あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2

2018年05月17日 11時10分48秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

決行の朝、剣道の達人は簡単なメモを、
宿泊先であった千駄ヶ谷の西田税宅で認めている。
後に軍事法廷で証拠品として採用された 「 証第四号 」。
メモは永田鉄山 大逆賊 と罵り、これから三時間後に虚構されるであろう行為を正当化している。
『 元より皇軍将校の全員其責にあり。
然りと雖も、永田少将の過去数年間に現はれ遺したる足跡と、
現在軍の要職にありて行ひ来って皇軍を幕府の軍隊に堕せしめつつあるは正に大逆賊たるものなり。
天命何をか躊躇すべきものぞ  臣三郎 』
このメモを当人は朝五時か六時頃、蚊帳の中で書いたと述べる。
その際、青いインクがシーツにこぼれた。
相澤が出かけた後、インク痕を見つけた西田は相沢の行動を訝いぶかるのだ。
剣の達人は決行に先立って、他に遺書を認めたり、もったいぶった和歌を詠んではいない。
ただしひとつだけ、行動の人が特に準備したものがある。
いわば特注品だ。
このことに従来なぜかだれも言及していないのだが・・・・。

相澤は上京に先立ち大阪で第四師団長、東久邇宮と台湾赴任の挨拶を交わす。
他にもさる人物と会い、決行の意志を伝えたと見られる。
これは重要なことゆえ、後にしよう。
さらに宇治山田に一泊した後、省線で原宿に出た。
台風が日本海に抜けた影響で、強風吹きすさぶ明治神宮にひとり参拝、
ここでも成就を祈願するのだった。
・・・・もし私の考へが誤りでなければ、神明のご加護によって天誅を成功させていただき度い。
明治神宮に立ち寄ったには訳がある。
相澤は参殿後、宝物殿の傍らの松の巨木の前にしばし佇むのだ。
実はこの樹齢二〇〇年にもなる笠松こそ、
亡き父がはるばる仙台から運び献上したものだった。
対象七年神宮造営の際だ。
いまや高さ十五メートルを越える堂々たる枝ぶりで辺りを睥睨へいげいする。
暗雲が激しく流れ、枝々が唸りを上げていた。
ときおり雲間から満月が皓々と巨木を照らし出すのだった。
相澤は無言で手を合わせ、明日の挙行が成功することを祈る。
巨木は言霊が宿るかのように相澤になにかを語りかけていた筈だ。

この夜、相澤は代々木山谷町の西田宅に宿をとる。
明治神宮からすぐの地にあった。
ここで偶然にも戸山学校体操教官、大蔵栄一大尉 ( 31 ) と居合わせたのだ。
その場で相澤はかねてから大蔵宅に預けてあったあるものを翌朝、
大蔵夫人に届けさせるよう特別に依頼する。
大蔵宅から西田宅までは歩いてすぐの距離だった。
それは 靴・・・・。
その夜のやりとりを大蔵大尉はこう証言する。
『 相澤中佐は玄関まで私を送ってきた。
「 あなたのうちに、深ゴムの靴が一足あずけてありましたね。
あしたの朝早く奥さんに持ってきて頂くよう、頼んで下さい 」
「 そんな靴があったんですか 」
私は知らなかった。
たぶん去年の春、中耳炎をわずらったころのことであろうと思った。
「 奥さんが知っています 」
「 承知しました 」
と、うなづいて下を見ると、新しい茶色の編み上げの靴が一足そろえてあった。
「 いい靴があるじゃありませんか 」
「 いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ 」
と いいながら相澤は、銃剣術の直突 ( 着剣した銃を掲げ、相手の心臓部めがけて突き出す ) の姿勢をとった 』

深ゴム靴 の丈は踝くるぶしの少し上どまり。
左右側面にコ゜ムが縫い込んであり、しまりがいい と相澤が謂うにピッタリと足にフィットする。
長靴のように足と靴の間に隙間を生じない。
いわば地下足袋効果があった。
英国ではチェルシー・ブーツと呼ばれる。
深ゴム靴を預けてあったことが計画的か、それとも偶発なのか。
それは、だれも判らない・・・・。

就寝前に相さは、蚊帳が吊られた客間寝室で布団の上にあぐらをかき、
鞘から抜いて日本刀を持ち上げ、刃先をジーッと凝視する。
犯行に使われたものは相澤家に伝わる名刀。
江戸寛文年間の刀匠、河内守藤原國次の銘が入る。
陸士卒業記念に父から贈られたものだ。
観賞用ではなく武芸用として広く愛好され、
江戸時代の死刑執行人、山田浅右衛門、通称 首切り浅右衛門 が 切れ味が良いと誉めたと伝えられる。
二階の寝室に上がろうと客間の前を通りかかった西田が声を掛けると、
剣の達人は慌てたように作り笑いを浮かべて、電気を消す。
「 お休みなさい ・・・・」

チェルシー・ブーツを履いた相澤三郎陸軍歩兵中佐・・・・。
翌朝、軍務局長室に闖入するのは推定九時三五分頃。
軍法会議の判決文には四五分とあるが、
前後の時間の推移を見る限り、事実は一〇分ほど早い時刻であったろう。
入口は夏のことゆえ開け放たれていた。
ちいさな観音開きの簾の戸を押せば、奥に開けた長方形の局長室に難なく入れる。
だが突き当り事務机に座る局長の姿は入口からは朧げにしか見えない。
目隠しに衝立が二面置かれていたからだ。
奥に板張りの一面と手前に布張り。
ただし奥の左手、剣帽掛けには軍刀と軍帽が掛けられていた。
部屋の主が在室であることは一目で見て取れた筈だ。
背中に吊っていた軍刀を静かに鞘から抜き、深呼吸する。
左手南窓からの光線が角部屋全体を明るく照らし出している。
意を決すると応接用丸テーブルを左に見ながら奥へジワリジワリと進んだ。
厚いジュータンと深ゴム靴が音を消す。
二つの衝立をやりすごせば、もう二メートル先には局長机がある。
西側にある奥の窓から光線が差し込み、
シルエット姿の新見がこちらに背中を丸めてなにやら永田に説明していた。
速度を速めサーッと右側から襲いかかる。
永田が人の気配を感じて面を挙げたとき、
既に眼前は大上段に振りかぶった相澤の修羅と化した相貌があった筈だ。
眼が吊り上がり、大きな口が半開きになった面。
永田はすかさず回転椅子から腰を浮かし、身体を瞬時に横へとずらす。
相澤はそうはさせじと背後から第一刀を浴びせた。
だが間に椅子が挟まり、背中に軽傷を与えたにとどまる。
机を回り込み 難を逃れようとする中肉中背の将軍、追う長身瘦軀の刺客。
とっさに小柄に新見が後ろから相澤の腰にしがみつき、必死にブロックを図る。
「 ウワッ 」 と 力任せに振り払った相澤は、威嚇の一太刀を新見に浴びせた。
瞬時に左腕上部から鮮血が飛び散る。
激しい相澤の動きに軍帽がスッ飛び、ジュータンにコロコロと音もなく転がった。
その間に永田は隣の軍事課長室に逃れようと、大きなドアに辿り着く。
ドアのノブに手を掛けた。
希望を込めてノブを回す。
だが開かなかった。
なんども試みたが冷酷にも開かなかった。
これが運命を決める。
相澤が瞬時に追い付く。
深ゴム靴の威力だ。
直ちに二刀目を浴びせる。
今度は刀の柄を右手で握り、左手では刃を握り、一気に永田の背中に突き立てた。
「 ウワッ 」 と 満身の力が込められたことだろう。
『 人を斬るには刀を両手に握って突くのが一番確実だ 』 ・・こう 日頃から語っていた。
こうして無残にも刀は永田の背中から肺を突き抜け、ドアの扉まで刺さり込む。
相澤は矛先が狂わぬように左手をしっかり刀に添えていた。
だが刀を引き抜く際、左に抉えぐったため、無我夢中であったのか、
自らの左手四本の指をも深々と切ってしまう。
引き抜くや否や鮮血が永田の背中からドッと噴出する。
まるで時代劇映画の殺陣を見るようなシーンだ。
多量の出血で一瞬ドアにへばりついた永田は、ドアが開かないことを悟ると、
踵きびすを返し、今度は入口をめざして逃れようとする。
既に足はもつれ、空手空拳くうしゅくうけん。
衝立を越えて南窓方向へと進む。
この獲物の行末を相澤は、下段の構えでジッと見定めた。
左手指からは血が滴り落ちている。
哀れにも永田は数歩で遂に力尽き、ドッと頭から転倒する。
はずみで応接用テーブルの椅子が転がり飛び、音を立てた。
そこへ相澤は猟犬のようにスーッと近寄る。
なおも生への動物的な執念を燃やし、ジュータンを這おうとあがく永田。
その身体を足で仰向けに引っくり返すと 頭部に三頭目を浴びせるのだった。
相澤がどこを狙ったのかは判然としない。
恐らくは古来の武士の作法に則って喉にとどめを刺そうとしたのだろう。
両手で柄を握り、突き刺す。
だが左手に深手を負ったためか、手元が狂い刃先は永田の左こめかみにグサリと食い込んだ。
頭部がザックリと割れる。
《 因よりて 永田少将の背部 ( 第一刀と第二刀で計二ヶ所 ) に 長さ九.五センチ、深さ一センチ
及び長さ七.
六センチ、深さ一三センチ、左顳顬しょうじゅ部 ( 第三刀でこみかみ ) に 長さ一五.五センチ、
深さ四.五センチの創傷外数創を被らしめ・・・》・・「検察官控訴状 」、菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」
ちなみに憲兵隊が撮影した検証写真のうち遺体頭部のクローズアップは見る者の目をそむけさせるに充分で、
さすがに今日まで公表されていない。
犯行が執拗で、相澤は変質的な性格ではないかと云う声も聞こえる。
だが 半年後の二・二六事件以降、相澤公判の弁護人を務めた菅原裕は云う。
『 中佐が神に誠を捧げて国軍の反省 維新を齎もたらそうとしたのは 時に光を放った正気の発動であり、
断じて 精神病者の変態症状などではなかった 』 ・・菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」

鬼頭春樹著 実録相澤事件から


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