あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國體明徴と相澤中佐事件

2021年10月17日 12時52分30秒 | 國體明徴と天皇機關説

國體明徴運動が全國的に一大波瀾を捲起していた眞最中の
昭和十年八月十ニ日
相澤三郎中佐が
陸軍省軍務局長室に於て軍務局長永田鐵山少將を刺殺し
之を制止せんとした東京憲兵隊長新見秀夫大佐に傷害を加へた 一大不祥事件が勃發した。
 
昭和11年8月12日
陸軍當局の發表する処に依れば
相澤中佐は昭和四、五年頃より 内外の情勢に關心を寄せ
當時の世相を以て思想混乱し 政治・經濟・教育・外交等萬般の制度機構 何れも惡弊甚しく、
皇國の前途 眞に憂慮すべきものがあるとして 之が革正刷新の要あるものとしていたが、
其の後 大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一 等 ( ニ ・ニ六事件関係者 ) と相職るに及び
益々國家革新の信念を鞏め、昭和八年より昭和維新の達成には、
皇軍が國體原理に透徹し 擧軍一體となつて皇運の扶翼に邁進せねばならぬに拘らず
陸軍の情勢には之に背戻するものがありしとし 其の革正を斷行する必要を感じていたが、
昭和九年三月 永田鐵山が軍務局長に就任するや前記同志の言説等によつて、
同局長を以て 其の職務上の地位を利用し、軍の統制に名を籍り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做した。
次いで同年十一月 当時歩兵大尉村中孝次、一等主計磯部浅一等が
叛乱事件陰謀の嫌疑を受けて軍法會議に於て取調を受け、
昭和十年四月 停職處分に附せられるに及び、
同志の言説 或は怪文書により右事件 ( 十一月二十日事件 ( 陸軍士官学校事件 ) )
永田局長等が同志の將校を陥れんとした奸策であると解して大に憤慨し、
更に同年七月十六日平素敬慕していた眞崎甚三郎大將が教育總監の地位を去つたので
又 永田局長の策動に基くものと推斷し、上京して永田局長に辭職を勧告する等の事があつたが、
當時西田税、大蔵栄一大尉等より教育總監更迭の經緯を聞き
又 村中孝次 送付の 「 教育總監更迭事情要点 」 發想者不明の 「 軍閥重臣閥の大逆不逞  」
 
等の怪文書に依り
総監更迭は永田局長等の策動により眞崎大將の意思に反し敢行されたものであつて、
本質に於ても亦 手続上に於ても 統帥権干犯であるとして 痛く憤慨していた処、
偶々 同年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
翌日 村中、磯部両名の筆に成る 「 粛軍に関する意見書 」 を入手閲讀し、
一途に永田局長が元老、重臣、財閥、新官僚と款を通じ 昭和維新の氣運を彈壓阻止し、
皇軍を蠧きくいむし毒するものであると考へ、此の儘臺灣に赴任するに忍びざるものがあり、
此際 自己の執るべき途は永田局長を倒すの一事あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんと決意するに至つたものである。
相澤中佐
又 昭和十一年五月九日の陸軍當局談は
・・・同中佐が・・・永田中將を目して政治的野心を包蔵し、
現狀維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託し 軍部内における革新勢力を阻止すると共に、
軍をして此等支配階級の私兵と化せしむるものなりとし、
其の具体的事例として
(一)  維新運動の彈壓
(ニ)  昭和九年十一月、村中、磯部等に関する叛乱陰謀被疑事件に對する策動
(三)  教育總監更迭に於ける策謀
(四)  國體明徴の不徹底
等を擧げて居るのである。  ( 以下略 )
と 言つている。
此の如く本件動機の一として永田局長の國體明徴問題に對する態度が
元老、重臣、財閥、新官僚 等 現狀維持を希求すると稱せられていた所謂現狀維持派と結託して、
革新勢力を阻止せんとする具体的事例として擧げられている。
即ち皇道派なる青年將校に絶對的支持を得ていた眞崎甚三郎大將は、
天皇機關説問題發生するや教育總監として勅裁を仰いだ上
四月四日 天皇機關説が我が國體と相容れず
皇軍の精神上その存在を許すべからざる趣旨を強調した訓示を全軍に発し
國體明徴の徹底を期する積極的態度を明にした。
・・リンク→『 國體明徴 』 天皇機關説に関する眞崎教育總監の訓示 
永田軍務局長
之に反し 永田軍務局長は天皇機關説が政治問題に移行し
政府の声明といふ事にもなり、・・リンク→ 
國體明徴と天皇機關説 
國體の本義を闡明せんめいせねばならぬ情態となるや、極めて慎重の態度を取つた爲め、
他より國體明徴に熱意を欠き 聲明に反對しているものと見られた。
而も 策動して自己と對蹠的たいせきてきにある眞崎大將をして教育總監の地位を去らしめたとの巷説は、
國體原理の透徹を希ふ相澤中佐をして
永田軍務局長が現狀維持派と結託して
革新運動の中心目標である國體明徴を曖昧ならしめんとする意圖を蔵する証左と思惟せしめたのである。

・・・國體明徴運動は
昭和十年の中頃より革新原理の標識としての意義が鞏調されたのであるが、
民間皇道派の直心道場系一派に於ては
永田軍務局長刺殺事件發生し軍内の派閥闘爭が表面化し
又 軍首脳部が政府第二次聲明を容認し 在郷軍人の鎮静に乗出し 漸次運動を微温化せしめることに成功するや、
彼等は國體明徴を粛軍運動に關聯せしめ
國體明徴とは單なる學説 竝にニ三學説主唱者の排撃折伏にあるのではなく、
埋没された國體實相を開顯し 歪曲されたる皇國組織を是正し
而して革正された皇國態勢を以て全世界に天業を恢弘し奉らんとするにあるものなるが故に、
機關説主唱者の折伏より 更に之を庇護し、
其の實行者として國體を梗塞せる現狀維持、政權壟断層の排撃へと進展せしむべきものであつたに拘らず、
永田局長を総帥とする統制派なる軍内の一團は重臣ブロック、財閥、新官僚と結託し
皇道派に燃える青年將校を彈壓し、十一月陰謀事件を捏造し
「 粛軍に関する意見書  」 を頒布した廉を以て 村中、磯部両大尉を免官處分に附し、
或は 統帥權干犯の嫌疑を惹起して迄 國體明徴を主唱した眞崎教育總監の更迭を鞏行して皇軍の本義を紊り、
( ・・リンク→  昭和十年四月九日 「 眞崎教育總監の機關説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 )
又 眞崎大將に代つた渡邊錠太郎教育總監は名古屋に於て機關説擁護とも見るべき訓示を爲している。
されば國體明徴と粛軍と維新とは一個不可分であり、
現制度機構維持の勢力が政權を壟断し、國民至誠の國體明徴問題に耳を藉さざる現在に於ては、
皇軍の維新的粛正は國體明徴、維新に必須の段階であり、
皇軍の維新的粛正なくしては、諸政百般に國體精華の實を期するは、百年河清を待つに等しく、
今や粛軍は國體明徴、維新聖戰に於て歴史的必然の段階を爲すものであると宣伝煽動した。
殊に相澤公判期日の切迫と共に 西田税、村中孝次、磯部浅一 等は
直心道場の分子 澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を指導し
雑誌 「 核心 」 「 皇魂 」 新聞 「 大眼目 」 を總動員して
「 國體明徴---粛軍---維新革命 」 は正しく三位一體の指標であつて
相澤中佐蹶起の眞因は玆に在つたと鞏調して、
左記の如き文書等に依り 盛に他の愛国團體に飛檄して
公判公開の要請 及び 減刑運動を慫慂し 昭和維新達成の氣運醸成を圖つた。

相澤中佐公判に對する直心道場の方針眉
一、
國體明徴と粛軍と維新は三位一體なり
國體明徴が單なる學説 竝 學説信奉者の排撃に止まる可からず、
諸制度百般に歪曲埋設せられたる國體實相の開顯

而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界の現狀を維持せんとする勢力
( 機關説擁護 = 資本主義維持 = 法律至上主義 = 個人主義自由主義 ) 
が 現に政治的勢力を掌握しあり、
又 内外勢力の切迫より檯頭だいとうせる所謂 金權ファッショ勢力
( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、統制萬能主義勢力 = 官僚ファッショ は此の一味 ? )
が 政権權を窺窬きゆしつつある今日に於て、
まつろはぬ者共を討平げ 皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、
國體明徴維新聖戰に不可欠の要件焦眉しゅうびの急務なり。
一、
國體明徴運動途上に於ける陸軍首脳部の態度は
新陸相に於て金權ファッショ的野望を抱きながら
郷軍と鞏壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄動たり、
現陸相に於て國體護持、建軍本義に恥ずべき右顧左眄たり。
対政府妥協たるは何ぞ
是れ皇軍内部に巣喰ふ反國體勢力への内通者、
ファッショ勢力 乃 至自由主義明哲保身流の國體に対する無信念
皇軍の本義に対する無自覚に禍せられたるによらずんばあらず、
國民と軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、
永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は相澤中佐を以て 「 誤れる巷説を妄信したる者 」
とせる眞相隠蔽事實歪曲たり。
次で師團長、軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結強化 」 の鞏調にて
其の結果は忠誠眞摯なる將士の処罰たり、
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任当初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄挙に出で來る。
國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、
現役のみが軍人に非らず、國民皆兵軍民一體なり、
全國民は皇軍の維新的粛正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、
今や皇軍身中の毒虫を誅討せる相澤中佐の豫審終結し 近く公判開始せられんとす。
國民は眞個軍民一體の皇軍扶翼を可能ならしむべく 皇軍の維新的粛正を希求し
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。

(1)  公判は公開せざるべからず。
一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ、
軍民一體を毀損し  大元帥陛下御親率国民皆兵の本義に背反するものなり 。
(2)  三月事件、十月事件の眞相、永田軍務局長の暗躍、十一月誣告事件の眞相、
總監更迭に絡む統帥權干犯嫌疑事實は、

軍を闡明ならしめ 責任者を公正に處斷して上下の疑惑を一掃し 軍の威信を恢復すべし。

粛軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非らず、
粛軍の徹底は破邪顕正の中堅實力の整備を意味する。

反國體現狀維持勢力が政權を壟斷し國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論、決議勧告のみにして實力の充實威力の完備なき糾彈は政府の痛痒を感ずる所に非らず、
実に粛軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上

斯くて相澤中佐の公判は昭和十一年一月二十八日より開廷され、
ニ ・ニ六事件勃發の前日迄 十回開廷されたが、其の間 彼等は益々積極的に公判闘爭の指導に乗出し
軍内外の革命情勢の誘致に全力を濺いだ。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動

第八章  国体明徴問題と永田軍務局長刺殺事件、ニ ・ニ六事件
現代史資料4  国家主義運動1  から


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