陸軍省は午前十一時五十分
曩さきに東京陸軍軍法會議に於て 死刑の言渡を受けたる
村中孝次 磯部淺一 北輝次郎 ( 一輝 ) 及 西田税の四名は
本十九日 その刑を執行せられたり
と 発表した。
北一輝、西田税が村中、磯部とともに殺されたことをきいた。
それは八月十九日のことであった。
北 ・西田はなぜ殺されたか
北一輝、西田税を殺した軍当局を、私は心から憎んだ。
私はこのことをきいたときから、怏々おうおうとして楽しまなかった。
軍は殺すべからざる人々を殺した。
なぜ殺したか・・・・?
軍がこの無暴と思える強圧的ナ暴挙をあえて行ったのには、
よってきたる原因がなければならぬ。
多くの事件関係の資料が出そろった今日、
特設軍法会議の裁判が全くの暗黒裁判であったことは、すでに明瞭となっている。
事件当初、軍は蹶起部隊ヲいち早く東京警備司令部に編入し、
戒厳令が施行されるや、戒厳部隊として南麹町地帯の警戒に任ぜしめている。
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・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戰時警備部隊トシテ警備に任ず 」
・ 戒嚴令 『 麹町地區警備隊 ・ 二十六日朝来來出動セル部隊 』
かてて加えて 『 大臣告示 』 を出して、
その真意または行動を認めている。
そのことはあとで眞﨑、荒木の陰謀に引きずられたのだと、
弁解めいたことが流布されているが、コレハトルニタラヌ強弁であって、
事実は軍当局の責任において、その不手際を甘受しなければならぬ性質のものである。
だが、軍当局はその責任をひたすら隠蔽し、回避するために、
『 奉勅命令 』 というオールマイティーをもって、
命令下達しないまま、命令に抗したと称して
『 叛乱罪 』 という極刑に処してしまった。
『 奉勅命令 』 というのは、
蹶起部隊は現在地を速やかに撤去して原隊に復帰せよ、
との命令であった。
かりに命令が下達されて ただちにこれに従わなかったとしても、
それは 『 抗命の罪 』 であって、決して叛乱の罪ではなかったのだ。
叛乱というのは天皇に弓をひくことであって、
妖雲を排し天皇の真姿を仰ぎ奉らんと念願して、起チ上がった青年将校らに、
どうして天皇に弓をひくような不逞な意図があったといえようか。
そのくらいのことは軍当局は百も承知の上であったはずだ。
それをあえて 『 叛乱罪 』 として処分するためには、
北一輝と西田税を首謀者にでっち上げることが必要であった。
彼らにいわしめると、
北、西田の思想は国家ヲ顚覆しようとする不逞の思想である。
北の 『 日本改造法案大綱 』 や 『 国体論及び純正社会主義 』 などの著書を
ことさら曲解して、わが国体に相容れないものとして
青年将校はその不逞の思想にまどわされたのである。
だからこそ、北、西田は首魁であり、青年将校は天皇に弓をひくことになった、
というのである。
この強引なでっち上げを、あえて行ったその裏には、
見落とすことのできない重要な鍵があった。
この鍵こそ、事件に対する天皇の激しいお怒りであった。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此かくノ如キ兇暴将校等 其精神ニ於テモ何ラ恕じょスベキモノヤ
ト仰セラレ、又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク殪スハ、眞綿ニ朕ノ首ヲ締ムルニ等シキ行爲
ト漏ラサル。
之ニ對シ、老臣殺傷ハ固ヨリ最惡ノ事ニシテ、事下令たとい誤解の動機ニ出ヅルトスルモ、
彼等將校トシテハ斯クスルコトガ國家の爲ナリトノ考ニ發スル次第ナリト重テ申上ゲシニ、
夫ハ唯ダ私利私慾ノ爲ニセントスルモノニアラズ ト云ヒ得ルノミ
ト仰セラレタリ ( 二月二十七日 )
天皇の激怒のご様子は、
この二月二十七日の 『 本庄日記 』 によって、うかがい知ることができる。
いかに天皇であらせられても、なま身の人間である以上、
信頼する重臣が殺害さるれば、激しい怒りを感ぜられるのは当たり前のことである。
お怒りにならない方が、むしろ不思議というべきであろう。
二月二十八日午後、
青年将校が自決して罪を陛下に謝し、兵は原隊に復帰せしむるに決し、
せめてその自決には侍従武官のご差遣さけんをお願いしたいと申し出たとき、
本庄繁武官長はそのことを伝奏した。
繁ハ、斯かかルコトハ恐ラク不可能ナルベシト躊躇セシモ、
折角ノ申出ニ附キ一應傳奏スベシトシテ、御政務室ニテ右、陛下ニ傳奏セシ処、
陛下ニハ非常ナル御不満ニテ、
自殺スルナラバ勝手ニ爲スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ
ト仰セラレ、又 師團長が積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ自ラノ責任を解セザルモノナリ
ト、未ダ嘗テ拝セザル御気色みけしきにて嚴責アラセラレ、
直チニ鎭定スベク嚴達セヨ
ト嚴命ヲ蒙ル 」 ( 二月二十八日 )
この二月二十八日の 『 本庄日記 』 にも、
天皇激怒の人間的感情がむき出しに現わされていることがうかがえる。
・・・リンク → 騒亂の四日間
ご政道の上において、人間的感情は天皇道には禁物である。
天皇といえども万全ではない。時には誤りを冒すこともあり得よう。
そのときにこそ、大道念に徹した剛直の士の直諫によって、
ご政道に過誤なきを期せねばならぬ。
高御座たかみくらにつかせられた天皇と、自然人天皇とが調和するところに、
他に類例をみない高次の権威がある。これが日本の国がらであるのだ。
それがバラバラになったとき、冷たいすきま風が吹き込んで、日本の存立は危くなる。
神が人と国土とを生み、神人合一して人と国とが生命的に生成発展するというのが、
古来より伝わる大和民族の発想法であった。
明治天皇は、億兆ひとりとしてそのところを得ざれば朕が罪、と仰せられた。
万民の苦しみをみずからの苦悩として体感される天皇のお姿に、
われわれは神の姿を仰ぐのである。
村中孝次の書きつづった獄中遺書の中に
『 天皇に直通直参 』 という言葉が、随所に出てくる。
これは神人合一の神のみすがたであらせられる、天皇に直参するということだ。
昭和の時代は、天皇は大内山の奥深くまつり上げられて、
側近の重臣によって万民とのつながりを断ち切られていた。
『 二 ・二六事件 』 は、いいかえれば大内山に立ちこめる妖雲を払って、
天皇に直参せんとした捨て身の蹶起であったのだ。
悲しいことに、それはたちまち天皇ご激怒という、
予想だにしなかった事態に遭遇し、
結果するところは天皇に弓を引くという『 叛乱罪 』 の汚名をきせられて、
恨みを呑む悲劇に終わった。
大蔵栄一 著
二・二六事件への挽歌
から 書写
胸えぐる磯部の直言
これは磯部淺一の 『 獄中日記 』 の八月二十八日の分であるが、
私はこのくだりを読むたびに血涙がしたたり、熱腸がしめつけられる思いがする。
竜袖にかくれて皎々不義を重ねて止まぬ重臣、元老、軍閥等の為に、
如何に多くの國民が泣いてゐるか
天皇陛下
此の惨タンたる國家の現状を御覧下さい、
陛下が、私共の義擧を國賊反徒の業と御考へ遊ばされてゐるらしい
ウワサを刑ム所の中で耳にして、私共は血涙をしぼりました、
眞に血涙をしぼつたのです
陛下が私共の擧を御きき遊ばして
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
と 云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして、
私は數日間気が狂ひました
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
とは 将して如何なる御聖旨か俄にわかりかねますが、
何でもウワサによると、
青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると云ふ意味らしい
とのことを ソク聞した時には、
神も仏もないものかと思ひ、神仏をうらみました
だが私も他の同志も、何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、
泣いて泣き寝入りは致しません、
怒って憤然と立ちます
今の私は 怒髪天をつく の 怒にもえてゐます、
私は今、
陛下を御叱り申上げるところ迄、精神が高まりました、
だから毎日朝から晩迄、 陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あやまりなされませ 」
・・・リンク → 獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」
嗚呼十有五烈士
懐十五士涙潸々 放聲呼名尚如存
噫周日前臨刑晨 唱和國歌祈聖壽
皇城頭期爲一魂 從容就死鬼神泣
遠雷砌獄舎漸昏 宛似英魂呼兩人
昭和十一年夏爲大蔵氏 村中孝次
・・・リンク → あを雲の涯 (三) 村中孝次