あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」

2021年11月08日 10時24分04秒 | 澁川善助

澁川善助
澁川善助は
会津若松市の大きな海産物問屋の長男で、
陸軍士官学校予科卒業のときは恩賜の銀時計をもらった。 ・・・リンク → 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戦役の世界的影響 」 
本科在学中に上官と衝突して退校、 ・・・リンク → 澁川善助の士官学校退校理由
明治大学法科に入り、卒業後は満川亀太郎の興亜学塾や敬天熟などに関係、
西田税 らを知るようになった。
「 埼玉青年挺身隊事件 」 では、栗原中尉や水上源一の線で取調べをうけたこともある。
・・・リンク → 救國埼玉挺身隊事件
昭和九年に統天熟 ( 塾頭、藤村又彦。大同倶楽部の分派 ) の百田勝が高樹町郵便局に拳銃をもって押入った、
この拳銃は澁川が貸したものだという理由で起訴され、保釈中は大森一声の直心道場に起居し、
妻もそこに呼びよせていた。・・・リンク →澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」
相澤公判では、村中孝次とともに機関誌 「 大眼目 」 に公判の経過を執筆、
また青年将校の会合にも出席して公判報告をしていた。・・・リンク→ 竜土軒の激論

事件の起こる前まで 村中といっしょに 「 文書戦 」 に従っていた澁川だが、
二十三日には磯部に頼まれて、湯河原の牧野偵察に行っているから、彼には決行近しの予感はあったろう。
また、そのころは西田にも決行が分っていたので、彼は西田からも聞いたであろう。
こうして村中、磯部、西田らの中にいた渋川が、単に牧野偵察だけではなく、
「 決行に呼応して外部の右翼団体の蹶起を計画していた 」
と 当局が考えたのは、きわめて当然のことであった。
判決に見る澁川の行動は、
≪ 事件勃発後ハ外部ニ在リ 被告人等 ( 決行将校ら ) ノ企図ヲ達成セシメムガタメ、
同月二十七日夜東京市麹町区九脱一丁目 中橋照夫方ニ於テ同人ト相謀リ、
カネテ同人ト気脈ヲ通ジイタル山形県農民青年同盟 長谷川清十郎等ヲシテ
被告人等ニ呼応シ 事ヲ挙ゲシムルコトニ決定シ、
コレガタメ、同人ニ拳銃五梃、同実包二十五発ト山形在住某将校宛ノ紹介状ヲ与ヘ、
更ニ栗原安秀ニ依頼シ、東京市四谷区某銃砲店ヨリ右拳銃用実包三百発ヲ入手セムトシタルモ
事発覚シテ目的ヲ遂ゲズ、
同月二十六日以後 歩兵大尉松平紹光等ト連絡シ、外部情報ノ蒐集ニ努メ、
コレヲ被告人等ノ部隊ニ通報シイタルガ、
同月二十八日 安藤輝三ノ部隊ニ投ジ、同隊ノ士気ヲ鼓舞激励シ・・・・≫
と なっている。
問題は前段の起訴事実で、二十七日に山形県農民青年同盟員をして、
はるか山県の地で東京の決行に呼応して拳銃などで蜂起させることが可能だったかどうかである。
・・・中略・・・
澁川善助の実家、会津若松の海産物問屋は手びろく商売をし、雇人も三、四十人ぐらいいた。
長男の善助が軍人を志し、しかも士官学校を退学処分にされ、東京で運動していたから、
父親は生きていたが、次弟があとをつぐようになっていた。
澁川夫婦は実家の送金をうけていた。
「 兄は経済的にはたしかに家の厄介者だつたが、肉親としては、父ばかりでなく、
皆、思想的な面では反対しなかった。
士官学校を退めたあと東京から家に帰ってくるのはせいぜい年に一度か二度だった。
帰ってきても二日か三日居る程度で、すぐに東京へ引返すか、弘前か青森に行った。
青森聯隊には同期生の末松太平さんがいた。
兄は几帳面な人で、机の上の物でも、すべてきちんと平行しておいていなければ気が済まなかった。
使用人には親切だったが、こわがられ、兄が帰ってくるとみんなシュンとなっていた 」
・・・善助の次弟 澁川善次氏 談

澁川善助の妻、絹子さんの直話。

「 結婚したのは昭和九年です。
主人とは六つ違いでした。
式は明治神宮で挙げ、神宮前にある同潤会のアパートに新居を構えました。
壁に蔦つたの這っているアパートでしたが、村中孝次さんも同じアパートから陸大に通っていたと思います。
わたしどものところには人の出入りが多く、経済的には会津の主人の実家に迷惑をかけました。
送金してもらって、私たちの生活費だけでなく、同志の方たちの面倒もみていたのです。
会津の方たちには、ほんとによくしていただきました。
そして何かの事件があったのちに直心道場に移ったのでございます 」
その事件とは埼玉青年挺身隊事件のことらしく、
九年九月、西田税が善助の母に出した手紙のなかに、
善助が同事件に連座して警察に留置されたことが書かれている。
「 事件の何カ月前、主人と渋谷に出かけたことがあります。
そのとき、当時としてはまだ珍しかった月賦屋が眼につき、主人と家具類など買いました。
主人はもちろん月々払うつもりだったにちがいありません。
とすると、月賦を払い終らないうちに事件が起こった、だから主人は事件が起きることは知らなかった、
考えてもいなかったのではないか、という気もいたします 」
だが、これは別の見方もある。
「 澁川は同志に金を与えて自分は貧乏だったので、ほしい家具も買えなかった。

たまたま通りがかりに 月賦屋があるのを見て、月払いという便利な方法で品物を買ったのではないか、
それほど彼は同志の面倒を見なければならない立場にあった 」
というのである。 ・・・澁川の知人で、のち福島県磐梯町長の桑原敬氏談

湯河原偵察
「 二月二十三日、
主人は突然これから温泉につれていくからすぐ支度しなさい、という。
こんな雪の日でなくとも、といいましたが、
思いついたのだから、すぐに支度せよ、というのです。
それも、なるべく派手な着物をきろ、という注文です。
もちろん事件に関係あることは知りません。
雪の中を足駄をはいて行ったのをおぼえています。
湯河原の宿につくと、
その晩は、先に寝ろということので、
書きものをしている主人をそのままにして先にやすみました。
翌朝、これを西田さんに届けろと封書を渡されました。
内容は分かりませんし、聞かせもしません。
わたくしが駅に行くまで尾行がついていたようですが,汽車の中には居ませんでした。
東京に着き、西田さんのお宅に行ったのは午前十時頃だったと思いますが、
そこには磯部さんなどたくさんの人が集っていました。
西田さんは封書をよみ、すぐ返事を書いてわたくしに渡し、
折返しこれを澁川君に届けてもらいたい、絶対になくさないようにときびしくいわれました。
わたくしはそれほど切迫したものとは考えず、
足駄で行ったものだから湯河原では不便で仕方なく、
いったん直心道場に戻り、身のまわりを整えた上で湯河原に向いました。
湯河原で手紙を主人に渡すと、お前は廊下に立っていろと見張りを命じられました。
その晩は湯河原に泊まり、
翌二十五日、いったん裏山に上ったのち、主人と車で東京に向かいましたが、
横浜で軍服姿の人が待っていて、いっしょに旅館に入りました。
そこでもまた廊下に立っているように云われ、なんとなく廊下をうろついていたのをおぼえています。
それからいっしょに旅館を出て横浜駅に行き、
そこで主人と別れて、わたくし一人で汽車で東京に戻りました。
直心道場に着いたのは夜中でした。
主人とはそれきり、刑務所で面会が許されるまでは会わなかったことになります。
主人から電話があったのは二十六日のまだ夜の明けきらない前でした。
大変なことが起ったといって道場が騒がしくなったので、
何か知らせがあるのかもしれないと思い、わたくしが電話のそばに付いていたのです。
間もなくその電話です。
『 当分帰らない 』 と主人がいいますので、
『 どうしてですか 』 とたずねますと、
『 あとで分る 』 と答えただけでした。
事件のことについてはわたくしは最後まで主人に教えてもらえずじまいでした。
それからニ、三日して情勢が変り、憲兵がきて家宅捜索を受け、
病人 ( 三角友幾のこと ) と 女のわたくし以外の道場の人はみんな連れて行かれました。
憲兵の家宅捜索は家の隅から隅まででしたが、
それより前、わたくしは重要だと思われる書類をとっさに、
道場の大きな風呂の煙突の中にさしこんでかくしておきました。
ところが三月になってわたくしも警察に引張られ、一週間くらい留置所に入ったのですが、
その間に、帰された道場の者が風呂を焚いたため、
煙突の中にかくしておいた書類が灰になってしまいました。
そのことを、面会が許されてから主人に申しますと、
『 灰になってよかった 』 といっておりました。
警察で調べられたとき、西田さんと主人との間を往復した手紙運びのことは訊かれませんでした。
警察にはまだ分ってなかったと思います。
おもに主人が道場でどのようなことをしていたかといったようなことをきかれました。
主人と湯河原に行ったことはもちろん警察に分っていましたが、
わたくしが連れて行ってもらっただけだというと、それ以上には追及されませんでした。
警察では、主人が今生の別れにわたくしを温泉に連れていったのだろうと受けとっていたようでございます 」
リンク→澁川善助 ・ 湯河原偵察
・・・中略・・・
ここで思い当るのは澁川の手紙をよんだ西田が絹子さんに渡した澁川宛の封書のことである。
これを持って湯河原に引返した絹子さんは、内容を読んでいないから分るべくもないが、
おそらく早く東京に戻ってこいという西田の指令だったろう。
西田としては腹心の澁川にそんな突走り方をされては困るのである。
だが、澁川としては前からの行きがかりで牧野偵察は河野大尉に連絡する必要があったので、
横浜の出会いということになったのではあるまいか。
「 二十四日ごろ、私が西田を訪ねると、
『 決行には最後まで反対するがダメかもしれない。そのときは澁川を軍人としてもらっていきます』
と 彼はいった 」 ・・・大森一声
隊付将校だけの 「 蹶起 」 を目前にして、
民間人と軍人の接点にあった西田は、
自分と同様、もと軍人の澁川を自分の手もとにひき戻すため、
「 軍人として ( こっちに ) もらう 」
といったのだろう。

松本清張著  ニ ・ニ六事件 第二巻
第十一章  奉勅命令 から


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