事は知つて居たが其の日時に付て  はよく存じませぬでした。
恰度五 ・一五事件の事に附私に聽きたい點があると云ふ軍法會議側からの通知で、
 昭和八年五月末頃新京に出て参りました。
其時澁川は私に會ふべく通化に這入り、途中で知らずに行き違ひました。
私が新京滞在中、澁川は新京に歸り、
其の頃の或る日 公主嶺の私の官舎に澁川が柳沢一二、山際満寿一を聯れて來ました・・・・・
同夜は殆んど徹夜して此相談を爲し、翌日私、山際、柳沢等は新京に出たが、
其の留守中に澁川が自分の持參した満鐵改組の三案を冩し、
之れに 「 在満決行計畫大綱 」 を自ら書いて添へて全部を私の宅へに置て、本人は奉天に出發しました。
私は其の日歸宅して、此残されたものを入手した次第であります。
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昭和8年

11月          「 救國埼玉挺身隊事件 」 で検挙される。 ・・翌年1月14日釈放。
昭和9年
1月        大森一声を道場長とする 「直心道場 」 に所属し、「 核心 」 の同人となる。
20日      絹子と結婚す。
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( 西田と ) 一緒になりましたのは、
大正十五年でございますが、ずいぶん古い話でございますね。
ある資料に、澁川善助さんが
「 命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ 」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。 ・・・天劔党事件 (1) 概要
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
澁川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その澁川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
・・・西田はつ
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10月      「 統天塾事件 」 に関与したとの咎で
             「 鉄砲火薬類取締法施行規則違反 」 で検挙される。・・翌年7月末釈放。
・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕
・・・ 末松の慶事、万歳!!
澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕
昭和10年
8月以降     
国体明徴運動に奔走す
る。 
                 「 相澤中佐事件 」 の裁判に向け奔走する。
12月31日  中村義明宅で忘年会 ・・・
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 
                 大岸頼好大尉等に蹶起に加わることを迫る。
昭和11年
1月26日   石原莞爾大佐を訪ねる。
2月23日    牧野伸顕を偵察するために湯河原へ行く。
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

2月25日    帰京。
・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
2月26日    二・二六事件勃発 外部工作を担当す。・・・澁川善助 ・ 昭和維新情報 
2月28日    12時頃、安藤大尉の居る 赤坂見附山王下料理店 「 幸楽 」 に身を投じる。
                 以降、坂井部隊と行動を共にする。
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うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田 さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、
それで私と押し問答しましたときに渋川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、
いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、
原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。
原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。
あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。
それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。
・・・西田はつ
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澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
・ 
澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 

2月29日    陸相官邸で憲兵により施縄される。・・・ 「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 
7月5日    謀議参与及び群集指揮の罪で死刑判決 ・・・二・二六事件 『 判決 』
7月12日   午前8時34分刑執行

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 


逆賊の名を冠せらるるとも、今にして立たずんば

2023年02月07日 12時53分06秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

村中孝次  
事件の首謀者村中孝次らはもともと平和革命を念じていた。
そのいうところの維新 すなわち国家改造は、軍を主体とする合法的運動の展開に求め、
武力による一挙の革命については、
「 武力行使は國體反逆行為を討伐し大義名分を樹立するを要すべき場合に斷行することを餘期し、
平素よりは武力的迫力によって情勢を誘導指尊す 」
・・( 昭和十年二月七日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
といい、また、
「 たとえ國體を破るの餘儀なき場合に遭遇することがあるにしても、
それは私どもが尋常の人事を盡して尚及ばない場合であり、
その時は國體の大義に立脚して臣子の犠牲的本領を盡すに止まり、
一死挺身して みずから危うきに當り、
みずから法の前に刑死を甘受するの非常の決意の上に立つべき存念であります」
・・( 昭和十年四月二十四日、十一月事件に関連する誣告罪告訴理由書 )
これが彼らの直接行動への心構えであった。
ここでわたしは彼らが 「 国体を破る 」 といっていることに注目したい。
「 国体を破る 」 ことの認識に立っているのである。
しかし、ニ・ニ六がはたして右の基本構想によってなされたものであるかどうかは疑問であるが、
この理念が彼らの思惟の底辺にあったことは疑いないであろう。

右の記述は昭和十年春頃までのものだが、
その夏七月真崎教育総監の罷免、
次いで 八月 相澤事件が突発して彼らは非常な刺激をうけた。
そこでは維新の戦闘は開始されたと見た。
「 ---斥候戦は今や尖兵、前衛の戰闘開始となった。
維新の天機は刻々として着々と動いている。
維新の同志よ、
文久三年八月の非常政変に次いで来った大和、生野の義擧、
禁門戰争の無用なる犠牲に痛心する勿れ。
吾人はひたぶる維新に翼賛すれば足る。
維新のこと、今日を以て愈々本格的に進展飛躍してきた 」

・・( 教育総監更迭事情要点 ・村中孝次 )

もはや、無用なる犠牲に痛心することなく維新の戦列に走せ参ぜよと叫ぶ彼らには、
「 今にしてたたざれば 」 といった感慨がこめられている。
この場合 武力行使、国体破壊の元兇、重臣の討伐が、国体破壊に通じ
天皇の大御心に副うものかどうかは、もはや問題ではなかった。
「 我一介の武弁、いわゆる上層圏の機微を知る由なし。
 ただ神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み殊に畏くも至上を挟みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか、嗚呼、遂に赤子御稜威を仰ぐ能わざるか。
久しく職を帝都軍隊に奉じ一意軍の健全を翹望ぎょうぼうし他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我生來の軟骨滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士 絶體絶命に及んでや、ここに閃発せざるを得ず。
あるいは逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼。
然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん 」
野中四郎

野中四郎大尉の遺書の一節である。
今にして立たずんばとする絶体絶命の境地が躍如として表現されており、
たとえ逆賊の汚名をきても 「 やる 」 というのである。
また、村中孝次も、
「 今回の擧は喫緊不可欠たるを窃に感得して敢えて順逆不二の法門をくぐりしものなり。
もとより一時聖徳に副わざる事あるべきは万々覚悟。
然してこの挙を敢えてせざれば何れの日か、この困難を打開し得んや 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

といい、
さらに、この一挙をかの満洲事変における関東軍の独断専行に比し、
「今次の決行は精神的には同志の集団的行動にして、
形式的には各部隊を指揮せる将校の独斷軍事行動なりしなり。
関東軍の独斷行動とその精神を一にし、後者は張学良軍を作戦目標とし、
餘輩は内敵を攻撃目標とせるの差異あるのみ。
不幸右独断行動が大元帥陛下ま御許容を仰ぐ能わざる場合においては、
明らかに私かに兵力を使用したるものとして、各部隊指揮官たりし将校と、
その独斷行動の籌画に与りしニ、三士とは檀健の罪の嚴罰を甘受すべきは当然とす 」 ・・( 『 続丹心録 』 )

とも書きのこしている。
また、この村中は、事件直後の訊問に答えて、
「 その後四日間にわたりて昼夜陛下の御宸襟を悩まし奉ったことについては、
恐懼措く能わざる所で何とも申訳ない次第であります。
又、陛下御親任の重臣を討ったのでありますから、これまた罪萬死に値する所でありますが 」

とも述べていた。

このように見てくると、この一挙、
重臣抹殺---陛下の信任になる重臣殺害は、大御心に副わないことを覚悟していたことがわかる。
少なくとも一時聖徳を汚すことを予期しての、法の前に刑死覚悟の蹶起であったことがわかる。
すると事が敗れることも彼らの計算の中にあったこととて、今更何を怒り何を恨むのだろうか。
討奸は、すでにみたように、
たとえ逆賊となってもやるといい ( 野中 )、聖慮に副わざることも覚悟の上 ( 村中 ) での決行であった。
だが、一面、彼らの心の中ではこれが許されることも考慮していた。
いや、一時、天皇に苦悩を与えても、次いで来るべき維新の成功によって、
のちには、喜びいただけるものと確信していた。
「 一時宸襟を痛く悩し奉ることも、
直後に来る昭和維新によって従来山積したご苦悩の原因を一挙に払い去ることができて、
直ちに償い奉ることが出來るものと思いましたが、志は全く達せられず
宸襟を悩まし奉る結果にのみおわりました 」・・( 村中孝次訊問調書 )

例によって村中の反省であるがともかくも、
事の成功を信じて一時聖徳を汚しても断乎やることの決行であったのであるから、
そのためにはこの一挙に余程の成算が見込まれなくてはならない。
もちろん、この場合 軍を推進しての維新であるから、陸軍をしてまず維新化することが先決であるが、
同時に宮中輔弼がとくに重要である。
すると彼らはこの宮中輔弼をどのようにしようとしたのか、
みずからが宮中にのりこんで輔弼をあえてしようとしたのか。
「 斬奸後血刀をさげて宮城に參内し、陛下にお目にかかり事態を申し上げ、
昭和維新の斷行をお願いするということはたびたび考えた。
あるいは、こうすることによって、あるいはお許しを得るかもしれないし、
あるいは重臣に御下問になることも考えられるが、何れにしてもお許しをうることができると思っていた。
しかし お上に鞏要云々がおそろしく このような手段にでることができなかった 」

これは、村中が入獄後、
塚本刑務所長に語ったという断片である。
・・・リンク→ 勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし 

村中にしてはこのようなお上に強要する手段を避けたが、これに代る手段は何だったのか。
いわゆる宮中工作、こんな言葉は彼らは口にすることさえ避けていたが、
事実として行なわれ、
また 行なわれようとしたものの一つが、
直接行動としての 「 不逞重臣の参内阻止 」 であった。
このことはあとでくわしく触れるつもりであるが、
彼らがその計画において坂下門における不逞重臣の参内阻止をきめ、
近歩三 中橋基明の一隊が禁闕守衛兵力増強に籍口して宮城内に入り、
わずかな時間であったが、坂下門の警戒に任じた事実がある。
不逞重臣の参内阻止とは重臣の天皇輔翼を妨げ天皇を孤立させることであった。
たとえ重臣の参内入門を許したとしても、それは蹶起軍の息のかかったものに限られるとなると、
もはや宮中の事実上支配ということになる。
しかしこの重臣の参内阻止は、
忠誠心にこりかたまって天皇強要を極度に戒慎したという彼らにしては、
はなはだしい不逞行為であって、
わたしはこれがはたしてどこまでのものであったかを疑うものである。
結局、この参内阻止の効果は、
付近警備に任じていた安藤中隊、あるいは野中中隊のそれとかわることはなかったのであるが。

大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件 から


相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

2023年02月06日 06時02分35秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

しばらくでした。いつこられたんですか。
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい
・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 

事件ノ前夜 (十一日)
私方ニ泊ツタ際、
相澤中佐ハ
「 東京ハ何ウデスカ 」
ト尋ネマスカラ、
「 別ニ變リハアリマセヌ 」
ト答ヘマシタ。

処ガ此一言ノ返事ガ、
相澤中佐ヲシテ永田少将ヲ殺サシメル
一ツノ動機トナツタ様デアリマス。
・・・西田税


相澤三郎 
( 永田軍務局長刺殺事件 )
相澤中佐事件

目次

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「 永田鐵山のことですか 」 
・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」 
・ 
「 年寄りから、先ですよ 」 
 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1 
・ 
昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
・ 永田軍務局長刺殺事件 
・ 
永田伏誅ノ眞相 

・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」 
・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室に入る 」 
・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長と向ひ合っていた 」 
・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」 
・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」 
・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ(大事) だ 」 
・ 
軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」 

 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」

・ 犯人は某中佐 
「 相澤さんが永田少将をやったよ 」
・ 
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 

・ 相澤三郎中佐の追悼錄 

 
  相澤三郎 發 西田税

法務官訊問 『 被告人ガ入手シタ如何ナル物ガ殺害決意ニ刺戟ヲ与ヘタルカ 』 
・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」 

相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 
・ 満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る經緯 

・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 
・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆弾發言 
・ 
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
・ 新聞報道 ・ 第三回公判 『永田鐵山は惡魔の總司令部 』
・ 『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』
・・眞崎甚三郎大将
満井特別辯護人ノ證人申請

・ 
相澤三郎 ・上告趣意書 1
・ 相澤三郎 ・上告趣意書 2

・ 
判決 『 被告人を死刑に處す 』 

本朝のこと寸毫も罪惡なし 

「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を單に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本國民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に、關聯を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、經濟、民族の發展に關する根本問題にも触れるものがありまして、
實にその深刻にして眞摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
・・・ 
注目すべき鵜沢博士の所論

絶對の境地
相澤中佐が 昭和一〇年正月に天誅を決意した頃のメモに、
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら  已むに已まれぬ  大和魂 』
と 書き付けてあった
『 かくすれば  かくなるものと  知りながら 』
と 云ふことは、
理智から出た処の頭のよさを示すもので、
この俗智の境を越境した時に、
『 やむにやまれぬ大和魂  』
即ち まつろはぬ者 を討つ心、
天に代りて不義を討つ心 が生れてくるのである
この 境地に進むには俗智の人では出來ぬ
よほど透徹した 頭のよい人でないと出來ないのである
俗智小智でなく、
小我小欲を離れた大智大我の人でなくては 達成せらぬのである
・・相澤事件の真相 ( 菅原裕  著 )

まつろひ
祭る  祀る  に 由來し、
『 神を祭り、祖先を祀るときの心境であり、祖先をお祀りの所の心境を
私もなく、邪念もなく、全く之なし 』 の 無私の精神のこと  ・・皇魂から


村中孝次 『 勤皇道樂の慣れの果てか 』

2022年12月22日 01時01分01秒 | 村中孝次

磯部が言う。
「 村中さん、おとなしくしていれば陸大を出て、今頃は參謀ですなあ 」
村中が答える。
「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
一同は アッハッハと大笑いする。
(大西郷の言葉を借用していたので)

・・・村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 


村中孝次  ムラナカ タカジ
『 勤皇道樂の慣れの果てか 』
目次

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・ 昭和維新 ・村中孝次 (一) 粛軍に關する意見書
・ 昭和維新 ・村中孝次 (二) 赤子の微衷
・ 
昭和維新 ・村中孝次 (三) 丹心錄 

維新の原理―方法論
一君萬民、君民一體、一國一家、共存共栄の原則に立つ日本國家の維新は必然、

此の原則によって發展されねばならぬ。
即ち天皇を至高中心とする君民一體の國家的躍進たるべく、
國家のものの理想と時勢の 進運に伴って實現せんとする
君民一體の國家意思の躍進的發動たるべきである。
維新は天皇を無視除外せる臣民的國民のみの大衆行動に非ず。
臣民的國民を除外せる天皇の独裁に非ず。
國民中の或る階級分子の専制であってはならぬ、一體的君民の國民行動である。
先覺的國民の先駆誘導による擧國的躍進行動で天皇は其中心指令者、
全國國民は是を協翼する本隊員である、
此の行動は國家原理維新原理に深刻正当な理解を把握して國家の格階層全分野より 起り
上下左右強力して進めることが必要である。
維新とは又より高き現実の實現である、
現實を否認すると共に此の否認する現實を基点としてのより高き明日の現實への躍進である
從って形式的復古でなく非現實的改革でないのは固よりである。
維新の具體的原則
1 政治的原則 一君萬民、君民共治、天皇親裁、 國民翼賛議会政党

 (自主的國民の政治的意見の自由は政党を作ることがあり得 )
國民の自由発展 (進化の原則である)
2 経済的原則 國民各自の自由發展の物質的基本の保証、自主的個人の人格的基礎の確立、
 國家の最高意思による私有財産土地企業の限度―経済的封建制の廃止
( 現政党の否認は財閥との結託により大政党を組織して居ることによる弊害大なるが故である )
3 軍事的原則 ( 國家最高意思による統一 )
 消極的國防の観念を排し建國の理想世界的使命の實現の爲めの積極的実力の充實、國家の國際的生存權の主張
二月十八日   村中孝次

・・・
村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信

國防の本義と其強化の提唱に就て
陸軍が其総意を以て公式に 經済機構變革を宣明したるは建國未曾有のこと

昭和維新の氣運は劃期的進展を見たりと謂うべし。
( 水戸藩主が天下の副將軍を以て尊皇を唱えたるよりも島津侯が公武合體を捨て
尊皇統幕を宣言したるよりも大なる維新氣勢の確信なり )
陸軍は終に維新のルビコンを渡れるシーザーなり。
内容に抽象的不完全の點なきに非ずと雖も具體的充實化は今後の努力にあり。
我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し拡大し強化するを要す。
之が方策の一、二例左の如し。
イ、該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
 郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、國防國策研究 ( 本冊子をテキストとして ) の集會を盛に行うこと
ハ、各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に活行突破要請を具申建白すること
ニ、 農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること
一般情勢判斷に就て
イ、陸海軍軍事予算竝國民救濟豫算 ( 臨時議會提出及十年度分 ) 手呈的に支援し
要求貫徹を計ること
ロ、在満機関紙海軍軍縮廢棄通告の實現を促進すること
ハ、所在同憂同志諸士を正算結集し非常時におうずる準備を着々整うること
ニ、可能なる限り在京同志と密度なる聯絡をとること
ホ、冷鐡の判斷行動と焦魂の熱意努力とを以て日夜兼行り奔走を敢行すること
 「 一息の間斷なく一刻の急忙なきは即ち是れ天地の気象 」 とは吾曹同志の採って以て日常の軌道とすべきなり。
降魔斬鬼救世済人の菩薩が湧出すべき大地震裂の時は恐らく遠からずと想望され候
日夜不撓為すべきを爲し、盡くすべきを盡くし 以て維新奉公の赤心に活くべく
お互いに精遊驀往可仕候     十月五日  村中孝次
・・・
村中孝次 『 国防の本義と其強化の提唱について 』 

陸軍士官學校予科區隊長 ・ 村中孝次 
「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」 
「 粛啓壮候 」 と冒頭せるもの
 村中孝次 『 全皇軍青年將校に檄す 』 
改造法案は金科玉条なのか 

・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」
・ 村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」 
十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 ) 
 ・ 所謂 十一月二十日事件
 ・ 十一月二十日事件の經緯
 ・ 法務官 島田朋三郎 「 不起訴處分の命令相成然と思料す 」
 ・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」
 ・ 村中孝次 「 カイジョウロウカクみたいなものだ 」
 ・ 士官候補生の十一月二十日事件
 ・ 栗原中尉と十一月二十日事件
 ・ 憲兵 塚本誠の陸軍士官學校事件
 ・ 十一月二十日事件をデッチあげたのは誰か
 ・ 十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した
 ・ 辻正信大尉
 ・ 正面衝突 ・ 村中孝次の決意
 ・ 粛軍に關する意見書
 ・ 栗原中尉と齋藤瀏少將 「 愈々 正面衝突になりました 」
 ・ 三角友幾 ・ 辻正信に抗議
 ・ 候補生 ・ 武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」
 ・ 荒木貞夫が見た十一月二十日事件
 
正面衝突 ・ 村中孝次の決意
 粛軍に關する意見書


教育總監更迭事情要点 ・村中孝次 
村中孝次 發 川島義之 宛 


野中大尉の決意書を
村中が之を骨子として、
蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の
人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
・・・磯部浅一 ・ 行動記  第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

吾人の蹶起の目的は 『 蹶起趣意書 』 に明記せるが如し。
本趣意書は二月二十四日、
北一輝氏宅の仏間、

明治大帝御尊象の御前に於て神仏照覧の下に、
( 村中孝次 ) の起草せるもの、

或は不文にして意を盡すと雖も、
一貫せる大精神に於ては
天地神冥を欺かざる同志一同の至誠衷情の流路なるを信ず。

・・・村中孝次、丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 


「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 
・ 帝國ホテルの會合
・ 西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』 
・ 村中孝次の四日間 1 

・ 村中孝次の四日間 2 

歯ぎしりする村中

この後の二時間近くを、私はどこでどう過したかを今となっては覚えていない。
二十七日の夜九時ごろ、
鐡道大臣官舎 ( 伊藤公の銅像のある西方約百メートル ) の 前で、バッタリ 村中孝次に会った。
彼は既に免官になっていたのだが、歩兵大尉の軍服を着て小柄な身体をマントに包んでいた。
兵隊を一人連れていたが巡察の途中だという。
あいさつもぬきにして、村中が私を見るなり、
「 おい、牧野 ( 伸顕伯 ) は どうした?生きたか死んだか ? 」
と 問いかけて来た。
牧野が無事脱出したことは、昼間見た社の情景で知ってはいたが
村中のこの決死の形相を見て私は事実を告げるわけにも行かなくなった。
といって、嘘もつけない。
モゴモゴ口籠っている私を見ると、
鋭敏な彼は早くも事の失敗を察知して、歯がみをして口惜しがった。
小さな体を震わして、
「 牧野を逃がしたのかウーム・・・・・失敗か 」
東北弁で歯ぎしりしながら語る村中のことばはよく聞きとれなかったが、
こうしている間も もどかしいという風に、私の手をグッと握ると後はもう何もいわず、
鐡道大臣官舎の門の中へ消えて行った。
後ろ姿は妙に寂しかった。
・・・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている」 

・ 村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に從わねばならん 」 
・ 「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 

裁判官は檢察官の陳述せる公訴事實
竝に豫審に於ける取調を基礎として訊問せらるる様なるも、
檢察官の陳述せる公訴事實には
前回迄に申述べたる如く蹶起の目的其の他に相違の點あり。
又、豫審に於ける取調は急がれたる關係上
我々の気持を十分述ぶる餘裕を与へられざりしを以て
我々は公判廷に於て十分なる陳述を爲し度き考なれば、
白紙となりて十分陳述の餘裕を与へられ度、
殊に當軍法會議に於ては弁護人を許されざるを以て
我々は自分で弁護人の役目も果たさねばならず、
而も弁護人と異なり身體の自由を有せざるを以て
弁護の資料を得ること能はざる不利なる立場に在り。
此等の点點を御諒察の上、陳述の機會及餘裕を十分に与へられ度し。
今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の獨斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此獨斷専行を認めらるるか否かは一に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反亂者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により處斷せらるるものたるを信ず。
・・・ 反駁 ・ 村中孝次 

村中孝次 ・ 丹心錄 
 ・ 丹心錄 「 吾人はクーデターを企圖するものに非ず 」
 ・ 続丹心錄 「 死刑は既定の方針だから 」
 ・ 続丹心錄 「 この十年は昼食、教科書官給の十年なり、貧困家庭の子弟と雖も學び得る十年なり 」
 ・ 続丹心錄 ・第一 「 敢て順逆不二の法門をくぐりしものなり 」
 ・ 続丹心錄 ・第二 「 奉勑命令は未だ下達されず 」
 ・ 続丹心錄 ・第三 「 我々を救けやうとして弱い心を起してはいけません 」
 ・ 続丹心錄 ・第四、五、六  「吾人が戰ひ來りしものは國體本然の眞姿顯現にあり 」
 ・ 村中孝次 ・ 同志に告ぐ 「 前衛は全滅せり 」

 青年 村中孝次 「 自己を知り、自我を養ふ 」 
・ あを雲の涯 (三) 村中孝次
・ 村中孝次 ・妻 静子との最後の面會
・ 昭和12年8月19日 (三) 村中孝次大尉

「 勝つ方法としては上部工作などの面倒を避け、
襲撃直後すかさず血刀を提げて宮中に參内し、
畏れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、
あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。
陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、
重臣らにおはかりになるかも知れない、
いわゆる御前會議を經ることになれば、
成果はどうなるか分からないが、
そのような手續きを取らずに、おそらく御許しを得て奏功確實を信じていた。
この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、
気でも狂ったら別だが、至尊鞏要の言葉が怖ろしい。
たとへ 御許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、勝利はこちらにあったと思う。
飛電により全國の軍人、民間同志が續々と上京するはずだ。
しかし、今考えて見れば銃殺のケイ よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。
北先生からも  『 上を鞏要し奉ることは絶對にいけない 』 と聞かされていた。
この方法で勝っても、その一歩先に、
陛下のために國家のために起ったその忠誠が零になるわけだ、矢張り負けて良かったとも考えている。
勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり。
・・・ 勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし

いろいろと娑婆からここに来るまで戰つてきましたが、
今日になって過去一切を靜かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純眞な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、
しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を
維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、
擧軍一體の維新態勢にもって來なくてはなりません。
れわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に關する意見書 』 のごときも全くこの意圖に出たものでしたが、
ただ、返ってきたものはわれわれへの彈壓だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。
維新は先ず陸軍から斷行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りはわれわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、

れらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し國を滅ぼすものであることを信じて疑いません

・・・
「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」 


磯部淺一 『 俺は革命をやる 』

2022年12月20日 13時57分00秒 | 磯部淺一

「 男子にしかできないのは 戦争と革命だ 」
と、佐々木二郎の言葉に
「 ウーン、俺は革命の方をやる 」
と、磯部浅一は大きく肯いた
・・・
男児の本懐 


磯部淺一  イソベ アサイチ
『 俺は革命をやる 』
目次

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磯部淺一 『 日本改造法案は金科玉条 』 

・ 昭和維新 ・磯部淺一 (一) 赤子の微衷
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (二) 行動記
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (三) 獄中手記
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (四) 獄中手記、獄中からの通信 


やがて西田の心が、
燃えさかるような炎からじっくり志を育て実らせる地熱へ変って参りましたあとへ、
青年時代の西田そのままの磯部さんが登場し、
代って座を占めたという実感を、
すぐ傍に居りましたわたくしはもっております。  ・・西田はつ

・ 磯部淺一 『 國民の苦境を救うものは大御心だけだ 』 
磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」 
夢見る昭和維新の星々 
・ もう待ちきれん 
・ « 青山三丁目のアジト » 

・ 磯部手記 
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
『 栗原中尉の決意 』 
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 

二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、
野中大尉の宅で村中と余と三人会ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に来てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・行動記

・ 磯部淺一 ・ 行動記 

・ 「ブッタ斬るゾ !!」
・ 「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」
・ 行動記 ・「 國家人なし、勇將眞崎あり 」 
磯部淺一 「おい、林、參謀本部を襲撃しよう 」
・ 村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 
磯部淺一 「 宇多! きさまどうする?」 

・ 磯部淺一の四日間 1
・ 磯部淺一の四日間 2 

根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天劔によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新
派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。


 磯部淺一 訊問調書 1 昭和11年4月13日 「 眞崎大將のこと 」 
・ 磯部淺一 憲兵聴取書 2 昭和11年5月8日 「 眞崎大將の事 」 
・ 磯部淺一 憲兵聴取書 3 昭和11年5月17日 「 事前工作と西園寺襲撃中止 」 
・ 反駁 ・ 磯部淺一 村中孝次 香田清貞 丹生誠忠 
暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 3  磯部淺一 「 余は初めからケンカのつもりで出た 」
 1、 奉勅命令について
 2、大臣告示に就いて
 3、戒嚴軍隊に編入されたること
 4、豫審について
 5、公判について
 6、求刑と判決

・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』

・ 磯部淺一 ・ 獄中手記 
・ 磯部淺一 獄中日記
・ 
磯部淺一 ・ 獄中からの通信 

陛下
なぜもつと民を御らんになりませんか、
日本國民の九割は貧苦にしなびて、おこる元氣もないのでありますぞ
陛下がどうしても菱海の申し條を御ききとどけ下さらねばいたし方御座いません、
菱海は再び、陛下側近の賊を討つまでであります、
今度こそは
宮中にしのび込んででも、
陛下の大御前ででも、
きつと側近の奸を討ちとります
恐らく 陛下は 
陛下の御前を血に染める程の事をせねば、
御氣付き遊ばさぬでありませう、
悲しい事でありますが、 
陛下の爲、
皇祖皇宗の爲、
仕方ありません、
菱海は必ずやりますぞ
悪臣どもの上奏した事をそのまゝうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は、不明であられると云ふことはまぬかれません、
此の如き不明を御重ね遊ばすと、神々の御いかりにふれますぞ、
如何に 陛下でも、神の道を御ふみちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります
統帥權を干犯した程の大それた國賊どもを御近づけ遊ばすものでありますから、
二月事件が起こったのでありますぞ、
佐郷屋、相澤が決死挺身して國體を守り、統帥權を守ったのでありますのに、
かんじんかなめの 陛下がよくよくその事情を御きわめ遊ばさないで、
何時迄も國賊の云ひなりなつて御座られますから、
日本がよく治まらないで常にガタガタして、
そこここで特權階級をつけねらつてゐるのでありますぞ、
・・・獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」 

天皇陛下
何と云ふ御失政で御座りますか、
何故奸臣を遠ざけて、忠烈無雙 ムソウ の士を御召し下さりませぬか
八百萬の神々、何をボンヤリして御座るのだ、
何故御いたましい陛下を御守り下さらなぬのだ
これが余の最初から最古背迄の言葉だ
日本國中の者どもが、一人のこらず陛下にいつはりの忠をするとも、
余一人は眞の忠道を守る、
眞の忠道とは正義直諫をすることだ
明治元年十月十七日の正義直諫の詔に宣く
「 凡そ事の得失可否は宣しく正義直諫、朕が心を啓沃すべし 」 と
・・・ 獄中日記 (四) 八月十五日「 俺は一人、惡の神になつて仇を討つのだ 」


磯部は事件の經過や、裁判の實情を看守の目をぬすんで書き出した。

世の人々に事件の眞實を知って貰い、日本の維新をやって貰いたいために。
そして在るべき天皇を胸に描き現實の天皇を磯部は激しい諫争の言葉をもって訴えた。
それは絶望必死の叫喚である。
「 日本國中の者どもが、一人のこらず陛下にいつはりの忠をするとも、
余一人は眞の忠道を守る。眞の忠道とは正義直諫することだ 」 と。
嗚呼!・・・佐々木二郎 

「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」 
・ 
磯部淺一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
・ 
磯部淺一 發 西田はつ 宛 ( 昭和十一年八月十六日 ) 
・ 磯部淺一 ・ 妻 登美子との最後の面会
・ 磯部淺一 ・ 家族への遺書
あを雲の涯 (四) 磯部淺一 
磯部淺一、登美子の墓 

昭和十二年三月、二・二六で無罪で帰隊したが停職になったので、
羅南在住十年の名残りに町を散歩し、美代治を思い出して三州桜に訪ねた。
彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部にふれた。
「 サーさん、あの人はどうなりました 」
「 ウン、今頃は銃殺されとるかも知れん 」
「 私はあのとき、初めて人間らしく扱われました。
 誰が何といってもあの人は正しい立派な人です。一生私は忘れません 」
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」
といった磯部の一言が、これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。

底辺とか苦界とか、 口にいってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、苦闘した前半生から滲み出た一言で、彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
当時、少し気障なことだとチラリ脳裡を掠めた私の考えは、私自身の足りなさであったと思い知らされた。
・・・
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」


磯部淺一 『 日本改造法案は金科玉条 』

2022年12月19日 13時49分43秒 | 磯部淺一

日本改造法案大綱 は絶對の眞理だ。
一点一画の毀劫きごうを許さぬ。
今回死したる同志中でも、
改造方案に對する理解の不徹底なる者が多かった。

又 残ってゐる多数同志も、
殆どすべてがアヤフヤであり、天狗である。

だから余は、
革命日本の爲に同志は方案の心理を唱へることに終始せなければならぬと 云ふことを云ひ残しておくのだ。
方案は我が革党のコーランだ。
剣であつてコーランのないマホメットはあなどるべしだ。
同志諸君、コーランを忘却して何とする、
方案は大体いいが字句がわるいと云ふことなかれ。
民主主義と云ふは然らずと遁辞(トンジ)を設くるなかれ。
堂々と法案の一字一句を主張せよ。
一點一畫の譲歩もするな。
而して、特に日本が明治以後近代的民主國なることを主張して、一切の敵類を滅亡させよ。
・・・獄中日記 (四) ・・八月廿一日


磯部淺一 
「 男子にしかできないのは 戦争と革命だ 」
と、佐々木二郎の言葉に
「 ウーン、俺は革命の方をやる 」
と、磯部淺一は大きく肯いた

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( 末松太平 ) はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、
北一輝の 『 日本改造法案大綱  』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。 だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。 座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。
しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。
・・
改造方案は金科玉条なのか
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特に力を入れたるは日本改造法案大綱 の説明であつた。
「 日本改造法案は絶對正しい。
 日本の國體を具体化した場合には政治經済外交軍事は改造法案云へる如くなる可きであつて
國體の眞姿顯現とは実に日本改造法案の實現にあると云って過言でない。
然し余は今は直ちに法案を実施しようと云ふのではない、
法案について世間に誤解され易い点 三、四を説明する。
1、民主主義と云ふことについて
日本は明治以後國民の人權を認められて中世の如き奴隷國民ではなくなつた、
忠誠王侯貴族に切り棄て御免めにされた水呑ミ百姓が
今は一國の總理大臣と法庭で争へる程の國民人權を認められたのだ。
この意味に於て明治以降の日本は天皇を中心とせる民主國になつたのだ。
天皇を中心とせる
と云ふことに注意してもらいたい、
どこ迄も天皇が中心である。
北氏の云ふ所の民主とはデモクラシー民主でもなく共産民主でもない。
國家社会主義でもなく講だん社会主義でもないことは、
北氏自らが國體論の諸言中に所謂民主主義を痛撃してゐるのを以てもわかる。
改造法案を一貫する思想は實に天皇中心主義である。
明治以降の日本は天皇を政治的の中心とせる云云と云ひ、
天皇大權の發動により國家改造にうつる云云、
天皇は全國に戒嚴を宣し云云 等々、
すべて天皇が國民の中心であらせられる可きを強調している。
民主と云ふことは自主と云ふこと、
自覺と云ふこと、
奴隷に非ざる自覺國民と云ふことである。
更に語をかへて云へば立權と云ふことに過ぎぬ。
明治以後の日本は天皇を政治的中心とせる立權國であると云ふ迄の事である。
何故に民主云ふ字を特に北氏が用ひたかと云うと、
大正年間アノ滔々タル社会主義民主主義をタタク爲に、
「 何にッ外國の直譯民主、社會主義か何ダ 日本はすでに明治維新以後立權國となり
天皇を中心とせる民主國になつてゐるではないか 何をアワテテ新シガルのだ 」
と 云ふ意味で
所謂 直譯民主社會主義をたゝく爲に民主と云ふ字をワザと用ひたのだ。
北氏の高い心境に平素少しでもふれるとハッキリする、
北氏は非常な信仰生活をしてゐる。
その信仰から日本は神國であると云ふことを口癖の様に云ふ、
この一言で充分にわかるではないか。

2、天皇は國民の總代表 國家の根性 について
天皇は國民の總代表と云ふことを外國の大統領の如くに考へるのはどうかしている。
法案の註の一に日本天皇は外國の如き投票當選による總代表ではない、
日本はかゝる國體にもあらずと明言している。
且つ國家の總代表が投票當選によるものと或る特異なる一人(日本の如き)のものと比して、
日本天皇は國民の神格的信任の上に立たれる所の絶對の存在であることを云ってゐる。
日本に於ては天皇か國民の總代表で誰も天皇に代ることは出來ないのだ。
中世に於ては 國民の代表か徳川大君であつたり足利義満であつたりした。
此の如きは絶對に日本の國體に入れないと云ふことを斷言したのだ、
改造法案を讀む者がこの点をよく讀んでいないので常に變な誤解をする。

3、國體に三段の進化があると云ふこと
これは云ふ迄もない
國體には三段の進化がある。
軍人勅ユの前文に明かに三段の進化を詔せられている。
國體とは三種神器そのもののみではない、
法的には主權の所在を國體と云ふのだ。
中世に於て主權の所在は武家にあつた、
軍人勅ユに 「 政治の大權も又その手に落ち 」 と 詔せられているではないか。
これは明かに武門が政治大權を握り天皇は皇權を喪失しておられた事を意味するのだ。
・・・獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 


ヒットラー流ドイツ式統制の幕僚等が、
改造法案は民主主義だ、國體に容れない、
等々愚劣極まる評をしておりますが、
思想は斷じて正しく、
歴史の進化哲学に立脚せる社會改造説、
日本精神の近代的表現、
大乗佛教の政治的展開であって、

改造法案の如きは實に日本國體にピッタリと一致しております。
否 我が國體そのものを國家組織として、
政經機構として表現したものが、日本改造法案であるのです。

決して、外來の社會主義思想でなく、又 米國に露國に見る如き民主、共産思想でもないのです。
北氏は著書 「 國體論 」 に 於て
『 本書の力を用ひたる所は所謂講壇社會主義と云ひ、 國家社會主義と稱せられる鵺的(ヌエテキ)思想の軀逐なり 』
と 云ひ、
『 著者の社會主義は固よりマルクスの社會主義と云ふものにあらず、
又 その民主主義は固よりルソーの民主主義と云ふものに非ず 』
と 云ひ、
先覺者的大信念を以て 「 國家、國民主義なり 」 と斷じております。
而して國民主義については、
「 國家の部分をなす個人が、其の權威を認識さるることなく、國民主義なるものなく 」
「 權威なき個人の礎石をもつて築かれたる社會は奴隷の集合である 」
と 云ひて、
自覺せる國民、自主的國民を以て國家がつくらねばならぬと鞏調しています。
又 その國家主義については、
「 世界聯邦論は聯合すべき國家の倫理的獨立を單位としてのことなり 」
と 云ひて、
人類進化の單位をどこ迄も國家として、徒らなる世界鞏調主義をたたきつけてゐるのです。
更に改造法案に於ては、
「 若し此の日本改造法案大綱に示されたる原理が、
國家の權利を神聖化するをみて、
 マルクスの階級闘爭説を奉じて對抗し、
或は個人の財産權を神聖化するを見て、
クロポトキンの相互扶助説を戴きて誹議せんと試むる者あるならば、
それは明らかにマルクスとクロポトキンの方が著者よりも馬鹿だから、てんで問題にならないぞ 」
と 云って、
欧米思想の中軸たり近代改造思想の根拠たる二つのものに対し
烈々たる愛國的情熱を以て國家の權利の神聖を叫んでおります。
又曰く
「 國内に於ける無産階級の闘争を容認しつつ、
 獨り國際的無産者の戰爭を侵略主義なり軍國主義なりと考ふる欧米社會主義者は、根本思想の自己矛盾なり 」
「 國際間に於ける無産者たる日本は、彼等(英露)の獨占より奪取する開戰の權利なきや 」
 等飽く迄 直譯社會主義、民主主義、共産主義等の非日本的なるものと戰ひ、
日本精神の新たなる発揚、日本國體の眞姿を顯現せんとしてゐるのです。
北氏が改造法案の結論に於て、
「 國境を撤去したる世界の平和を考ふる各種の主義は、全世界に与へられたる現實の理想ではない。
 現實の理想は何れの國家が世界の大小國家の上に君臨するかと云ふにある。
日本は直約社會主義、民主主義、共産主義などの愚論にまよってゐてはならぬ 」
と 云ひ、
神の如き權威を以て
「 日本民族は主權の原始的意義、統治權の上の最高の統治權が國際的に復活して、
 各國家を統治する最高國家の出現を覺悟すべし 」
と 云って居る所は、
正に我建國の理想たる八紘一宇の大精神を、
現日本に實現せんとする高い愛國心のあらわれであるのです。

以上述べました通りに、
北氏の思想は決して所謂民主々義思想ではないのです。

北、西田氏を殺す為に、
「 絶對に我が國體に容れざる思想 」
と 云ふ文句を頑として入れてゐるのです。
そして彼等は、改造法案の私有財産限度は、
段々限度を低下すると共産主義になるから國體に容れないと云ひ、
皇室財産を没収すると書いてあるから國體に容れぬと云ひ、
天皇が國體の總代表と書いてあるから國體に容れぬと云ひ、
ことごとく故意に曲解し、

無理に理窟つけ、
甚だしきは嘘八百を云って判決をしてしまつたのです。

私有財産については、北氏は
「 私有財産を認むるは、一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社會革命説と、
 社會及人生の理解を根本より異にするを以て也 」
と 言ひ、
「 私有財産を尊重せざる社會主義は、如何なる議論を長論大著に構成するにせよ、
 要するに原始的共産時代の回顧のみ 」
と 言ひ、
「 私有財産を確認するが故に、尠しも(スコシモ)平等的共産主義に傾向せず 」
と 云ひ
「 此の日本改造法案を一貫する原理は、國民の財産所有權を否定する者に非ずして、
全國民に其の所有權を保障し享楽せしめんとするにあり 」
等、至る所に、重ね重ねて、私有財産を確認せねばいけないと云ふことを云っております。
又、その限度については、
「 最小限度の生活基準に立脚せる諸多の社會改造説に對して、
 最高限度の活動權域を規定したる根本精神を了解すべし 」
と云って、限度を低下さしてはいけない。
此の限度は國富と共に向上させる可き性質のものであることを明言して居ります。
法務官等の云ふ、限度を低下すると共産主義になる等は、出鱈目も甚だしい惡意の作り事であります。
皇室財産については没収等云ふ字句は斷じてないのです。

「 天皇は國民の總代表たり 」 と 云ふことが國體に容れない、
と云ふ我帝國陸軍の法務官及び幕僚は、

國民の總代表が何人あつたら國体に容れると云ふのでせうか。
徳川家康がいいのか、源頼朝がいいのでせうか、或は米國の如き投票當選者がいいのでせうか。
北氏は、大日本國民の總代表は天壌無窮に絶對に天皇であらせられるのに、
中世に於ては頼朝、尊氏の徒が、近世に於ては徳川一門が國家を代表して居た。
此の如きは我が國體に容れざる許すべからざる事である。
明治維新以後の日本に於ては、中世の如き失態を繰返してはならぬ。
又、近年欧米の社会革命論を鵜呑みにした連中が、無政府主義をとなへ、
天皇制の否認をなしなどして居るが、そんな馬鹿気た事に取り合ってはならぬ、
と いましめてゐます。
「 國民の総代表が投票当選者たる制度の國家が、或特異なる一人たる制度の國(日本の如き)
より優越なりと考ふるデモクラシイは、全く科學的根拠なし。
國家は各々其國民精神と建國歴史を異にす 」
と云って、法案著述當時の滔々たるデモクラシイ思想に痛棒を喰はしています。
又、「 米國の投票神權説は、當時の帝王神權説を反対方面より表現したる低能哲学なり、
日本は斯る建國にも非ず、又斯る低能哲学に支配されたる時代もなし 」
と云って、投票當選による元首制を一笑に附してゐるのです。
恐らく法ム官は、總代表即投票と考へたのでせうが、然りとせば、軽卒無脳(能)のそしりをまぬかれません。
又、國体に進化があるなどと云ふことはけしからんと云ふのが彼等の云ひ分ですが、
これはあまりに馬鹿気たことで、殆んど議論にもなりませんから、説明をやめておきます。
要するに、北氏の思想は、決して所謂社會主義でも民主主義の思想でもありません。
髙い國家主義、國民主義の思想であります。
而して天皇 皇室に対し奉つては熱烈な信仰をもつております。
実に日本改造法案全巻を貫通する思想は、皇室中心尊皇絶對の思想で、これは著者の大信念であるのです。
北氏が法案の諸言に於て、
「 天皇大權の發動を奏請し、天皇を奉じて國家改造の根基を完うせざるべからず 」
と云ひ、又、巻頭第一頁に於て、
「 天皇は・・・・天皇大權の發動により三年間憲法を停止し、両院を解散し全國に戒嚴令を布く 」
と云って居るのは、
日本の改造は外國のそれと根本的にちがひ、
常に天皇の大號令によつてなされるべきであることを明確にし、
諸種の改造論者と雑多な革命論に對して、一大宣告をしてゐるのです。
國家改造議會の條に於て、
「 國家改造議會は天皇の宣布したる國家改造の根本方針を討論することを得ず 」
と云ってゐるのも、巻八の末尾に於て
「 天皇に指揮せられたる全日本國民の運動によつて改造をせねばならぬ 」
と云ってゐるのも、凡て北氏の信念であります。
氏の日常 「 自分は祈りによつて國家を救ふのだ 」 「 日本は神國である 」
「 天皇の御稜威に刃向ふものは亡ぶ 」 等等の言々句々は、
すべて天皇に對する神格的信仰のあらわれであります。
・・・獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 


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北一輝 

社会に対する認識及國内改造に關する方針
一言にして申しますれば、
現在の日本は其の内容は經済的封建制度とも申すべきものであります
三井、三菱、住友等を往年の御三家に例へるならば、 日本は其の經済活動に於て、
黄金大名等の三百諸侯に依って支配されて居るとも見られます
随って政府の局に當る者が、政党にせよ、官僚にせよ、又は軍閥にせよ、
夫等の表面とは別に、内容は經済的大名等、
即ち財閥の支持に依て存立するのでありますから、
總て悉く金權政治になって居るのであります
金權政治は、如何なる國の歴史も示す通りに政界の上層部は勿論、
細末の部分に亘りても、悉く腐敗堕落を曝露する事は改めて申す迄もありません
最近暗殺其他、部隊的の不穏な行動が發生しましたが、
其時は即ち金權政治依る支配階級が、其の腐敗堕落の一端を曝露し始めて、
幾多の大官、巨頭等に關する犯罪事件が続出して、
殆んど両者併行して表はれて居る事を御覧下されば御判りになります
一方日本の對外的立場を見ます時
又 欧州に於ける世界大二大戰の気運が醸成されて居るのを見ます時、
日本は遠からざる内に對外戰争を免かれざるものと覺悟しなければなりません
此時戰爭中又は戰爭末期に於て、
前例、ロシヤ帝國、獨逸帝國の如く國内の内部崩壊を來す様なことがありましては、
三千年の光榮ある獨立も一空に歸する事となります
此点は四、五年來漸く世の先覺者の方々が認識して深く憂慮して居る処であります
其処で私は、最近深く考へまするには、
日本の対外戰爭を決行する以前に於て
先ず合理的に國内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります
國内の改造方針としては、金權政治を一掃する事、
即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る冨を國家に所有を移して、國家の經營となし、
其の利益を國家に歸属せしむる事を第一と致します
右は極めて簡單な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る処に存在して居りますので、
単に夫れ等の所有を國家の所有に名義変更をなすだけで済みます
又 其従業員即ち重役から勞働者に至る迄、
直ちに國家の役人として任命する事に依りて極めて簡單に片付きます
私は人性自然の自由を要求する根本点に立脚して、
私有財産制度の欠く可からざる必要を主張とて居ります
即ち 共産主義とは全然思想の根本を異にして、
私有財産に限度を設け、
限度内の私有財産は國家の保護助長する処のものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります
私は約二十年前、資産限度は壱百萬圓位で良からうと考へましたが、
之は日本の國冨如何に依る事でありまして、
二百萬圓を可とし、三百萬圓を可とすると云ふ様な實際上の議論は共に成立つ事と存じます
只根本原理として皇室に雁行するが如き冨を有し、
其冨を以て國家の政治を壇に支配するが如きは、
國家生存の目的からしても許す可からざるものであり、
同時に共産國の如く國民に一銭の私有をも許さぬと云ふ如きは、
國民の自由が國家に依って保護さるべきものなりと云ふ、自由の根本原理を無視したものとして、
私の主張とは根本より相違するものであります
故に私の抱懐する改造意見としては日本現在に存する、
一、二百萬圓以上の私有財産を (随って其の生産機關を)國家の所有に移す事だけでありまして、
中産者以下には一点の動揺も与へないのを眼目として居ります
若し此点だけが實現出來たとすれば、
現在の日本の要する歳出に對しては
直ちに是等の収益だけを以て充分以上に足りて餘りあると信じます
即ち 今の租税の如きは其の徴収の必要を認めなくなります
此事は根本精神に於いて國民の自由と平等が(即ち當然國民の生活の安定が)
國家の力に依って保護助長せらるべきものなりと云ふ事を表はして居るのであります
從って維新革命の時に已むを得ざる方便として存在せしめて居る今の華族制度は
封建時代の屍骸として全廢する事の如きは言ふ迄もありません
日本の國體は一天子を中心として万民一律に平等差別であるべきものです
夫れでは如何して此の改造を實現すべきかの手段を申上げます
此の改造意見は日本に於いてのみ行はれ得るものであります
即ち 聖天子が改造を御斷行遊ばすべき大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります
之に反して 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません
此点は革命を以て社會革命をなして來た諸外國とは全然相違するので、
此点は私の最も重大視して居る処であります 私は皇室財産の事を考へました
皇室財産の歴史は帰する処徳川氏時代の思想的遺物に加へて
欧州王室等の中世的遺物を直譯輸入したものであります
日本皇室は言ふ迄もなく 國民の大神であり、國民は大神の氏子であります
大神の神徳に依りて國民が其の生活を享楽出來るものである以上、
當然皇室の御經費は國民の租税の奉納を以てすべきものでありまして、
皇室が別に私有財産を持たれて別途に収入を計らるる事は
國體の原理上甚だ矛盾する処と信じて居ります
一方、 共産黨の或者の如きは皇室に不敬を考へる時、
日本の皇室は日本最大の 「 ブルジョア 」 なり
と 云ふ如き誤れる認識を持つ者を見るに就きましても、
皇室財産と云ふ國體の原理に矛盾するものは是正する必要ありと思ひます
私は皇室費として数千万又は一億圓を毎年國民の租税より、
又は國庫の収入より奉納して御費用に充て、皇室財産は國家に下附すべきものと考へて居ります
此の皇室財産の國家下附と云ふ事が私の改造意見實行の基点を爲すものであります
聖天子が其御財産を國家に下附する模範を示して、
國民悉く 陛下の大御心に從ふべしと仰せらるる時、
如何なる財閥も一疑なく 大御心に從ふべきは、火を賭るより瞭かなりと信じます
即ち 諸外國に於ける如き流血の革命惨事なくして、
極めて平和に滑らかに改造の根本を建設することが出來ると信じます
私は十八年前(大正八年) 「
日本改造法案大綱  」 を 執筆しました
其時は五ケ年間の世界大戰が平和になりまして日本の上下も戰爭景気で、
唯 ロシア風の革命論等を騒ぎ廻り 又 ウィルソンが世界の人気男であったが爲に、
其の所謂以て非なる自由主義等を傳唱し、
殆んど帝國の存在を忘れて居る様な状態でありました
從って何人も称へざる世界第二大戰の來る事を私が其の書物の中に力説しても、
亦私が日本が大戰に直面したる時 獨逸帝國及びロシヤ帝國の如く
國内の内部崩壊を來す憂なきや如何等を力説しても、
多く世の注意を引きませんでした
然るに、四、五年前から漸く世界は
第二次大戰を捲き起こすのではないかと云ふ形勢が 何人の眼にもはっきりと映って參りましたし、
一方國内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産者以下の生活苦勞等が
又 現實の問題として何時内部崩壊の國難を起すかも知れないと云ふ事が
又、識者の間に認識せられ憂慮せられ參りました
私は私の貧しき著述が 此四、五年來社会の注意を引く問題の時に
其一部分の材料とせらるるのを見て、 是は時勢の進歩なりと考へ、
又 國内が大転換期に迫りつつある事を感ずるのであります
従って國防の任に直接當って居る青年将校、
又は上層の或る少數者が、外戰と内部崩壊との観点から、
私の改造意見を重要な參考とするのだとも考へらるるのであります
又私は 當然其の實現のために輔弼の重責に當る者が大體に於て此の意見、
又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、
其 人物への大命降下を以て國家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります
勿論世の中の大きな動きでありますから、他の當面の重大な問題 例へば 統帥權問題の如き、
又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、
或は血生臭い事件等が捲き起こったりして、
實現の工程はなかなか人間の智見を以ては餘め豫測する事は出来ません
從って餘測すべからざる事から吾々が犠牲になったり、 獨立者側が犠牲になったり、
總て運命の致す処と考へるより外何等具体的に私としては計畫を持っては居りません
只私は 日本は結局改造法案の根本原則を實現するに到るものである事を確信して
如何なる失望落胆の時も、此確信以て今日迄生き來て居りました
即ち 私と同意見の人々が追追増加して參りまして一つの大きな力となり、
之を阻害する勢力を排除して進む事を将來に期待して居りました
両勢力が相對立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難い時は、
改造的新勢力が障害的勢力を打破して、
目的を遂行する事は又、當然私の希望し期待する処であります
但し 今日迄私自身は無力にして未だ斯の場面に直面しなかったのであります
私の社會認識及國内改造方針等は以上の通りであります

・・・
北一輝 3 「 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を実現することが出来ません」 


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八月一日  菱海入道 誌
何にヲッー!、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、
死ぬることは負ける事だ、
成佛することは、譲歩する事だ、
死ぬものか、成仏するものか
悪鬼となって所信を貫徹するのだ、
ラセツとなって敵類賊カイを滅盡するのだ、
余は祈りが日々に激しくなりつつある、
余の祈りは成佛しない祈りだ、
悪鬼になれる様に祈っているのだ、
優秀無敵なる悪鬼になる可く祈ってゐるのだ、
必ず志をつらぬいて見せる、
余の所信は一部も一厘もまげないぞ、
完全に無敵に貫徹するのだ、
妥協も譲歩もしないぞ

余の所信とは
日本改造法案大綱 を一点一角も修正する事なく完全に之を實現することだ
方案は絶對の眞理だ、
余は何人と雖も之を評し、之を毀却きごうすることを許さぬ
方案の心理は大乗佛教に眞徹するものにあらざれば信ずる事が出來ぬ
然るに 大乗佛教 所か小乗も ジュ道も知らず、神佛の存在さへ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生等が、
わけもわからずに批評せんとし 毀たんするのだ。
余は日蓮にはあらざれども 方案を毀る輩を法謗のオン賊と云ひてハバカラヌ
日本の道は日本改造方案以外にはない、
絶對にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の没落の時だ
明かに云っておく、改造方案以外の道は日本を没落せしむるものだ、
如何となれば
官僚、軍幕僚の改造案は國體を破滅する恐る可き内容をもつてゐるし、
一方高天ヶ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考へている、
共産革命家復古革命かが改造方案以外の道であるからだ
余は多弁を避けて結論だけを云っておく、
日本改造方案は一点一画一角一句 悉く心理だ、
歴史哲学の心理だ、
日本國體の眞表現だ、
大乗仏教の政治的展開だ、
余は方案の爲めには天子呼び來れども舟より下らずだ。
・・・獄中日記 (一) 八月一日 


安藤輝三 『 万斛の恨み 』

2022年12月07日 08時13分28秒 | 安藤輝三

長瀬ら昭和九年一月に入隊した初年兵たちは、
その年の七月、
富士裾野において第二期教育の総仕上げを行った。
そして、七月下旬、
滝ケ原演習場一帯において、聯隊長による第二期検閲が実施されたのである。
聯隊長は、山下奉文大佐の後任の井出宜時大佐であった。
また検閲補助官として、聯隊附中佐以下、各本部付の将校が任命され、
安藤もその中の一人として参加した。
・・・・
長瀬一等兵は、
この時期すでに下士官候補者を命ぜられていたが、演習間は中隊に復帰していた。
中隊命令によって将校斥候の一員に選ばれた長瀬は、三里塚附近の敵小部隊を駆逐し、
その背後の敵主陣地一帯を偵察するために、
約一個分隊の兵員に混じって中隊地の終結を出発した。
敵に発見されないように、地形地物を利用し、隠密に三里塚高地の側背に迫った長瀬ら一隊は、
着剣して一挙に突撃を敢行した。
長瀬は、錆止のため銃剣の着脱溝に、日頃から油布の小片を入れておいたのである。
それが思わぬ禍となって、
突撃後五〇メートルぐらい走った時に、銃剣が落失したことに気が付いたのであった。
失敗った! と 思った彼は、慌てて引き返し、必死で銃剣の捜索にかかった。
すでに長瀬らの隊は、敵陣地偵察のため遙か前方にすすんでおり、協力を頼むことも出来ない。
銃剣を落したと思われる一帯は、灌木と雑草が茂っていて、長瀬一人での捜索はなかなか大変だ。
しかも日没まであと一時間もない。
長瀬は、眼の前が真暗になった。
銃剣紛失は重大問題である。みつからなければ重営倉は間違いない。
もち論、下士官候補者もやめさせられるだろう。
それは自分だけでなく、班長や教官や中隊長までにも大変な迷惑をかけることになる。
話によると過去銃剣を紛失いたために、自殺した兵隊も出たという。
長瀬は、半分泣きべそをかきながら、遮二無二草原の中を匐はらばいまわった。
時折、富士特有の霧が視界をさえぎり、時間もどんどん経過して行くが、全く手がかりがない。
気丈な長瀬も、すっかり気落ちし、広い原野の中で茫然自失していた。
その時、長瀬の耳に、
「 おい !  そこの兵隊・・・・・・・どうしたんだ!  」
と 怒鳴るような声が聞こえた。
長瀬が振り返ってみると、審判官の白い腕章をつけた乗馬の将校が、自分の方を見ている。
「 第二中隊、長瀬一等兵 !  突撃の最中に銃剣を落失し、ただ今捜索中であります ! 」
と 長瀬は大声で報告した。
「 そうか、それはいかんなあ。よし・・・・俺も一緒に探そう・・・・」
と、その将校は馬から飛び降り、馬を近くの灌木の根っこに繋いだ。
そして長瀬の行動半径を聞くと、指揮刀を抜いて、逐次草を薙ぎ払いながら捜索を始めた。
長瀬は勇気百倍、突撃を開始した地点から、捜索をやり直した。
しかし広い草原の中で、一本の銃剣を探し当てるのは、まさに至難の業と言えた。
辺りはだんだんと薄暗くなってくる。長瀬の気持は焦るばかりだ。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
突然とんでもない方向から、
「 あった !  あったぞ ! 」
と 叫び声が聞こえた。
その将校が、白く輝く剣身を高く挙げて、ニッコリ笑っているではないか。
途端に、長瀬の顔は涙でクチャクチャになった。
そして夢中で、将校の方に駈け寄った。
長瀬は、渡された銃剣を抱き締めて、大声で泣いた。
それは言いようのない感動であった。
「 よかったなあ・・・・では俺は急ぐから、これで失敬する 」
とひとこと言った将校は、再び馬に乗って東の方に走り去った。
長瀬は名前を聞く暇がなかったのだ。
ただ、丸ぶちの眼鏡をかけた、長身の優しそうな中尉だったという印象だけが残った。
長瀬は、中尉の後姿に両手を合わせて拝んだ。
そして茫然とした意識の中で、仏の姿を見いだしたように感じた。
・・・長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 

二十二日の朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、

磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ
と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」


安藤輝三 
アンドウ テルゾウ
『 万斛の恨み 』
目次

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貧困のどん底 
・ 
打てば響く鐘の音のように 
・ 「 おい、早くあの兵を連れ戻せ 」 
長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 
・ 「 曹長になったら、俺の中隊に来ないか 」 
・ 「 中隊長のために死のうと思っただけです 」 

第九 「 安藤がヤレナイという 」

・ 竜土軒の激論
 
西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」
・ 西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の会見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』 

・ 昭和維新 ・安藤輝三大尉  
・ 安藤輝三大尉の四日間 
・ 命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」 

 
安藤部隊 ←クリック  ↓目次 )

 ・中隊長安藤大尉と第六中隊
 ・中村軍曹 「 昭和維新建設成功の日 近きを喜びつゝあり 」
 ・歩哨戦 「 止まれ!」
 ・第六中隊 『 志気団結 』

 ・堂込曹長 「 奸賊 覚悟しろ!」
 ・鈴木侍従長 「 マアマア、話せば判るから、話せば判るから 」
 ・奥山軍曹 「 まだ温かい、近くにひそんでいるに違いない 」
 ・安藤大尉 「 私どもは昭和維新の勤皇の先駆をやりました 」
 ・命令 「 独断部隊ハ小藤部隊トシテ歩一ノR大隊長ノ指揮下ニ這入ル 」
 ・破壊孔かに光指す
 ・命令 「 我が部隊はコレヨリ麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入る 」
 ・「 一体これから先、どうするつもりか 」
 ・地区隊から占拠部隊へ
 ・幸楽での演説 「 できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる 」
 ・下士官の演説 ・ 群衆の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」
 ・「 今夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている 」
 ・町田専蔵 ・ 皇軍相撃を身を以て防止することを決意す
 ・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」
 ・小林美文中尉 「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません 」
 ・安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」
 ・「世間が何といおうが、皆の行動は正しかったのだ 」
 ・「中隊長殿、死なないで下さい!」
 ・「 農村もとうとう救えなかった 」
 ・「 何をいうか、この野郎、中隊長を殺したのは貴様らだぞ!」
 ・伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 1  
 ・伊藤葉子 ・ 此の女性の名を葬る勿れ 2

・ 万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」

あを雲の涯 (五) 安藤輝三

・ 「 前嶋君 君達にあひ度かつた 」 
・ 
「 君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら 」

・ 昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉 

『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長

二月二十六日の朝、運命の日を迎えたのであります。
私は、なんの迷いも ためらいもなく、黙って中隊長のあとに随いて行きました。
ただ、私は中隊長のために死のうと思っただけで、他には何も考えませんでした。
それは私だけではありません。
出動した全中隊員が同じ気持ちだったと思います。
安藤中隊長は、私にとって神様でありました。
いや、今でも私の神様なのです 

・・・「 中隊長のために死のうと思っただけです 」 ・・渡辺鉄五郎一等兵


暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『 はじめから死刑に決めていた 』

2022年11月21日 05時13分50秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。
拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・幕僚の筋書き 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」


両人は極刑にすべきである。
両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である。
 ・・・寺内陸相
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか眞崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。・・・片倉衷

陸軍当局は、事件勃発直後から北一輝と西田税をその黒幕と断じ、電話盗聴その他の内定を怠らなかった。
二月二八日午後、憲兵の一隊が北邸を襲い、北を検束した。
西田は間一髪逃れたが、三月四日早朝警視庁係官によって検挙された。
陸軍が、司法当局の反対を押し切って東京陸軍軍法会議の管轄権を民間人にまで及ぼした最大の狙いは、
北 ・西田の断罪と抹殺にあったと推測される。
三月一日付の陸軍大臣通達
( 陸密第一四〇号 「 事件関係者ノ摘発捜査ニ関スル件 」 )
は、次のように述べる。
この通達が、予審も始まっていない段階のものであることに注目する必要がある。
北 ・西田を張本人とする路線は、最初から敷かれていたのである。
「 叛乱軍幹部及其一味ノ思想系統ハ、
 過激ナル赤色的國體変革陰謀ヲ機関説ニ基ク君主制ヲ以テ儀装シタル北一輝ノ社會改造法案、
順逆不二ノ法門等ニ基クモノニシテ、我ガ國體ト全然相容レザル不逞思想ナリトス 」
検察官は、このシナリオに則って、
論告の中で、事件の動機 ・目的として次のように述べる。
「 本叛乱首謀者ハ、日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスルモノニシテ、
 其企図スルトコロハ民主的革命ニアリ・・・・集団的武力ニ依リ 現支配階級ヲ打倒シ、
帝都を擾乱化シ、且帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ 軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期シタルモノナリ 」 ・・・ニ ・二六事件行動隊裁判研究 (ニ)  松本一郎

東京陸軍軍法会議
「 法律ニ定メタル裁判官 」 によることなく、非公開、かつ、弁護人抜きで行われた本裁判は、
少なくとも北一輝などの民間人に関する限り、
明治憲法の保障する 「 臣民の権利 」を蹂躙した違法のものであったということ、
本裁判には、通常の裁判では考えられないような、訴訟手続規定を無視した違法が数多く存在したということ、
北一輝 ・西田税を反乱の首魁として極刑に処した判決は、証拠によらないでっち上げであった
・・・松本一郎
陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、結論的に言うと、指揮権発動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。 これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整
一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・拵えられた憲兵調書 


暗黒裁判
幕僚の謀略 1  西田税と北一輝
『 はじめから死刑に決めていた 
目次
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・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 西田税、北一輝 ・ 捜査経過
西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 暗黒裁判と大御心 
はじめから死刑に決めていた 
暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』
・ 
暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」
拵えられた裁判記録 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。
・・・西田税の最終陳述

次項暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』 に 続く