青年将校は、
その維新達成のためにどんな方法をもって、ことをすすめようとしていたのか。
その彼らは、二・二六に蹶起し、重臣を暗殺し、軍に維新断行を迫った。
このため、彼らは武力革命を信念としていた、
と 一般に理解されている。
だが、それはかならずしも正しい理解ではない。
彼らはその革命に武力の発動を否定しなかったが、その根本は平和革命にあったし、
何よりも彼ら自らが革命の主体となるのではなく、軍を革命化することであった。
すなわち、彼らの昭和維新実現の方途として、二つの注目すべき態度があった。
その一つは、当面、軍を維新化することであり、
その二は、武力的、権力的な行き方に批判的であったことである。
昭和九年春頃、
東京にあって青年将校運動の中核的存在として、活躍していたのは、
当時、陸軍大学校に在学していた村中孝次大尉と、
野砲兵第一連隊の主計大尉だった磯部浅一であった。
村中孝次 磯部浅一
この村中は、その年の三月に、同期生有志にあてて通信を贈っているが、
その中に、
「 維新とは軍民の魂の覚醒で、これを基礎とする国家組織制度の変革をいう。
則ち、国民の各人が建国の理想、進化発達した時世をよく理解し、
国家の現実中、建国の理想にもとり時代の進運にともなわない部分をただすにある。
組織制度の改造は全部でなく、国民意識の覚醒が第一であり、
これを基礎として、新しい組織制度が結集されるのである 」
「 吾等は日本の維新は、
天皇大権の御発動によってのみ行われるべきものであるとの、国体観に立つものである。
したがって、
上は至上を至上と敬し奉り、
下は国民階層とくに維新機運の熟成を図るに努め、
かつ、同志相戒めて、国民の艱難かんなんを自身に負い来ったのである 」
「 維新の本義は国内正義の拡充確立にある。
われらは派閥をつくり党派を立てんとするものではない。
建国の大精神に挙国一体たることを維新への道と心得、
自己ならびに自己の周囲に対する道義の拡大強化を、
維新実現の基調と信ずるが故に、
皇威宣揚、億兆安撫を志す同志間に、培われつつある同心偕行の一体観を拡大して、
皇国全体に及ぼさんと念願するものなり 」
と書いている。
リンク→村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信
すなわち、彼によれば、
維新とは精神革命であり、
しかもその全国維新は天皇大権により発動されるもの、
これがため、
まず、軍が維新への一体化を期さなくてはならないとしていたのである。
だから、
この年の秋、十月、陸軍省が公表した 『 国防の本義と其強化の提唱 』 という
パンフレットには彼らはたいへんな感激を示している。
( リンク→ 村中孝次 『 国防の本義と其教化の提唱について 』 )
ちょうどその頃は青年将校と中央部幕僚とが対立し、
青年将校は、ひどく中央部幕僚に反感を示し あたかも仇敵視していたのであるが、
そうした感情をこえて村中は、
「 陸軍が公式に経済機構の変革を宣明したのは、建国未曾有のこと、
昭和維新の気運は画期的進展を見たりというべし。
われわれは徹底的に陸軍当局の信念、方針を支持し、拡大し強化するを要す 」
と 同期生有志に書き送っているが、
それは彼がかねて希望する
軍の維新体勢への途が開かれたと信じたからである。
ところが、
彼らが陸軍の態度に大きな期待をもってこれを支援しようとしていたやさき、
思いがけなくも
十一月事件という一部幕僚の陰謀のワナにかかり投獄されたのであるが、
( 昭和九年、村中孝次、磯部浅一らによる クーデター計画があるとして拘禁されるが 証拠不十分で不起訴処分 )
…リンク ↓
・ 所謂 十一月二十日事件
・ 十一月二十日事件の経過
・ 法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
そこでの予審調書には、
「 まず軍部が国体原理に覚醒し国体の真姿顕現を目標として、
所謂維新的に挙軍一体の実をあぐるとともに、軍隊教育を通し、
かつ、軍部を枢軸として全国民の覚醒を促し、全国的に国家改造機運を醸成し、
軍部を中心主体とする挙国一致の改造内閣を成立せしめ、
因って以て国家改造の途に進まんと企図した 」
と 記録されているし、
さらに、
村中は自分たちの検挙に策動した者を獄中より誣告罪で告訴しているが、
その告訴理由の中で、
「 十月事件以来、小官らは次の方針を以て終始し来れり。
即ち、至誠天に通ずる左の如き各種の手段方法を講じ、大号令の御発動を希う。
第一、陰謀的策動を排し、左右、上下を貫通し陸海両軍を維新的に結成し、軍を維新の中核に向って推進す。
第二、軍隊教育を通じ、かつ軍隊運動を槓桿こうかんとして、全国的に維新気風を醸成す。
第三、各種の国家問題、社会事象を捕捉し、これを維新的に解決し国内情勢を推進し、
維新発程、すなわち大号令の渙発を容易ならしむ 」
といい、これが具体策としては、
「 小官らは刻下の方策として、
現陸相林大将を首班に、真崎、荒木両大将をその羽翼とし、
陸海軍を提携一本とせる軍部中心主義とする挙国内閣の出現を願望とし、
大権発動の下に、軍民一致の一大国民運動により国家改造の目的を達せんとす 」
( 昭和十年二月七日獄中より提出した告訴理由書 )
このように、
彼らも直接行動を絶対に否定するものではなく、
「 国家、国民を感格せしむるだけの非常の大時機 」
「 尋常の人事をつくしてなお及ばない 」
場合には、奸賊討滅のために法の前に刑死する覚悟で立つというのである。
だから、
彼らの武力行使は、真に切羽つまった国家の危局には、
あえて捨身の一挙により革命の先端を開くことを予期していたわけである
が、二・二六蹶起がこれにあたるものであったかどうか。
大谷啓二郎著 軍閥 より