あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『 はじめから死刑に決めていた 』

2022年11月21日 05時13分50秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。
拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・幕僚の筋書き 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」


両人は極刑にすべきである。
両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である。
 ・・・寺内陸相
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか眞崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。・・・片倉衷

陸軍当局は、事件勃発直後から北一輝と西田税をその黒幕と断じ、電話盗聴その他の内定を怠らなかった。
二月二八日午後、憲兵の一隊が北邸を襲い、北を検束した。
西田は間一髪逃れたが、三月四日早朝警視庁係官によって検挙された。
陸軍が、司法当局の反対を押し切って東京陸軍軍法会議の管轄権を民間人にまで及ぼした最大の狙いは、
北 ・西田の断罪と抹殺にあったと推測される。
三月一日付の陸軍大臣通達
( 陸密第一四〇号 「 事件関係者ノ摘発捜査ニ関スル件 」 )
は、次のように述べる。
この通達が、予審も始まっていない段階のものであることに注目する必要がある。
北 ・西田を張本人とする路線は、最初から敷かれていたのである。
「 叛乱軍幹部及其一味ノ思想系統ハ、
 過激ナル赤色的國體変革陰謀ヲ機関説ニ基ク君主制ヲ以テ儀装シタル北一輝ノ社會改造法案、
順逆不二ノ法門等ニ基クモノニシテ、我ガ國體ト全然相容レザル不逞思想ナリトス 」
検察官は、このシナリオに則って、
論告の中で、事件の動機 ・目的として次のように述べる。
「 本叛乱首謀者ハ、日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスルモノニシテ、
 其企図スルトコロハ民主的革命ニアリ・・・・集団的武力ニ依リ 現支配階級ヲ打倒シ、
帝都を擾乱化シ、且帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ 軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期シタルモノナリ 」 ・・・ニ ・二六事件行動隊裁判研究 (ニ)  松本一郎

東京陸軍軍法会議
「 法律ニ定メタル裁判官 」 によることなく、非公開、かつ、弁護人抜きで行われた本裁判は、
少なくとも北一輝などの民間人に関する限り、
明治憲法の保障する 「 臣民の権利 」を蹂躙した違法のものであったということ、
本裁判には、通常の裁判では考えられないような、訴訟手続規定を無視した違法が数多く存在したということ、
北一輝 ・西田税を反乱の首魁として極刑に処した判決は、証拠によらないでっち上げであった
・・・松本一郎
陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、結論的に言うと、指揮権発動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。 これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整
一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・拵えられた憲兵調書 


暗黒裁判
幕僚の謀略 1  西田税と北一輝
『 はじめから死刑に決めていた 
目次
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・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 西田税、北一輝 ・ 捜査経過
西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 暗黒裁判と大御心 
はじめから死刑に決めていた 
暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』
・ 
暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」
拵えられた裁判記録 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。
・・・西田税の最終陳述

次項暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』 に 続く


暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』

2022年11月20日 14時45分46秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

昭和十年十二月頃、
ある青年将校は山口大尉に

「 我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。
防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。
内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だ 」
と  述べている。
青年将校は主に東京衛戍の第一師団歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊
および近衛師団近衛歩兵第三聯隊に属していたが、
第一師団の満洲への派遣が内定したことから、彼らはこれを 「 昭和維新 」 を 妨げる意向と受け取った。
まず相澤事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、
これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、
第一師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は昭和十一年二月二十六日の未明と決められた。
西田等は時期尚早であるとしたが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。

二月二十八日、決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令を受け取った戒厳司令官の香椎浩平中将も、
蹶起将校たちに同情的で、何とか彼らの望んでいる昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、
すぐには実力行使に出なかった。
本庄侍従武官長は何度も蹶起将校の心情を上奏した。
このように、日本軍の上層部も含めて 「 昭和維新 」 を助けようとする動きは多くあった。
しかしながら、これらは全て昭和天皇の強い意志により拒絶され、蹶起は鎮圧された。
蹶起将校の思惑は外れたのである。


昭和維新の春の空 正義に結ぶ益荒男が    胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
「 昭和維新の歌 」 を高唱しながら 三宅坂方面に向い行進する安藤隊

( 二・二六事件後 ) 岳父の本庄大将に宛てて
「 三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。
 それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して
軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、武藤章、片倉衷、それから 内務省警保局の菅太郎であります 」
という文章を書き送った。
 ・・・山口一太郎  ・・・福本亀次 『 兵に告ぐ 』  ・・・眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』

幕僚の謀略

「 政治的非常時變勃發に處する對策要綱 」

序文

帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞 おそれ 少なしとせず。
事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨 きすう にして、
此場合 政府 並 国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契 ママ の事たるのみならず、
革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 対策要綱 」 の実施案

(一) 事変勃発するや直ちに左の処置を講ず

イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二) 戒厳宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を発す
(三) 後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
( 検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項 )
(四) 内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ 
・・・片倉衷・『 片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧 』

予測される青年将校が蹶起に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、

自分達の側がより強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという
構想 をまとめたもので、
昭和九年に片倉衷等が作っていたもの。

この 「 要綱 」 は、国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、
併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識 に立って、
こうした事変勃発を逆に利用して軍部自らは直接手を汚すことなく、
しかも結果的に 『 革新の原動力 』 たらんとする意思を明確に打ち出したもの。
それは、青年将校等の国家改造案とは異なり、
緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚による反クーデター計画案であった。
統制派幕僚は、いつ青年将校が蹶起しても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた。
「 彼等が非合法的な何かをやるのではないか
逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかと考えたのです。
昭和九年一月四日に『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 をまとめた。
これが二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです 」
・・・片倉衷

死刑は既定の方針


 
武藤章中佐             片倉衷少佐
二・二六事件の時、武藤章は軍事課の高級幕僚ですね。そして我々を真向からつぶした。
当時の軍事課長は村上啓作大佐で、村上さんは何かと蹶起将校のメンツが立つようにしてやろうと思っていた。
しかし、部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝ったわけですね。
・・・池田俊彦

二月二十八日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、
緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、
直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、
三月四日に東京陸軍軍法会議を設置した。
法定の特設軍法会議は合囲地境遇戒厳下でないと設置できず、
容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。
特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、
裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。
向坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄 陸軍省法務局長は
「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」 と 述懐する。
事件後、東条英機ら統制派は軍法会議によって皇道派の勢力を一掃し、
結果としては統制派の政治的発言力が強くなった。
東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃の為の、統制派による謀略であった。
そして
迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった
特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、
天皇の裁可を経て三月四日に公布されたものである。
この日、天皇は本庄繁
侍従武官長に対して、裁判は迅速にやるべきことを述べた。
「 軍法會議の構成も定まりたることなるが、
相澤中佐に對する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす。

此度の軍法會議の裁判長、及び判士には、正しく強き將校を任ずるを要す 」
裁判は非公開の特設軍法会議の場で迅速に行われた。
その方法は、審理の内容を徹底して 「 反乱の四日間 」 に絞り込み、
その動機についての審理を行わないことであった
これは先の相澤事件の軍法会議が通常の公開の軍法会議の形で行われた結果、
軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場となって報道も過熱し、
被告人らの思想に同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる。
二・二六事件の審理では非公開で、動機の審理もしないこととした結果、
蹶起した青年将校らは 「 昭和維新の精神 」 を 訴える機会を封じられてしまった
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官  ( 軍法会議首席検察官 ) 等がこれに当る。


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・軍の責任転嫁 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、
軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。

拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
岩淵辰雄は、( 近衛文麿のブレーンとして知られ新聞記者を経て戦後は政治評論家として活躍した  ) 
戦時中、昭和二十年四月の憲兵隊係官との会話を戦後になって次の様に記す。
「 二 ・二六事件をどう思うか 」
と云うから 知らないといったら、
「 それは判らないだろう、世間に発表したのは、
 あれは拵
こしらえたものだから、
ほんとうの真相を知っている者はないはずだ 」
これは恐らく不用意に云ったことだろうが、このちょっとした断片によって窺知きちし得らるるように、
二 ・二六事件としてこれまで世間に公にされたことが、実は 陸軍の首脳と憲兵隊とで捏造され、
歪曲されたもので、ほんとうの真相ではなかったのである。・・・岩淵辰雄 『 敗るゝ日まで 』
ここには軍事法廷で、
軍権力の手で組織的に真実が捏造され、歪曲され、隠蔽封印されたことが、
憲兵隊の口から仄めかされている。
そうした 拵えたシナリオを具体化する場として 暗黒裁判 が要請されるのだ。
三月四日に天皇臨席のもと 枢密院で、
緊急勅令 「 東京陸軍軍法会議に関する件 」 が可決成立、即時交付施行される。
こうして東京陸軍軍法会議が二・二六事件の軍法会議として成立する。
これは陸軍軍法会議法が定める 「 特設軍法会議 」 にあたった。
本来、この規定が適用されるのは戦時中や戒厳令が布かれている地域など、
あくまで応急で臨時の法廷を想定した特別措置にすぎなかった。
その形式を借りて二・二六事件は裁かれる。
こうしてドサクサに紛れて 暗黒裁判 を行う基盤が整ったのだった。
その意図は明白だ。
「 その行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭に悖り、國體を汚し、
その明徴を傷つくるものにして、深くこれを憂慮す 」

という、天皇の意志を背景に、全てを闇に葬り去ろうとしたのだ。
特設軍法会議では弁護人もなく非公開、一審のみで公訴上告はおろか裁判官の忌避も認められない。
「 軍法会議は暗いものだった。そこには軍司法の権威はなかった。歪曲された軍に屈従する軍法の醜態であった 」
 
ある判士によれば、心構えとして こう指示された。
「 一つだけ記憶に残っているのは、判士は予審調書をシッカリ読め ということでした 」

判士たちは旅館に籠り、倉庫の山積みになっていた調書を読むことに没頭したという。
つまり 軍首脳陣が 拵えたシナリオ によって予審調書がすでに作成されており、
その指し示す方向性に従って判士たちが行動することが要請されたと云えよう。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から

暗黒裁判
幕僚の謀略 2  
『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』
目次
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・ 
拵えられた裁判記録 
・ 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
・ 奇怪至極の軍法會議 ・・・橋本徹馬
・ 暗黒裁判と大御心  
・・・大蔵榮一
暗黒裁判 (一) 「 陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」
・ 
暗黒裁判 (二) 「 將校は根こそぎ厳罰に処す 」
・ 
暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」
・ 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」
・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 1
・ 
暗黒裁判 ・ 反駁 2
・ 叛乱に非ず、叛乱罪に非ず  『 大命に抗したる逆賊に非ず』
最期の陳述
・ 二・二六事件 『 判決 』

小川関治郎陸軍法務官を含む軍法会議に於て公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下る。


匂坂春平は後に 「 私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない 」
と 話したという。  そして ひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。

「 二・二六事件の原因動機に付きまして、寺内 ( 前 ) 陸相は叛乱行動迄に至れる彼等の指導精神の根底には、
我が国体と絶対に相容れざる 極めて矯激なる一部部外者の抱懐する
国家革命的思想が横たはつて居ることを見逃す能はざるは 特に遺憾であると、
特別議会で御報告になつたのでありますが、
苟も陸軍幼年学校、士官学校、大学校等に於て 陸軍独自の教育を受けた者、
殊に国体観念に於ては 一般の国民よりも一層徹底した信念を持つて居らなければならぬ帝国の軍人たる者が、
寺内 ( 前 ) 陸相の御話のやうに一部の浪人とも看做みなされるやうな者の、
国体と相容れない思想に動かされ指導されたと言ふやうなことは 吾々は断じてあり得べからざることと確信して居る者であります。
随つて当時、私は寺内陸軍大臣の所謂国体と絶対に相容れない思想とは如何なるものであるか
と言ふことを質問致したのでありますが、之に対しては御答弁がありませんでした。
・・・
第七十回帝国議会の議場で政友会の今井新造代議士の質問 

「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

いろいろと娑婆からここに来るまで戦ってきましたが、今日になって過去一切を静かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません。
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純真な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、挙軍一体の維新態勢にもって来なくてはなりません。
われわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に関する意見書のごときも全くこの意図に出たものでしたが、ただ、返ってきたものはわれわれへの弾圧だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。 維新は先ず陸軍から断行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅こそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りは われわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。 いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、
それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し国を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・村中孝次

私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆
す事によつて
昭和維新が断行される事だと思って居りました処
国家を独するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです 
・・・山王ホテルでの安藤大尉の絶叫である


統帥權と軍人精神

2022年10月11日 05時05分13秒 | ロンドン條約問題

天皇統帥
陸軍はその政治への武器として統帥権を乱用したといわれる。
さきの軍部大臣武官制もまた本来軍統帥確保のための制度であったが、
これが悪用されて政治を左右していた。

一体、統帥権とか皇軍の権威と言われたものは何だったのか、
これを明らかにすることなくしては、
当時の軍の実体を捕捉しがたい。
そこで私はここで一応これらの点に触れておきたい。
勿論、それは学術的な統帥権の解説ではない。
当時、軍の中にいて軍を観察していた一憲兵の所見であるにすぎない。


軍人勅諭  』
軍人が 朝夕に 奉誦した

日本軍では明治天皇の下賜された 『 軍人勅諭 』 をその精神的支柱としていた。
軍人達が朝な夕なに奉誦する 『 軍人勅諭 』 は彼等の日常実践上の軌範であり、
その一挙一道はすべてこの 『 軍人勅諭 』 にもとらないよう要求されていた。
だから 『 軍人勅諭 』 は軍人精神、軍隊精神の骨髄であり血肉でもあった。
軍人にとっては 『 軍人勅諭 』 こそ
古今を通じて謬あやまりのない、永遠不滅の聖典であった。
この 『 軍人勅諭 』 は、
「 わが国の軍隊は世々天皇の統率し給ふところにぞある 」
との御言葉に始まっているが、その中に、
「 --夫れ兵馬の大権は 朕が統ぶる所なれば
 其司々を 臣下には任すなれ、

 其大綱は 朕親ら之を攬り肯て 臣下に委すべきものにあらず。
子々孫々に至るまで篤く斯旨を伝へ、
天子は文武の大権を掌握するの義を存して
再中世以降の如き失態なからしむことを望むなり。

朕は大元帥なるぞ、
されば朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ
其親は特に深かるべき

と宣示されていた。
そこでは兵馬の大権 即ち 統帥大権は
永遠に天皇自ら総攬せらるるものであり、
天皇は軍の大元帥として軍を率い、
しかもその関係は
頭首と股肱という有機的一体化されたものであった。
ここに軍人の天皇統帥に対する異常な感激が生れる。
その頃の天皇は国民の信仰であり万世一系の現人神であった。
この尊厳無比、絶対的ともいうべき天皇の股肱として、
その統帥に服する軍人にとっては栄誉この上もないことだった。
ことにこの天皇統帥を承行する将校たちの統帥大権のうけとり方は、まさに異常なものがあった。
さきの 『 軍人勅諭 』 の礼節の章には、
「上官の命を承ることこれ直に朕の命令なりと心得よ 」
ともあった。
国体を信じ天皇信仰にこり固っている将校にとっては、
その統帥指揮は神聖にして侵すべからざるものであったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
相澤中佐
信念問はれて   
至尊絶對の一言
・・・ 昭和11年1月29日  公判 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
永田中将を斬殺した相澤中佐は尊王絶対を叫びつづけていた。
尊王絶対とは天皇絶対であり
絶対たるべき天皇の統帥大権もまた絶対神聖なるものであった。
その絶対たるべき統帥大権が侵されたと信じたから
彼は軍務局長を殺害してもその罪を意識しなかったのである。
この公判で弁護人となった鵜沢聡明博士は公判進行の途中、
本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に、関連を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、
実にその深刻にして真摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・

・・・リンク→注目すべき鵜沢博士の所論 

と事件の核心について語ったし、 
また二月二十四日の法廷では、
「 私は統帥権干犯問題に関しましては、世間では行政権と混同して、
 却って被告が干犯したのではないかとの観方をさえしている向きがあるかに考えられるのでありますが、
わが国の統帥の本義なるものは欧州のそれとは全く趣を異にしているのであります 」
と述べていた。
鵜沢博士もこの事件につき込んでみて軍人の信仰に近い迄の天皇統帥への感情を知ったのである。
・・・リンク→ 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

また、二 ・二六事件首謀者の一人
磯部浅一 
『 
 獄中日記 』 に 
天皇の玉体に危害を加へんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもつて立つ、
この場合剣をもつて賊を斬ることは赤子の道である、
天皇大権は玉体と不二一体のものである、
されば大権の干犯者 ( 統帥権干犯 ) に対して、
純忠無二なる真日本人が激とし、この賊を討つことは当然のことではないか
 」
・・・獄中日記 (二)  八月九日   ( ・・・リンク→ 獄中手記 )
と書いている。
これが暴論であるかどうかはここでは問題ではない。
彼ら急進的な将校はこう信じていたのである。
彼らの国体信念では天皇の統帥大権を侵すものは
斬奸することは当然としていたのである。 

リンク→ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」

すべての軍人がこのような狂信ではないにしても
国体を信じ天皇統帥の神聖と尊厳を身に沁み込ませていたことは事実であった。
たしかに天皇統帥は軍の生命であり血脈であった。
この生命の脅威を感ずるとき、急進将校は立ち上がって大権を犯した者へ反撃を加えた。
それが五 ・一五 であり、相澤事件であり、二 ・二六事件であった。

 
大日本帝国憲法

統帥權の確立
大日本帝国憲法 で天皇統帥を規定したものはその第十一條であった。
そして第十二條には軍の編成大権を規定していた。
共に天皇の大権事項ではあったが、
特に統帥大権の輔翼は帷幄機関すなわち統帥部にあるとせられ、一般国務の外にあったのである。
だから統帥権独立の憲法上に持つ意味は、統帥の国務からの独立であった。
軍人はこれを 『軍人勅諭 』 との関連において理解し 強く精神的なものと信じていたが
統帥権の独立という法律的概念はそんなものではなかった。
日本の政体としての天皇統治は、文武の実権を掌握するのはただひとり天皇のみにあった。
天皇は一方において国政 ( 文 ) を他方において軍 ( 武 ) を統帥し、
この文武の両権は互に恪循して相侵すことのないのが、古来からの国の姿であり、
国家の繁栄をもたらすものとせられていた。
したがって、統帥権の独立とは天皇統治の作用としては、
統帥が国務の外にあってその干渉をうけないというのにあったのである。
もともと、「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 という憲法第十一條は純統帥事項のことで、
この作戦用兵が国務から独立することには、一応異論はなかった。
しかし 「 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 」 という第十二條には問題があった。
この編成大権が国務か統帥かというのである。
しかし憲法の起草者 伊藤公の 「 憲法義解 」 には、
「 本條ハ陸海軍ノ編成及常備兵額亦天皇ノ親裁スル処ナルコトヲ示ス。
 コレ固ヨリ責任大臣ノ輔翼ニ依ルト雖、又帷幄ノ軍令ニ均シク至尊ノ大権ニ属スベクシテ、
議会ノ干渉ヲ須タザルナリ 」
と解説されていた。
それは、この編成大権は国務大臣の輔翼するものだが、同時に帷幄機関の輔翼するもの、
いいかえれば、軍部大臣は国務大臣として内閣の一員ではあるが、
同時に軍令機関として帷幄に参画するものであるというのである。
これが明治憲法の解釈であり、また、ずっと行われてきた政治的慣行であったのである。
ところが、軍部大臣が国務大臣として内閣に列しながら帷幄機関としての性格をもっているということは、
軍部大臣が内閣の外に帷幄上奏権をもつことであり、その限りにおいて、軍部大臣は内閣の統制外にあった。
このことは憲政の発達に伴うて政党政治が勃興してくると、いろいろな障害となってきて、
この統帥権独立は世の論議の的となってきた。
第二次西園寺内閣で陸軍は二箇師団の増設案を政府に要求した。
これは朝鮮に二箇師団を置こうとするものであったが、内閣はこれに応じなかった。
そこで時の陸軍大臣上原勇作は陸軍大臣のもつ帷幄上奏権を使って内閣を経ないで単独辞職をした。
西園寺は陸軍に後任陸相を求めたが断わられ、ためにこの内閣は総辞職をした。
いわば陸軍は増師に反対する西園寺内閣を倒してしまったのである。
それは大正の始めのことであったが、世論は統帥権独立問題で騒然となった。
公法学者を始めとする学界、言論界がこれを取上げ賛否両論を展開したが、
それはその頃勃興しかけた政党政治発展への一大障碍だったからである。
そこで政治家とくに政党政治家は統帥権の独立は国に二つの政府があるものといい、
この二重政府の弊をためようとして、軍部大臣の帷幄機関としての性格を抹殺しようとした。
少なくとも、政党が大命を拝した場合、思うがままに軍部大臣を得ようとした。
これが軍部大臣の現役より予備役--あるいは文官制への動きであった。
たしかに、国政運用の実際としては統帥を含めてこれが一元化されることが円滑だということになるが、
そうすることによって文が武を抑えることになると、天皇親率にひびが入り、
その頃国威伸張の原動力だった一国の武力が、政府の政策の変更によって、たえず不安動揺をつづける虞もあったのである。
しかし、政党の発展と政党政治の円滑を期するためには、この統帥権の独立を抹殺しなければならない。
かの原敬のごときも一歩一歩、この軍の牙城の切崩しに努力した第一人者であったといわれるが、
もともと統帥権の独立は憲法に根拠するものである限り、そのことは容易なことではなかった。

昭和に入っての統帥権論議は、
これ迄しばしば触れてきた浜口内閣のロンドン条約兵力量決定にからむ統帥権干犯であった。
これは明らかに浜口内閣の統帥権干犯で、
少なくともこれまでに慣例のない、政府による国防兵力量の決定をあえてしたのである。
ここでも統帥権論議は喧々ごうごうたるものがあったが、浜口首相はこれがため一刺客に撃たれたのであった。
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佐郷屋留雄
リンク
統帥権と帷幄上奏 
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止
・ ロンドン条約をめぐって 2 『 西田税と日本国民党 』 
・ ロンドン条約をめぐって 3 『 統帥権干犯問題 』 

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統帥と国務との対立、それは兵政分離の原則によって互いに侵さず侵されずというにあった。
これを軍人軍隊の方からいえば軍人は剣を持つが故に、
世論に惑わず政治に拘らずと 『 軍人勅諭 』の論に厳格であった。
だから軍人が政治に拘わることは強い法度で、大正の軍人には概ねこれが徹底していた。
だが、昭和の暗黒時代に入ると、さきに述べたように政治軍人が横行したし、政党も凋落してきた。
政党が凋落し軍が政治に檯頭してくると、政治に押されていたこの統帥権も、逆に政治を圧伏することになった。
勿論、そこでは近代戦における国防概念の変化、満洲事変以後の戦争状態の連続もあったが、
歴代の政府でこの統帥権に悩まされないものはなかった。


大谷敬二郎著 
昭和憲兵史 から


相澤三郎 『 年寄りから先ですよ 』

2022年09月16日 15時42分18秒 | 相澤三郎

五・一五事件のとき 相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま 安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、
中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。
「 年寄りから先ですよ 」
は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた。
相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに澁川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」 は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。
・・・ 「年寄りから、先ですよ」 ・・末松太平

相澤三郎
陸軍歩兵中佐 
陸士22期生
歩兵第41聯隊付
昭和10年8月12日 永田鉄山軍務局長に天誅を下す 「相澤事件」
明治22年9月9日生
昭和11年7月3日午前5時4分 銃殺

一ノ関中学校第二学年から仙台陸軍幼年学校に入学
明治41年5月30日幼年学校卒業
同年5月31日、士官候補生として歩兵第29聯隊へ入営
明治43年5月28日陸軍士官学校歩兵科教育課程卒業(95/509)
新義州守備隊で任官、同年、原隊仙台歩兵第29聯隊に帰還
中尉時代に約2年間台湾歩兵第1聯隊附となり、宜蘭守備隊に勤務
大正10年大尉に進級し、原隊歩兵第29聯隊に帰隊、大隊副官を務める
同年暮、戸山学校剣術教官として転出
大正15年、熊本歩兵13聯隊中隊長
昭和2年、東京歩兵第1聯隊附となり、日本体育会体操学校服務
昭和5年、陸軍士官学校剣術教官
昭和6年、少佐に進級、青森歩兵第5聯隊大隊長
昭和7年、秋田歩兵17聯隊大隊長
昭和8年、中佐に進級、福山歩兵第41聯隊附
昭和10年8月、台湾歩兵第一聯隊附に転補


相澤三郎  アイザワ サブロウ
『 年寄りから先ですよ 』

目次

クリック して頁を読む

・ 昭和維新 ・相澤三郎中佐

・ 
「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」 
・ 
「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」 
・ 相澤中佐の中耳炎さわぎ 

・ 國體明徴と相澤中佐事件 
今日本で一番惡い奴はだれですか 
相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )
 ・ 國體明徴と相澤中佐事件
 ・ 永田軍務局長刺殺事件
 ・ 訊問調書 ・ 事件への道程 ( みちのり )
 ・ 憲兵訊問調書 「 天誅を加へたり 」
 ・ 永田伏誅ノ眞相
 ・ 「 永田鐵山のことですか 」
 ・ 「 時に大蔵さん、今日本で一番惡い奴はだれですか 」
 ・ 「 年寄りから、先ですよ 」
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1
 ・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2
 ・ 軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて來ました 」
 ・ 軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が來ないので、円卓の傍を通って軍事課長室へ入る 」
 ・ 軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長へと向ひ合っていた 」
 ・ 軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」
 ・ 軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」
 ・ 軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ (大事) だ 」
 ・ 軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」
 ・ 相澤さんが永田少將をやったよ 
 ・ 行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」
 ・ 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件
 ・ 相澤三郎 發 西田税
 ・ 満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯
 ・ 第一回公判 ・ 満井佐吉中佐の爆彈發言
 ・ 所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 1
 ・ 相澤三郎 ・ 上告趣意書 2
 ・ 大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」
 ・ 判決 『 被告人を死刑に處す 』
 ・ 本朝のこと寸毫も罪惡なし

あを雲の涯 (二十) 相澤三郎 
相澤三郎 『 仕えはたして今かへるわれ 』 (一)
相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二) 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・ 相澤三郎考科表抄 
・ 相澤中佐片影 

剛毅朴訥 仁に近し
剛毅朴訥 にして、決行敢爲の風あり
十の想いを一言で述べる
・・如何にも、相澤中佐に相応しい

相澤三郎中佐の追悼録
相澤三郎の爲人
私が中佐にお目にかかったのは二度です
昭和八年一月五日

山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入って居ました
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じっと下を凝視してゐるのが私の目に入りました
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました
私には今でもはっきり其の姿が見えます
膝をしっかり合わせて、拳をしっかり握って、下を凝視して居られた姿が
その方が相澤少佐殿でした
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに
倚りかかって居られたさうです
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に「乗せて下さい」と云はれて来られたのださうです
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした
唯一言
「遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない」
とポツリポツリおっしゃいました
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました
大体こんな内容でした
遠藤さんはすばらしく偉い人だ
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ
と 力をこめておっしゃいました
分会長は仕方なく相槌を打って居たやうでした
話はたまたま多聞師団長の事に移りました
(其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になって居ました)
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ」
と口を極めて申されました
それから私に 「遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ」 と申されました
私は喜んで承知しました
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました
私は、愕然としました
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます
しばらく続きました
私も泣いて了ひました
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、「お葬式の時には参ります」
と 申されてお帰りになりました
之が最初にお目にかかった時の印象でございます
葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました
同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました
中佐は非常にお喜びになり、
(其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした)
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました
そのときこんなことをおっしゃいました
「あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした」
「遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます」 と
お別れの間近に中佐殿は
「どれ、遠藤さんに報告しやうかな」 と言はれて奥に入られたので私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざってありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません
それから御子様三人を連れられて無理に送って下さいました
発車致しました
挨拶致しました
しばらく経って窓から顔を出すと中佐殿は未だ立って居られます
又敬礼されました
私はびっくりして頭を下げました
胸は一杯でした
しばらくは泣いてゐました
これが二度目でした
八月に進級御礼の挨拶を戴きました
私は中佐殿にお目にかかったのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません
私は中佐殿を維新の志士の如く方と思って居りました
熱烈なる御精神
あの温容
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません
この手紙は一日兄の霊前に供へました
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません
表現するに適当な言葉がありません
只如何としても忘れることの出来ないありがたいお方としか申すことが出来ません
・・・遠藤美樹 ( 満州事変で戦死の遠藤中尉の弟 ) ・・・澤中佐片影

純真素朴で剛毅 ・・・有末精三

朴訥で生一本 ・・・大蔵栄一

信義を重んじる点では相澤中佐は小児のようだった、
小児は冗談でも本気にする。
信義を重んじる相澤中佐に、はったりや冗談は禁物だった。
もちろん小児の如く幼稚ではない。
巧言令色の徒の言には、いささかも耳をかさなかったであろう。
小児の如く信じるのは、信頼する同志の一言一句である ・・末松太平

資性純情朴直にして感激性に富み ・・公訴事実

口は重いというより非常な訥弁で、
面と向かって話しても、調子というものが全然合わなかった。
十の思いを一言で述べるといった具合で、
聞き手の方がよほど想像力を逞しくしないと、
何を言っているのかわからないくらいだった ・・・新井勲

日本という国は不思議な国だ。
まさに神国だ。

こんなに腐りきり、混乱した時世になると、神の使いのような人物が現れる。
相澤さんなぞはその尤ゆうなる人だ。
神の使いのように心に一点の曇りもない。
至純、至誠の人というのは相澤さんのような人を言うのであろう。
・・・西田税、末弟に語る

最も純粋な国体に対する信仰的な信念を有し、
その意味に於て日本臣民たることに非常な感謝の念を抱いている人であり、
かつ 剣 禅 一如 の 修業をされた悟道の風格を備へた人 ・・・西田税

戸山学校剣術教官時代、
天覧に供するため、
木刀で気合もろとも 三六本の棒を一気に倒すという離れ技を披露したことがあった
これも 剣禅一如の極意とされる
神人合一の境地にまで進み得た人 ・・・大蔵栄一

全く我等は神様と崇拝している ・・・小川三郎

山科の浮きさんは 昨日も今日も一力通ひ
女の色香酒の味 敵討ちなど野暮なこと
アア 酔ふた酔ふた 盃の酒までが 
ひよいと見えたよ血の色に
アア酔ふた酔ふた ・・・大石良雄の山科遊び

何時も愉快な源蔵が今日は泣き上戸になって
手酌でクビリクビリと一ツづつのみながら
他出して居ない兄者の羽織にすがって訣れを惜しむ
雪はサラサラ降っている ・・・赤垣源蔵徳利の訣れの小唄
此れ、相澤中佐の好んだ歌である。


松浦邁 (つぐる) 『 現下靑年将校の往くべき道 』

2022年06月29日 19時00分58秒 | 松浦邁

現下靑年將校の往くべき道
松浦邁 (つぐる) 

第一  靑年將校憤起の要
一、
昭和日本の躍動は
唯 昭和靑年將校 「 簡單に中少尉と解すべからず 」 の 赤き血と熱とのみにて行はる。
明治維新は明治の靑年武士に依りて行はれたり、
昭和の大維新は昭和の靑年將校に依りて行はれざるべからす、
夫れ一國の危急を救は
必ずや自己一切を犠牲にして顧みざる鐵心石腸の男児の熱と血との事業一新の天地に躍動すべき
若き日本の渇望するは
唯若き靑年將校の赤き血に漲みなぎり何物をも融かさずには止まざる靑年將校の勢に燃えあがる事のみ。
二、
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は獨り靑年將校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵敎育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ實に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には何物か溢あふるゝ
その至純なる農民層の頼むあるは唯 我等靑年將校のみ、

我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
三、
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鐵火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に獨り苦しめる老父母を殘して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を殘して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて歸りをのみ待てる弟妹を殘して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。彼等は唯 「天皇陛下の爲に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に應ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生靈を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
四、
欧米物質文明に浸潤し盡されたる現下
日本に皇道の大旗を翻し得る者は
獨り武にして文を解し得る我等靑年將校のみ。
皇國を滅亡の淵に臨ましめたるものは 實に歐米物質文明なり、
血の高鳴り 生生と躍動する皇國を以て
一の機械組織と観察したる所に總ての誤謬
ごびゆうは發生す、
現下の政治
現下の經濟
現下の敎育
現下の思想 
悉くが是此の認識の謬点びゅうてんを明證せざるはなし。
吾人は形而下に現はるゝ制度組織のみに理論の是非を行はず
吾人が今日の政党財閥其他一切の私權階級を絶對に否認するは
實に
彼等が彼の誤れる認識信念の下に出發するを以てなり。
今日の世界 文にして武を解し得る者  果して幾人かある 
市ヶ谷臺六十年の精神の發揚せらるゝは正に今日なり、
武にして克く文を解する我等靑年の手にこそ現下の世界及皇國興亡の鍵は握らる。
五、
國家を滅亡に陥るゝ政治經濟を打破し得る者、政治に拘泥せず世論に超越せる皇軍靑年將校を舎きて他なし、
 吾人の動くや悉くこれ聖勅の精神のみ、
字句の末に幻惑せられて文字の含める偉大なる内容に透徹する能はざる愚人輩に吾人は一言を呉るゝを要せず、
實に今日の危急に際し 偉大なる活動を爲さしめんが爲に
平時の枝葉末節の政治經濟技術に關与拘泥するを禁じ給へる大御心を三思せよ。
六、
皇威を發揚し國家を保護する爲に自ら一身を陛下に捧げ奉れる我等は
皇威を遮る宮狐社鼠の徒輩、國家崩壊に瀕せしむる亡國亡階級の存在を坐視するに忍びす。
尊嚴なる自己を顧みよ、吾人の軍服をまとへるは實に劍を以て君國を護らんが爲めなり。
何人の傭兵にも非ず 何人の奴隷にも非ず。
吾人の一身を捧ぐるは唯々 天皇陛下の爲のみ、
今や皇威は姦臣の壟断に委せられんとし
國家は私慾の徒に翻弄せられ抱懐せんとする時 
何故に軍服の國士よ起せざるか、
唯国泰かれと祈り給ひて宸襟を安んじ給ふ
一夜とてもなき 
我等が大君の今日の御苦悩を思ひ奉る時
何人か駘蕩の夢を破り碌々の生を偸ぬすむることの得るものぞ、
我等は黙視し得ざるなり、吾等は傍観し得ざるなり、
起て軍服の國士、吾人が吾人本來の使命に還りて憤起する時
吾人の一切の行動を束縛する何物も無き筈なり。
七、
草薙なぎの神劍を握れる者 之を皇軍靑年將校と謂ふ。
宏謨宣布の前途を遮る魑魅魍魎ちみもうりょうを伐つに草薙神劍あり、
皇道の敵を討つには豈に國外と國内とを問はんや 神劍を握り得るは至誠至純一の私慾なき聖戰散兵線の小隊長のみ。
八、
恒産なくして恒心ある者 唯 士のみ之を能くす。
恒産なくして恒心ある者は未だ之れあらざるなりとの先哲の唱破は現時日本社會に適切なり
恒情なきが故の不平 恒産なきが故の叛逆なり。
「 恒産なくして恒心ある者は唯 士のみ之を能くす 」 の 「 士 」 なる文字を國軍將校全部なりと解すべからず
現下の國軍には恒産あるも恒心なき輩多きに 況や 恒産なくして恒心ある鐵腸夫に於てをや、
「 士 」 とは實に 「 命 」 も要らぬ 名も要らぬ、官位も金も望まざる大丈夫の謂なり、
吾人は恒産なき徒なり 身に具するは一枚の戎衣蓄ふる資本は唯頑健鐵の如き體軀、
命は未來の戰場に托せられ 名誉は散兵線の消耗品に甘んず 官位は一介の中少尉、
金なく 妻なく 子なく 又 私慾なし 唯抱けるは憂國の熱情 唯持てるは破邪顯正の劍。
嗚呼 靑年將校に非ずして、いかで一切を君國に捧げて榮え行く皇國の礎となるに甘んじ得るあらんや、
吾人の抱負唯此の一路あるのみ、嗚呼皇軍の靑年將校に俱に擧りて奮起せん、
吾人を舎いて三千年の皇道を維持し神州を保全し得る者他に一人も非ざるなり。

第二  血と魂との團結の意義
一、
靑年將校は獨逸皇帝統帥權の奴隷となる能はず。
皇國が物質文明の餘弊に滅亡の岐路に立てる時
皇軍亦腐朽せる旧世紀統帥權思想に崩壊の危機に瀕す、

吾人は客年のロンドン條約締結時に於ける統帥權蹂躙の責は
決して他人に非ず 
國軍其者に罪ありと斷言する者なり、
苟も國軍に嚴然たる統帥權の確立する何人か能く之を顗覦ぎゆし何人か能く之を侵犯し得べき、
國軍の統帥權が蹂躙せられたるは 國軍に統帥權の確立あらざりし證明なり、
實に今日唱へらるゝ統帥権の解釋なるものは
何れも誤れる外來思想の根本より發する封建的統帥權にして

明治維新により宣布せられたる大日本帝國兵馬の大權は
斷じて巷問物質観的 學者輩専權的 獨逸思想の奴隷軍人の能く解し得る所にあらず。
然り而して 明治天皇が照炳へいとして明示し給へる兵馬の大權を誤り傳へて
遂に今日の紛糾を生みし者は 悉く陸海軍なり、
今日陸海軍を風靡ふうびする兵馬の大權の思想は
實に旧獨逸皇帝 「 カイゼル 」 の 「 朕の統帥權 」
の思想にして
斷じて我か 大元帥陛下の統帥權に非ず。

「 プロシア 」 王室に身を興して獨逸聯邦の上に専制獨裁帝國を建設せる皇帝 「 カイゼル 」には
「 朕の軍隊 」 「 朕の統帥權 」 の専制必要なりしらん、
然りと雖も三千年の國體ある皇國に持ち來るに此の専制統帥權とは何たる叛逆思想ぞ。
即ち 獨皇帝統帥權下の軍人及軍隊は悉く皇帝 「 カイゼル 」 の専制に死活を委ねられたる奴隷なりしなり。
我等皇國に生れ、 大元帥陛下に一身を捧ぐる者 斷じて斯る専制統帥權の奴隷となること能はざるなり。
而して専制獨逸皇帝の 「 朕の國家 」 が
西欧 「 デモクラシイ 」 の 「 國民の國家 」 に無殘にも撃砕せられたる今日
旧世紀の逆倒的腐朽思想を奉ぜる我陸海軍の専制統帥權が 「 デモクラシイ 」 思想の傀儡たる
現政党財閥に蹂躙せられたるは宣なる哉、
嗚呼 陸海軍は將に 「 統帥權 」 なる桎栝しつかつの下に崩壊せんとす、
吾人靑年將校は一日も早く眞の國體に則る 天皇の兵馬の大權を奉じて腐朽崩落せんとする
旧統帥權なるものを打破駆逐せざるべからず。
二、
皇軍と靑年將校の横断層は國家の精神的崩壊を支ふる最後のかくなり。
今日上流階級の物質的思想は上流より下流に及ぶものなり。
彼等には到底皇道なるものを解し得ず
従ってその誤れる國家観、國體観が恐るべき惡思想を國民に流布しつゝあるなり。
吾人は總てが唯物的思想より發生せる 「 デモクラシイ 」 政治にも 「 ファッショ 」 獨裁政治にも荷担する能はず。
國家主義にも將た 又 日本主義にも世界主義にも、斷じて荷担する能はず、
總ての主義なるものが微なる一個人の獨斷を以て創案せられたる唯物唯心
何れかの一面的表面観察に過ぎざるを知るものなり、
斯くの如く 吾人が現下の國家を見渡して
供手傍観して
國家を批判し得るものゝ存在を何処にも發見し得ざるものなり、
國民は白紙なり
偉大なる凡人なり
赤く染むれば赤くなり、
黒く染むれば黒くなる、

此の純眞にして凡愚なる民衆なるものに
一度此の思想の浸潤せんか
恐る可き國民的崩壊は立所に至らん。
軍服を着たる偉大なる民衆は實に吾人の部下たる兵卒なることを忘却す可からず。
靑年將校は下級武士なり、偉大にして純眞なり、
民衆なるものゝ直接上層に位置する者、
其の腐敗如何は直ちに直接、
接する偉大なる軍服の民衆に及ばん。
然りと雖も吾人は斷言す、
現下吾人皇軍靑年將校は、決して上流亡國社會の腐朽惡思想の浸潤を受け居らず

皇國は實に皇軍靑年將校の至純至誠なる魂の横斷層を以て最後の複郭となし
以て彼等の腐朽惡外來思想の浸潤を防止することを絶對に必要とするものなり。
三、
皇道の敵を討つ聖戰に第一線小隊長の聯絡結束は最大の急務なり。
腐朽の言辭を連ねて靑年將校の横斷的結束を禁ずる人よ、
汝等は横斷的聯繋れんけいなるものを奉じて敵を前にして中隊長大隊長師團長の系統を辿れる命令文なる
物質的統帥權の降る待たざれば何事も出來得ざるか、
汝等が突撃の團結の爲に比隣各小隊長と密接なる聯繋を取ることは汝等の言に依れば
「 統帥權 」 に叛逆する横斷的結束には非ざるか、
一文の価値なき陳腐の議論を止めよ、

血と魂との躍動する皇軍隊の中には横と縦との區別あるなし、
横斷層の鐵の如き結束なくしていかで一體渾然こんぜん融和堅牢無比なる鐵軍の形成せらるべき。
吾人皇軍將校の護る者は唯 皇運、吾人皇軍將校の討つは 唯皇道の敵、
皇道の敵を討つに豈形體上の國境の内と外とを問はんや。
我等の鐵の如き横斷的聯繋結束は皇道の敵を討つ第一戰、小隊長當然の急務なり。
四、
靑年將校は正に市ヶ谷臺六十年の魂に結ぶべし。
血と熱と誠 唯 之を以て肝胆相照すに在り。
皇國の上流支配層及中流知識層の徒輩 悉くが物質文明の奴隷と化し去れる今日
武士道の眞精神を把握し撫養し來れる市ヶ谷臺の子が六十年來燃し來りし聖火を掲げて
神州の邪惡を焼き盡くさん時は正に今なり、
嗚呼 皇軍靑年將校よ。
再び魂の故郷に還れ。
一の私慾なく
一の不純なく
唯燃ゆる正義の熱血と 温かき友情の交融とに

一切を皇國に捧げて顧みずと誓ひし 臺上四年の生活に還らん。
同じ校舎に學び 同じ校庭に武を練り 共に食し 共に寝ね 共に志を同じうする魂の友よ、
今や雙ふたつ手以て皇道精神の大旆おおはたを掲げ
危急の皇國を救ひて
神州正気を永遠に伝ふべき時には非ずや、
紛糾の議論を捨てよ
栄華の野心を屠
ほふ
血と熱と誠の合體
是れ吾人の叫ばんとする
皇軍靑年將校の横斷的結束なり。

第三  擧軍一體の宣言
一、
年將校の信念は昭和日本の信念なり。
靑年將校の動は昭和日本の動向なり。
嗚呼 吾人靑年將校の此の血と熱と誠とに抗し得る何者ありや、
吾人の血は清純なり 一の汚濁なし、吾人の魂は至誠なり 一の蔽はるゝ所なし。
誠は天の道にして誠を行ふは人の道なり、
天は物言はず然も健々廻りて息まず 皇道悠々唯黙々神惟しんいの道は一の言擧げを要せず。
唯至誠至純なる吾人の魂にのみ吾皇道の精神は宿る、
私慾なく私心なき國士の動向こそ實に我尊嚴なる國體の顯現なり。
一切を犠牲にして唯 天皇にのみ歸する吾人靑年將校の信念こそ
將に旧殻を打破して一新の天地に更生すべき昭和日本の信念なり。
明治の御代に生を禀けたる人は 明治の日本を担へり、
昭和に生を禀けたる吾人は正に昭和日本を担はんとす、
將に脱落せんとする表皮の如き存在たる老人輩に若き血に躍動する昭和日本を担ひ得るものに非ず。
吾人は唯 彼等の今日迄に於ける國家に対する勲業を感謝して彼等に隠居を勧むれば足る。
二、
年將校は直しく溢るゝ叫の熱血と至純とを以て全軍を焼き 全國民を焼き盡くすべし。
我等は此の熱血と至誠とを二十萬の部下に及ぼすべし。
我等の熱もて彼等の血を湧かし 我等の誠もて彼等の愛國心を叫び起すべし。
彼等軍服の農民が 我等より受けたる愛國の熱血に奮起する時 天下何物か此の大濤だいどうに抗し得べき。
我等は我等の此の至誠を我等の上長に推倒すべし、至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。
我等の上長の動かざるは我等の至誠未だ足らざるなり。
我等の上長等を知る能はず 我等を解する能はず、吾等の勞未だ足らざるが故なり、
我等は千百の理論を陳べて上長に強るに非ず、上長に従はしむるに非ず 上長を啓蒙するに非ず。
吾人は吾人を統率する偉大にして宏濶なる胸と腹とを有せらるゝ我等の上長の其胸と腹の中に熱血を濺ぎ、
吾人の至誠を推倒し 而して我等の此の熱血の大濤に乗り 我等のこの至誠の團結の統帥者となりて
此の熱血の波濤を彼岸に打たしめ 此の至誠の團結をして皇國興隆の精神的革新とせしめられんことなり。
我等はゆる努力を傾けて我等の上長を動かさざるべからず、
我等の此の至誠にして何者か動かさざるものあるべき、
我等のこの熱血にして何者か焼かれざる者あるべき、
上官をして動かしむるには唯々吾人の至誠による團結結束を以て推し行くにあるのみ。
三、
明治大正の御代の皇國に血と魂とを附与したる皇軍の上長は
宜しく昭和御代の皇國には昭和の靑年將校の血と魂とを献ぜしめよ。
至公至平を旨とせらるゝ我等の上長は
心を空しくして昭和皇軍靑年將校の血と魂とを その擴なる腹中に容れらるべし。
靑年將校はあくまで上長の部下なり、
靑年將校はあく迄初年兵敎官にして第一戰小隊長たり、

我等は初年兵敎官として軍服の農民の苦悩を知り 軍服の農民の魂を攫つか
軍服の農民を握る我等は第一戰小隊長として皇道の敵を討つて殉國の血を湧し
至誠と決死との團結を作り 前進又前進するのみ、
我等は礼儀の如何なるものなるかを知り 我等は統帥の眞諦の如何なるものなりやを知る。
皇軍は武装せる 「 ロボット 」 の集團に非ざるが故に 上長が上意を解せず下意を評せずと言ひて
直に上下を轉倒し 若しくは上長を屠りて破壊の建設を叫ぶものに非ず。
皇軍が専制覇王に率いらるゝ軍隊はならば反逆もあり上下轉倒もあるべし。
然りと雖も吾人の皇室は有形的階級の區別こそあれ一様に、
天皇の股肱たり護國の大丈夫たる平等自由なる人格との團結なるを信ずるが故に
斷じて獨露奴隷軍の軌わだちを踏むものにあらず。
皇軍が物質的機械的なる組織に運用せらるゝならば破壊と建設とは行はれ得べし。
然れ共 血の通へる魂の通ぜる皇軍に於ては破壊もなく建設もなし。
唯 期するは皇軍の生命體に宿る憎むべき毒惡腐朽の鼠賊を掃蕩し
不死鳥の如く旧殻を打破焼盡して大悟更生の一途あるのみ。
六十年間脱却し得ざりし獨逸式専權の旧套をば皇國の血と肉とを體得して生れ出たる
我等靑年將校の殉國決死の熱炎を以て焼き捨つべし。
今や靑年將校の信念と實力とは嚴然として總て備はれり、我等の意氣は皇道を疾駆する駿馬の如し。
乗馬本分者たる上長は宜しく此の駿馬に跨れ手綱を把し 鞍を要せず。
駿馬は在ゆる難路嶮難けんなんを踏破して皇道の理想に邁進せん、
大一線全線の鞏き聯絡は完成せり、
聯隊長師團長軍司令官 宜しく馬首を進むべし、
聖戰場裡機 既に熱す、前線の將士決河怒涛の満を持せり、
嗚呼 斯くの如くして上下一致渾然こんぜん團結堂々として毅然きぜんとして王事に勤勞すべし。
勅諭は上たると 下たるとを問はず 上下の團結を紊す者を誡むるに
「 軍隊の蠧きくいむし毒國家の爲許し難き罪人を 」 以てし給へり。

第四  破邪顯正劒
一、
他人の惡を責むる前に先づ自己の惡を正せ、
他國の不正に刃を向來る前に先づ自國の不正鼠賊を掃蕩すべし。
自己の内心疚やましくして何人に向って正義を唱へん、
自國の内に皇道を阻害する獅子身中の虫を抱き何処の國に向ってか皇道を、
宣布し得べき、自己社會の中に資本主義の如き誤れる物質文明の大欠陥を包蔵し乍ら
同じ物質文明の胎中より發生せる共産主義國に對して何の日露戰爭ぞ。
斯の如き腐爛せる國を提げて戰ふは是れ國民を駆って崩壊滅亡の深淵に投ずるの大罪なり、
外勢の我皇國に向つて逼追ひっついせる今日 吾人は一日も速に皇國の眞實の姿に返して
眞の皇道國家として甦らせしめ九千萬の民と共に正義の敵に當らんと欲す。
皇道を甦らすには皇道に仇なす敵を掃蕩すべし、
皇道の敵は宮中に在り、元老重臣中に在り矣

二、
皇國は一日も速かに皇國本然の姿に還り
而して皇道の宣布に仇なす赤賊の根拠に對し
昭和の三韓征伐を斷行すべし。
資本主義社會に巣喰ふ赤賊輩は資本主義社會の存在する限り絶滅し得るものに非ず。
皇國は物質文明の生みし金銭の奴隷制度たる資本主義思想を根底より打破し
眞に本然の皇道に建直したる後は 神功皇后の御鴻業に則り
一日も早く同じ物質文明の奴隷たる赤賊の根拠地ソヴエート政權に聖戰の大軍を向けて
赤露獨裁専制王に城下の盟をなさしめざるべからず。
三、
東海日出る所の皇道の聖火燃ゆれば 世界の萬惡悉く焼盡せられ
二十億人類に皇化霑うるおはん、北歐一野蛮國の膺おう懲何物ぞ。
吾人の往手は豈氷雪に閉さるゝ西伯利亜のみならんや、
資本と武力と鐵鎖に幾百年間縛られて

死滅に瀕する我等の同胞亜細亜民族を救ひ
更に一歩聖旆はたを進めては物質文明の闇に沈淪して苦悩の窮極に喘ぐ世界人類の上に
救世の神國となつて君臨し 六合を兼ねて國となし
八紘を蔽ひて宇となすてふ
皇道の大理想を實現すべし。
嗚呼 靑年將校は 「 一世の智勇を推倒し 萬古の心胸を開拓 」 せん。
是れ 吾人の人生の總てなり。

第五  總てを天皇へ
我等の士 我等の家 我等の財 我等の生命 總て悉く 天皇のものなり
利慾の邪念を脱却して自己を顧みよ 何処に自己の物ありや、
何処に自己の恣
ほしいままにし得る物ありや、
總ては天皇の物なり、天皇の物なり、
汝は汝等が最も尊重して之のみは自己のものなりと信ずる汝等自身の生命さへも
断じて汝等自身が能く左右し得るものに非ず。
況や汝等の身邊に附随する有形物質に於てや、
汝等は國家の一細胞にして汝等の血には 肉には
國家の生命が脈打てり。
汝等の父母も妻子も同胞も悉く國家のものなればなり、
汝等は象徴し給へる天皇の赤子に非ずや。
國家生活の血液たる經濟の大權を速に、 天皇に奉還せよ。
財は國家なる生命隊の形而下的血液なり。
誤れる個人主義理論に立脚して國家のものなるべき財を、
個人の専斷に委ねて顧みざる無謀の惡制度を日本國體は許容する能はず。
今や財界は物質文明最後の終幕たる世界經濟大恐慌の怒濤壊滅せられんとす、
天命は明かに汝等の上に令せり。
聞け 「 總ての土地と財を 天皇に奉還せよ 」
一、
我等靑年將校の往く所 何物か粉砕せざらん
嗚呼 吾人の血潮は今や揺坤ようこんの波濤となって滔々と進む、
吾人の熱誠は焦天の炎として燃ゆ、
何物か砕かざらん、何物か焼かざらん、

吾人の行手を遮る眞に何物かある、
吾人は至誠を推して進む、吾人は熱血を吐露して進む、
然りと雖も吾人の此の至誠に遂に動かず、
吾人の此の熱血を遂に腹中に入るゝ能はざる者あらば
吾人は彼等を捨てゝ進まん、
顧みずして進まん。

彼等は既に死物なり、彼等は既に皇道の障碍なり、
吾人皇軍靑年將校は如何なる威武や權力が之を阻止すとも遮斷すとも
斷々乎として獨り皇道を闊歩せん、

吾人は絶對に腐朽せる獨逸式統帥權力に服従せず。
何者か聖なる大同團結の前途を阻止するが如き、
魑魅魍魎あるには三千年の武の精神を傳へたる草薙の神劍は閃かん、
宝刀鞘を脱する時 何の魔か降らざらん。
吾人は抜くべき宝刀を握れり。
聖旆は進む
日本國民よ擧りて行け  天皇の許へ
昭和八年三月十日
靑年將校

現代史資料4 国家主義運動1 から


相澤三郎中佐の追悼録

2022年03月19日 08時40分07秒 | 相澤中佐の片影


述懐
神州男子坐大義
盲虎信脚不堪看
誰知萬里一條鐡
一劍己離起雨情

1  相澤中佐の片影
目次
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一、中佐の略歴 ・・・
中佐の略歴 
二、中佐の片影
其一  尾崎英雄氏  ( 当番兵 ) ・・・
中佐の片影・其一 『 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた 』 
其二  遠藤美樹氏  ( 戦死者の弟 ) ・・・中佐の片影・其二 『 如何としても忘れることの出来ないありがたいお方 』 
其三  小田島橘氏  ( 戦死者の兄 ) ・・・中佐の片影・其三 『 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 』 
其四  大野虎六氏  ( 退役陸軍大佐 ) ・・・中佐の片影・其四 『 尽忠至誠一点のまじりけない人 』 
其五  今泉富与嬢  ( 慶応大学看護婦 ) ・・・中佐の片影・其五 『 神様が相澤様を御選びになられました 』 
其六  佐藤光永氏  ( 大日本赤子会理事、中佐の竹馬の友 ) ・・・中佐の片影・其六 『 よくよくの事情があつたに違ひありません 』 
其七  福定 無外老師 談  ( 中佐の下宿せし輪王寺住職 ) ・・・中佐の片影・其七 『 止むに止まれぬ精神の発露である 』 
其八  某氏  ( 中佐の親友 ) ・・・中佐の片影・其八 『 正に相澤殿の一挙一道は菩薩業と確信罷在る 』 
其九  某氏  ( 中佐の親友 ) ・・・中佐の片影・其九 『 熟慮断行の人 』
第十  一青年  ( 福山市 ) ・・・中佐の片影・其十 『 天子様の御地位は安全ですか 』 
其十一  K生 ・・・中佐の片影・其十一 『 あの人ならば断じて私心ではない 』 
其十二  R生 ・・・中佐の片影・其十二 『 ああ言ふ人が日本民族のほんとうの姿 』 
其十三  ○○中尉 ・・・中佐の片影・其十三 『 大隊長は変わりものだヨ 』 
其十四  ○○大尉 ・・・中佐の片影・其十四 『 鮮血一滴洗邦家  千古賊名甘受還 』 
其十五  ××大尉 ・・・中佐の片影・其十五 『 純一無雑の心 』 
其十六  □□中尉 ・・・中佐の片影・其十六 『 馬鹿ツ、それでも見習士官か !! 』 
其十七  △△少佐 ・・・中佐の片影・其十七 『 中佐殿は御令息の御重態をも省みず演習に参加せられた 』 
其十八  ○中尉 ・・・中佐の片影・其十八 『 厳乎たる正しき人 』 
其十九  ××少尉 ・・・中佐の片影・其十九 『 現代の典型的武人 』 
其二十  ○○曹長 ・・・中佐の片影・其二十 『 部下を決して叱られません 』 
其二十一  △△中佐 ・・・中佐の片影・其二十一 『 不義と見れば権勢を恐れず敢然排除する人であつた 』 
其二十二  ○○中佐 ・・・中佐の片影・其二十二 『 腹の勉強を忘れるなよ 』 

三、中佐最近の書信

  中佐が子女を教養するに如何に眞率熱心であるかを窺ひ
且つそ聲の一端を伝へる爲め、これを蒐録する。

1、八月十四日 ( 宣子殿宛 ) ・・・
中佐最近の書信・八月十四日 『 母の至情を心肝に銘じ毎日励むこと 』 
2、九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・九月二十日 『 私の心持をちやんと承知して居ることを何よりうれしく思ふ 』 
3、九月二十七日 ( 宣子殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・九月二十七日 『 うがひ もよいですよ 』 
4、十月十六日 ( 正彦殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・十月十六日  『 少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ 』 
5、十一月一日 (道子殿宛 ) ・・・中佐最近の書信・十一月一日 『 尊い人になりなさい 』 
四、雑録 ・・・雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 』 
 
2  相澤中佐遺詠
本冊はさきに配布した 『 相澤中佐の片影 』 の後半である。
本冊を配布しやうとした矢先 偶々 二 ・二六事件が起つたので
今更どうかとも考へ手許に保留しつつ右事件の推移を逐つた。
東京事件も今や建設期に入つている今日本冊の如き一見閑文字に過ぎる
のみならず十日の菊過ぎるの感もあるので 配布を見合はせやうかとも考へはしたが、
然し前半のみで後半をお届けしないことは余りに尻切れ蜻蛉すぎるので
不満足ながらともかくお届けすることにした。
今次 東京事件の遠因の一が相澤中佐の行動 並に その公判に在つたことを想ふとき
何らかの意味で御参考の一助にもなり得ることもあらうかと考へつつ。

一、〔 ○○中佐談 〕 ・・・
相澤中佐遺影 一、〔 ○○中佐談 〕 
二、 ○○中佐談 ・・・相澤中佐遺影 二、○○中佐談 
三、風格雑録
皇天人を選んで過りなし。
相澤中佐の為人寔に神の如く、
此の人にして此の事あるを察せずんば
永田事件の眞相を味識することは出來ない。
以下各方面の談話、信書等を編錄して中佐の風格を窺ふことにする。
・・・
相澤中佐遺影 三、風格雑録 (一) 
・・・
相澤中佐遺影 三、風格雑録 (ニ) 


相澤三郎 
二 ・二六事件 (一 ) から


中佐の略歴

2022年03月18日 10時15分17秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
中佐の略歴
中佐は仙台市光善通六番地故相澤兵之助の長男に生れた。
父君は仙台伊達藩士で、裁判所書記として宮城県石巻、福島県白河、若松、郡山、仙台市等に歴任奉職し、
退職後岩手県一ノ關、仙台市、福島県相馬中村等に公証役場を開いて來て中村で歿せられた。
五、六歳の頃中佐は父君に従つて、郡山市 ( 當時町 ) 郊外の一小庵寺に起居して居た。
其頃父君は旧藩の先輩同輩で維新の際に死んだ人々の故事を仔細に調査し、
其の埋れた弧忠を留め彰すべく、全く獨力で附近の遺跡に石碑を建てられたと言ふ。
常々中佐に語つて言はれた。
「 わしは仙台の藩士で、御維新の時には小義に因はれて官軍に抗し
申譯ないことをした。
お前はどうか何時迄も天皇陛下に忠義を盡し、此の父の代りをも努めて呉れ。
これがわしの遺言じや 」 と。
父君は忠君愛國の至誠厚き方で、明治神宮造営中、松を献上せんとして上京し、
方々物色されたが適當なのが見當らなかつた爲め、
遂に仙台の自宅の庭の松を搬送して奉納されたことがあつた。
現在宝物殿の傍に常盤の色を誇つているのがそれである。

( 大正七年四月十九日、東京夕刊新報第三面上段記事抄録 )
  三間半の笠松を明治神宮へ仙台から = 護衛して來て奉献した相澤翁
一昨十七日午後三時頃府下代々木なる明治神宮へ見事な笠松の巨木を献上した老人がある。
それは仙台市に住む相澤兵之助 ( 六六 ) 氏と言ひ、
鐵路を輸送して來ることとて折角奉献するものを傷つけたくないと言ふので、
老ひの身も厭はず遥々國の仙台から附き添つて來た苦心は空しからず、
代々木に到着の檢分して見ると何処に一つの傷もなかつたので其のまま献上を濟ませたが、
該笠松は歳二百年青葉城の庭木であつたのを重臣が拝領して相澤氏が譲り受けたもので、
大きさ三間半と言ふ見事な世にも希れな逸品との事である。
さて相澤氏が此の献上の際 かく特に深い注意を拂つた動機はと言ふに、
過日伊勢の某氏から献上した十一本の眞榊は名木のみを取揃へたと言ふに眞赤な僞物ばかりで
大木を利用しその根へ指して榊の枝を植え附けたイカ物なる事が發見され、
献上した某氏は植木屋任せにして置いた結果、とんでもないものを献上して了つたと後悔したとか言ふので、
國民の赤誠を表し奉るべき場所柄をも省みずかかる不正卑劣な植木屋風情の行爲は憎んでも余りあるが、
奉献者の誠意にも尚欠くる処があるのではないかと、扨こそこの擧に出でたものだと言ふが ?事である。
因に同神宮に同日までの献木は八万六千本に及んださうな。

中佐の母君まき子刀自は仙台藩士羽田善助氏の女。
武家育ちの女丈夫とも言ふべき方で、その家庭教育も極めて武士的教育であつた。
中佐は明治二十二年九月九日丁度満月の昇る頃、
福島県白河町の裁判官官舎で呱々の声を挙げたのであつた。
幼少の頃は極めて従順で殆んど喧嘩をしたことがなく、
弱虫と言はれる程であつたがよく両親の教訓を守り評判の親孝行であつた。
令姉二人、令弟一人、 ( 令兄一人は夭死ようし ) あるが、姉弟仲は極めて睦しかつた。
幼年學校入學後潜んで居た剛毅な性格が出て來て家人も驚かれたと言ふ。
中佐が任官の時、母堂は和歌一首を送つて励まされた。
天地のめぐみのつゆのかぎりなき  學びて國と君につくせよ

一ノ關中學校第二学年から仙台陸軍幼年學校に入學して陸軍に入り、
明治四十三年新義州守備隊で任官し、幾許もなく原隊たる仙台歩兵第二十九聯隊に歸還、
中尉時代に約二年間臺灣歩兵第一聯隊附となり、宜蘭守備隊に勤務した。
大正十年大尉に進級して、原隊歩兵第二十九聯隊に帰り、大隊副官を勤めた。
同年暮戸山學校劍術教官として轉出、同十五年熊本歩兵第十三聯隊中隊長に補せられた。
昭和二年東京歩兵第一聯隊附となり、日本体育会体操學校服務を命ぜられ、
同五年陸軍士官學校劍術教官に補せられた。
昭和六年少佐に進級し、青森歩兵第五聯隊大隊長に補せらる。
昭和六年秋の十月事件、五 ・一五事件當時はこの大隊長時代であつた。
昭和七年秋田歩兵第十七聯隊大隊長に轉補、
同八月中佐に進級して福山歩兵第四十一聯隊に補せられ、
十年八月臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せらるるまで同隊に勤務していたのである。

次頁 中佐の片影・其一 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 ) から


中佐の片影・其一 『 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた 』

2022年03月17日 12時43分28秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其一    尾崎英雄 氏  ( 當番兵 )

自分は中佐殿の當番として半年毎日御宅へ公用に出て居りました。
尾崎として一番感じたことは軍隊で一番大切な不言實行のお方であり、
礼儀の正しいお方と毎日思つて居りました。
それは一寸したことでも當番としての自分が用事を行ふと
親しい御顔で有難う有難うと何度も礼を言はれたり、
又通勤に乗られる馬も乗られるのは朝だけで、歸られる時は何時も歩いて歸られて居りました。
それはお前等も忙しいから自分の事が十分に出來るやうにとの感謝に堪へぬ御心からです。
又御旅行の時など驛まで馬で送つて自分が歸る時、
自動車など多く通るから馬が荒れると危ないと言はれて、
自分が恐縮してお斷りしたのを、
無理に中佐殿は私が乗る馬の銜くつわをしつかり御持ちになつて下さいました
部下を思ふ御心から上官が人前でも而も平気で親切にこんなことまでも行つて下さつたのです。
又演習に行かれても 「 歩くお前は疲れるだらう 」 と言はれて、
何度も何度も休んで行かれたり、よく兵隊の事に気をつけて下さる方でした。
又夕方御宅に公用に行く時、雨など降つている日には 「 本日は天気が惡いから來ぬでもよい 」
と云つて休ませたり、その部下を愛する御心は口筆に言はれない色々なことが多くあります。
今度のことに就きましても私は唯々中佐殿の御武運の強からんことを神にお願ひする次第であります。
何か後先となり讀みにくい事ではありませうが、
私の言ひ度いことは 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた ことを書き度いのでしたが、
演習で疲れて何やかやで思ふように書けませんでした。

次頁 中佐の片影・其二 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其二 『 如何としても忘れることの出來ないありがたいお方 』

2022年03月16日 13時26分32秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其二  遠藤美樹 氏  ( 戰死者の弟 )

私が中佐にお目にかかつたのは二度です。
昭和八年一月五日 山海関西関に於きまして戰死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました。
他人としては当町分會長長谷川大尉、小學校長五十嵐氏が入つて居ました。
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身體、襟章は十七、じつと下を凝視してゐるのが私の目に入りました。
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました。
私には今でもはっきり其の姿が見えます。
膝をしつかり合わせて、拳をしっかり握つて、下を凝視して居られた姿が。
その方が相澤少佐殿でした。
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです。
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて獨りブリッジに倚りかかって居られたさうです。
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に 「 乗せて下さい 」 と云はれて來られたのださうです。
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました。
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした。
唯一言
「 遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない 」
とポツリポツリおっしゃいました。
それから白石町分會長長谷川大尉と話し出されました。
大體こんな内容でした。
遠藤さんはすばらしく偉い人だ。
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ。
と 力をこめておつしゃいました。
分會長は仕方なく相槌を打つて居たやうでした。
話はたまたま多聞師團長の事に移りました。
( 其の頃は第二師團が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師團長を招待し、胸像を贈呈する予定になつて居ました )
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「 多聞師團長に胸像をやるよりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ 」
と口を極めて申されました。
それから私に 「 遠藤さんの骨を持たせて冩眞をとらせてくれ 」 と申されました。
私は喜んで承知しました。
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました。
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな聲を上げて泣き出されました
私は、愕然としました。
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます。
しばらく續きました。
私も泣いて了ひました。
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、
「 お葬式の時には參ります 」
と 申されてお歸りになりました。
之が最初にお目にかかった時の印象でございます。

葬式の時は、現地戰術で參れないと言ふ御懇篤な御書面がありました。

同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事變戰歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に參目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました。
中佐は非常にお喜びになり、
( 其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした )
丁度會議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました。
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました。
そのときこんなことをおつしゃいました。
「 あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
 そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした 」
「 遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
 しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる。
遠藤さんのお考へは實に立派なものだった。今其の内容を話すことは出來ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの爲めに同志が記念碑を建てます 」 と
お別れの間近に中佐殿は
どれ、遠藤さんに報告しやうかな 」 と言はれて奥に入られたので
私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の冩眞がかざつてありました
私も拝みましたが私は泣いて了ひました。
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって來てたまりません。
それから御子様三人を連れられて無理に送つて下さいました。
發車致しました。
挨拶致しました。
しばらく経經つて窓から顔を出すと中佐殿は未だ立つて居られます。
又敬礼されました。
私はびつくりして頭を下げました。
胸は一杯でした。
しばらくは泣いてゐました。
これが二度目でした。

八月に進級御礼の挨拶を戴きました。
私は中佐殿にお目にかかつたのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出來ません。
兄の冩眞を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます。
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します。
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません。
私は中佐殿を維新の志士の如き方と思つて居りました。
熱烈なる御精神。
あの温容。
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません。
この手紙は一日兄の霊前に供へました。
何卒國家の爲に中佐殿御決行の精神を社會に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます。
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出來ません。
表現するに適當な言葉がありません。
如何としても忘れることの出來ないありがたいお方 としか申すことが出來ません。

 
次頁 中佐の片影・其三 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其三 『 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 』

2022年03月15日 13時55分51秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其三  小田島皓橘 氏  ( 戰死者の兄 )

相澤中佐殿の件に就きて生等も甚だ吃驚罷在候。
如何なればああした直接行動に出でられ候や 判斷に苦しむものに御座候。
嘗つて弟戰死壯候節、
最初に秋田より 片道二時間余の行程を大吹雪を冒してお訪ね被下しは相澤中佐殿に候ひき。
物静かなる中にドッシリとした眞の武士とも申上ぐべき方と拝し候が、
果して後に新聞にて拝見仕るに武道の練達者との御事成程とうなづかれ申候。
相澤中佐殿と拙家何等の縁故も御座なく候に、
他の何人も未だ來らざる前、
大吹雪をついて二時間半の遠路をわざわざと
軍務御多望の折柄御來訪被下
し御芳志に感謝申上げ候に、
「 自分の時間が六時間近くありましたから 」
「 エライ方の御霊を拝し度くて 」 と御言葉僅かに申されて、
何んの御接待を致す暇もなく御出發被遊候。
後 小生 聯隊に御礼言上に參上せし時も
極く物静かにして礼を厚くして御迎へ被下、
 いたく恐縮仕候事御座候ひき。
其の後も一度、
弟の墓地新築せるを聞かせられ、又わざわざ墓參に御光來被下
武人の温情に小生等一同感激仕り、
郷党人も亦 「 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 」
と、郷軍分會員と共に称し申候ひし程に御座候。
かかる物靜な眞の武人とも申上ぐべき中佐殿が、何故ああした行動に出でられしか
・・・・中略・・・・
眞に事此処に至り見るに中佐殿としても決して無謀なること
( 事實無謀なるもその信念に於て ) とは考へられず、
生等の關知し得ぬ処の何事かに義憤を感ぜられて、
爲すべからざる行動を敢えて爲されねばならざりしか、
その眞情到底普通人の考へ及ぶ処に非ずと存ぜられ候。
出來申せしことは如何とも致方御座なく候も、
あの風格をお慕ひ申上ぐる生等として出來うべくんば
否是非々々寛大の御処置を望むものに御座候。


次頁 中佐の片影・其四 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其四 『 盡忠至誠一點のまじりけない人 』

2022年03月14日 14時10分51秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其四  大野虎六 氏  ( 退役陸軍大佐 )

相澤さんの御人格は私が申すまでもなく
相澤さんに接せられた人は皆よく御存じであらうが、
全く盡忠至誠一點のまじりけない人でした
今度のこともその事の善し惡しは私は申すまでもないが、
相澤さんがそれによつて期待された所と云ひ、その動機と云ひ、全く立派なもので
此の事件のあつた後と雖も私の相澤さんを信じていることには微塵も變りはありません。
私は病床にあつて何事も爲し得ないが、
唯 相澤さんの期待された所を一日も早く實現せられんことを祈つて居る次第です。

同氏は更に、
私は相澤さんと同隊に居つたこともなく、相澤さんはあの通りで、
自己宣伝と言ふことの少しもない人であるから御性格はよく判つて居て、
その行動となると一向に知らんので、これは極く一端に過ぎないと前提して、
次の様に語られた

嘗て此の附近で見まはりの不寝番をやつたことがあるが、
一戸一人と云ふ譯で相澤さんは自分躬ら出られた。
現役の將校で百姓と一緒に夜警に出るなどは相澤さんならではやう出來んことだと思ひます。

この先に私の同期生で豫備役少將の○○と云ふ人が住んで居ますが、
相澤さんは先輩と云ふので轉任の挨拶に行かれたのでせう。
その時本人は古服古ズボンの汚いなりで畠いぢりをして居たのに對して
誠に嚴然たる態度で、まるで見習士官か何かが直属上官に申告でもする様に挨拶されたので、
こちらは何んとしてよいか誠に恐縮に堪へなかつたと語つて居ました。

相澤さんは周囲に迷惑をかけないやうに極力注意されて鋳たうで、
これは事件後に思ひ當つたのですが、
何時も上京すると挨拶に立寄られたのが暫くは一向にお見えにならなかつたのです。

次頁 中佐の片影・其五に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其五 『 神様が相澤様を御選びになられました 』

2022年03月13日 14時47分17秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其五  今泉富与 嬢  ( 慶応大學看護婦 ) 


相澤様のやうなお方に
お側近くお仕へ出來ましたことはほんたうに嬉しく、一生の光榮であり、
又今後の力でもあると存じて居ります。
御病床にあらせられながら、辱けなき事には存じますが、
大君のため、
御國のための御事より
他にあらせられなかった相澤様が只今の御心の内、御察し申上げられます。
よく御重態でいらせられし頃、
「 今泉、私はベッドの上で死にたくない
 戰地で死ぬのだから、お前もその氣でしっかりやってくれ 」
と仰せになりました。
私も不束乍ら神に祈誓をなし、どうしても御恢復あらせられる様にと御仕へ致しました。
御食事を遊ばすにも決して神に御挨拶なくしては召あがられしことなく
君の爲めに御働きになる
 武勇の士であり乍ら、
數にも入らぬ私共への御やさしき御言葉、誠に誠に今にも
頂きし御言葉は生活の力でございます。
かかる義勇の御方なればこそ、
神様が相澤様を御選びになられましたのかも存じませんが、
世上の風評を御あび遊ばさるる御心中如何ばかりで居らせらるるかを御推察申上げます。
唯々この上は神に祈り居る私で御座ゐます。


次頁 中佐の片影・其六 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其六 『 よくよくの事情があつたに違ひありません 』

2022年03月12日 15時07分53秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其六  佐藤光永 氏  ( 大日本赤子會理事、中佐の竹馬の友 )  


相澤君の少年時代は温順な思慮深い性質でした。
御宅は役場の前辺りにありましたが、
御家庭は嚴格な様子で歸宅すればいつも両親に丁寧に挨拶されい居りました。
御両親には好く仕へられ、御姉弟仲も睦じかつた様です。
學校の成績もずつとよい方でした。
たしか四年生か五年生の頃でしたらう。
鎮守の八幡様の裏山に坂上田村麿を祀つた祠がありますが
その奥は何かお姫様の崇があるとか言ふ傳説で人の立入を禁ぜられて居りました。
そこへ私共三四人が入つて見やうとしました時、相澤君は皆を引き留めて
「 昔からしてはならぬと禁ぜられていることを犯しては、惡いことはあつても善いことがある筈はない 」
と言ふ意味のことを言つたことがありました。
子供の當時から既に思慮深かつたことが今でも想ひ出されます。
その相澤君が今度のやうなことを決行したのは、よくよくの事情があつたに違ひありません
その事情の善し惡しは知らず、唯 君國の爲めと言ふ一念が根本であつたことだけは毛頭疑ひません。
近頃は自分の立身出世の爲め、自分の立場をよくする爲めならばどんなことでもする。
人を陥れても構はぬと言ふ一般の世相でそれが殊に上のものに多い。
軍人の中に於てさへ私共が顔を背けさせられる様な人々の多い時に、
自己の一切を賭して大事を決行されたと言ふことは なんとも敬服に堪へず、
誠に有難いことに感ぜられます。
私も八年この方大日本赤子會の運動に一切を捧げて來ましたが、
その間に不愉快なこと、憤慨に堪へないことが尠くなかつただけ一層痛切に相澤君の心境に感ぜられます。

次頁 中佐の片影・其七 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其七 『 止むに止まれぬ精神の発露である 』

2022年03月11日 17時24分16秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其七  福定 無外老師 談  ( 中佐の下宿せし輪王寺の住職 )


一、相澤さんは少中尉の頃三ケ年に亘り ( 満二年余 ) 輪王寺で修行し、
 全く禅僧と同様につとめられたが、それは普通人には到底出來ぬ刻苦精励であつた。
性質は生一本で純粋で幼少からの破邪顯正の道念を禅宗の修行で益々固められた。
今度の事件も實にこの二十歳余の青年將校時代からの純情、破邪の理念に燃えての事と思ふ。
「 一寛せる相澤君の態度である 」 と。
二、常に腐敗せる我が國の現狀を嘆じて居た。
 軍隊さへも士気が弛緩し、その結果は國家の危殆であると憂へて居た。
仙台に来れば必ず訪ねて来來、又屢々文通もあつたが、憂國の至情は常に溢れて居た。
特に二、三年この方やるせなき心持を述べて居た。
(  「 その點わしも同感であつた 」 と 老師は特に附け加へて言はれた。)
三、この國の非常時を如何にして打開せんと日夜心を痛めて居たことは明瞭である
今度のことは止むに止まれぬ精神の發露である と思ふ。
單身根源を切つて軍の清純を期せんとするものであつて、初めから身を捨てている。
自己の前途、立身出世のみを望む現在の大部分の人間には解し難い行爲であるかも知れぬが、
相澤の今度の行爲はわしにはよく判る。 決して狂ひではない
事の善惡は今論ぜられぬが、
相澤があの行動を爲すに至るまでには多くの幾多の熱慮が重ねられたらう。
決して輕擧ではない
世間でとやかく云ふやうだが、賣名でもない、妄信でもないと信ずる。
相澤の生一本な性質とあの純情とを以て現今の腐敗を見る時、
止むに止まれぬものがあったに相違ない。
わしは相澤を信じている。
確固不動の信念に依り生死を超越して君國に盡さんとするのが相澤の一貫せる性質である。
尚 同期の人々にも相澤の立派な精神を知る人があると思ふ、
決してわし一人のみの過信ではないと思ふ。

次頁 中佐の片影・其八に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其八 『 正に相澤殿の一擧一道は菩薩業と確信罷在る 』

2022年03月10日 18時17分01秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

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相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其八  某氏  ( 中佐の親友 )


一、相澤中佐は聯隊から僧坊起臥きがを不可とせられたので、
 無外和尚の法友、当時の東北帝国大學總長北条時敬氏宅に寄寓することになつた。
( 北条氏は後學習院長に任じ千年物故された )
當時北条氏宅に黒川恵寛氏が家庭教師として寄寓しつつ東北帝大に通つて居たが、
同氏が肺を患ふや二人で自炊生活を始め、喀血しても同じ部屋で寝起し、食事を共にしていた。
同氏が帰郷の已むなきに至るや身廻り一切の世話をして無事歸郷させた。
黒川氏は現に京都市吉田に医師を開業して居られ中佐とはずつと親交があつた。
中佐は収容後、無外老師の健康勝れざるを知つて黒川氏に頼んで薬を届けさせた。
中佐夫人宛同氏最近の書翰の一節に曰く、
「 輪王寺老師の御儀拝承いたし候、本日早速仙台宛護送薬致置候
 御了意被下度候、大兄ま御心境御美しく候、今は唯心靜かに悟道御精進願はしく、
為皇國切に御自愛被下度 」

二、少中尉時代から部下を可愛がること非常なものであつた。
 職務以外は概ね粗末な綿服に小倉袴の朴々たるいでたちでよく旧部下の家庭を訪問した。
中尉時代台湾赴任の途次、福島県石城海岸に旧部下を訪れ、偶々大漁祝ひがあり、
大漁祝ひの印半纏 はんてんと鰹節をもらつて来たことがあつたが
半纏は今でも大事な記念としてしまつてある。

三、朝鮮新義州守備隊附の少尉時代、中佐の當番兵であつた猪狩定与氏が
 自作の 「 麦こがし 」 と酒とを収容中の中佐に差上げやうと思ひ上京して來て、
浅草の某交番の巡査に差入れの方法を尋ねたところ、
中佐を表する巡査の言が余りにも無礼であるのに
同氏は沸然怒をなして方に殴り付けやうとまで思つたが、
此際却つて中佐に惡影響を及ぼすかも知れぬと
思ひ止まつて旧番地を思ひ出して鷺の宮の留守宅に訪ねた。
數々の思ひ出話しにその夜を留守宅に語り明かし歸郷したが、
歸郷後自作の白米一俵と馬鈴薯などを送つて留守宅を慰めた。
猪狩氏の話の一節に次の様な思ひ出がある。
「 中佐の部下の兵が肺肝で在隊中死亡したが、
 その時中佐は死に至るまで肉身の弟か子供を看病するが如く附添つて、
湯灌ゆかんや輕帷子を着せるまで、一切手づから行ひ、河原で火葬した時も自分で火を點け、
骨から灰まで自分でさらつて郷里に送り届けた。 兵戰友、友達一同感激せざるものがなかつた。」

四、尚猪狩氏の書信に次の様に述べている。
 前略、小生相澤殿とは朝鮮新義州守備隊に於て種々御懇篤なる御教鞭を賜はり、
其の後も屢々御訓戒を戴き常に生神として敬恭致候、
今回図らずも駭報に接し只々恐懼に堪へ申さず候
相澤殿御風格たるや、小生申上ぐる迄もなく、
神聖至純誠神の如きに平素心の守として崇拝致し居り、

正に相澤殿の一挙一道は菩薩業と確信罷在る処に御座候、
御窮窟なる公判に當り及ばず乍ら御高恩の萬分の一に酬ひ度く神に念じ居り候、 ( 下略 )

五、事件が新聞に報道せられて、相澤中佐の決行と判明した日、
 福山市在住石川某が留守宅に訪ねて來て、夫人に向つて、
「 此の聯隊では相澤さんこそ軍人らしいお方と思つて居ましたが、
 矢張り私の考へは間違ひませんでした。
正月でしたか私が酒に酔つて往來で中佐に無礼を働きかけましたら、
ヂロリと見てにつこり笑つて黙つて行き過ぎられましたが、あの眼光は今でも忘れることが出來ません。
今度のこともあの眼光が然らしめたものに違ひないと思ひます。
私はやくざ見たいなものですが何んなりと御世話申上げさせて頂きたうございます。」

次頁 中佐の片影・其九に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から