あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新 ・ 蹶起の目的

2023年02月08日 14時48分59秒 | 昭和維新 ・ 蹶起の目的

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
昭和六年の事、
香田清貞は同期の大蔵栄一に しみじみとそう語った。


昭和4年10月に始まる世界第恐慌は 5年には日本農村に波及する。
米と繭の価格下落に加えて 6年、9年と続けて襲った東北大凶作に依り大被害となった。
米の価格は大正4年の一石40円71銭から、じり貧状態となっており、大恐慌の際にはいっきに17円77銭に暴落した。
繭も大正14年に一貫当り11円25銭であったのが 大恐慌によって昭和9年には2円52銭にまで惨落する。
1920年代後半から農村不況は進行し、1930年代前半に農村の疲弊はその極に達したのである。
借金のカタに差し押さえ、競売 又、収穫以前に出来秋の稲を事前に叩売りしてしまう 「 青田売り 」 が 行われ、
更に娘の身売りまで行われた。
東北地方の農村を中心に小学校の昼食時間に 弁当を持ってこない 「 欠食児童 」 が 大量に発生した
小作争議は急増し、恐慌下の生活破綻のなかで、 中小地主と小作人が小作地をめぐって血みどろの闘いを強いられた

    
小作争議                                                                                         満洲事変 ↑
大正十五年五月一日の早朝、西津軽郡車力村の鎮守の森から、突如として
「 聞け万国の労働者、とどろきわたるメーデーの示威者におこる勝鬨は  未来を告げる  トキの声・・・・」
と、インターナショナルの合唱が起こった。
村の人達は何事が始まったのかと、仕事を捨て、墨も黒々と左記の字句を列記していた。
小作人から田畑を取上げるナ---小作人から飯茶碗を取上げるナ---小作料をまけろ---小作人を人間扱いせヨ---
小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ---等のスローガンを掲げ、それに続く、むしろ旗や赤旗を押し立て、
ケラ ( 箕 ) を着て、縄帯を締め、素草鞋ばきで、手には草刈鎌やタチ ( 田のクロを切る農具 ) を持ち、鍬を肩に担いで、
木造きづくり町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、田茂木、芦野、地元の車力、下牛潟、富萢とみやち方面から、
約六百五十名の農民の大行列が、地元を揺り返が如き、勢で村内をインターナショナルの歌声で、行進した。
これが県下での初めてのメーデーである。 農民組合の発祥の地として、全国通々浦々に新聞等で、車力の名が紹介された。
この有様を二階の窓から見た或地主は 殺される! される!と叫んで家の中を逃げまわり土蔵の長持に隠れたというエピソードを、
いろんな本に書いているが、そうでなく、朝から夜中まで、便所の中に飯も食わずに、かくれていた事は本当で、
家の人がナダメて、やっとのことに、その中から出したという。
この地方は大昔から、二百十日頃になると毎年の如く、季節風が雨と一緒にやってくる。
暴風雨に混って、暗闇の中からドンドンと薄気味悪く鳴り響いてくる太鼓の音と共に、水だ---水だ---と ざわめく、悲痛な人声である。
本村の農民達は素早く種俵や土用俵をかついで、豪雨の中をジャッブ、ジャッブと走って行く足音が、次々と闇の中に吸い込まれた。
翌朝、あの広々とした津軽平野も、大海の如き様相を呈している。千貫の向うと、長泥の北はずれの岩木川の堤防が決裂したという。
人家は床下浸水どころか、軒下近くまで、水につかり、下車力や長泥の人々はマゲ ( 二階のように見せかけているが、様子がない )
で 一夜を明かした位だ。勿論 島立 ( 稲島 ) は流失して、皆無作である。焚出しを舟で運んだ。
土手の決壊の名残に岩木川の堤防沿いの東西に大、小の沼がある。これは今、昔の惨状を物語っている。
また太田山偏東風が続けば、山田川が十三湖より塩水の逆流で川や堰の魚が死んで浮いている。
叭や俵を背負って、それを拾いに行ったものである。無論、稲も枯死した。七分作、五分作、三分作、皆無作とその度合いによって異なった。
大正十二年頃から、内務省直営で、岩木川と山田川の堤防の改修工事が始められており、毎年に惨状が減って来た。
でも偏東風が植付早々吹き続き、綿入や犬の皮を着て田の草取りをし、早期に霜や あられが降ると、
未熟の稲穂が箒ほうきを逆立ちにしたようなものであって、いわゆる凶作である。このように、隔年的に水害と冷害に悩まされる。
減収による小作料の減免を乞うと地主は、弱い者には玄関払い、手答えの小作人には酒肴で誤魔化して、一粒も負けてくれなかった。
地主は数百ヘクターレル、数千ヘクタールを所有し、小作人はこれ等の田畑を借り受けて耕作していた。
その小作料を収納する土蔵を家の前後に、五つも六つも建造した。
小作人は残りの半分で、飯米、医療費、交際費、税金、学費、その他凡ゆるものに振り向けられていた。
田植を終った途端、飯米を不足している農民は三分の二位で、そうしたような窮地におかれていた。
村内には、人の弱みをつけ込んで、米貸し商売をしていたものもいた。現物返しで、一俵につき二斗の利米で、借りて生きて来た。
小作人等は来年の先行きも案じて、濁酒ではなく、清酒を無理して買い込み、利米に添えて持参した。偽ざる姿である。
この仕組はつい最近まで取引していたらしい。数える程少ない小作人のうちで、田植終了直後に、わずかに夏摺臼を廻せば、
人々はあそこの家がマブク ( 裕福 ) になったと注目した。
昔から、十三湖周辺の岩木川下流地域にある。中里町の武田、内潟と肩を並べて車力も冷水害に悩まされて来たことは
多くの津軽の関係史に残っているが、小作人は正に奴隷的存在であったことは云うまでもない。
政治家共は自己の利益のみに没頭し、農村問題対策には無頓着であった。
あれは確かに昭和六年頃だと思うが、東北地方は凶作の年だった。
全国的に不況のどん底におちいり、即ち、農村恐慌が深刻化する一方だった。
男たちは出稼ぎ、女たちは女工や女郎に身売りさせられた。
この最中に満洲事変が勃発した。騒然たる世相の中で、凶作に見舞われたこの地方の人々は、
どん底から更にどん底へつき落された。・・・攻略
・・・『 車力村村史 』 からの 小作争議
農民の窮状 ↓ 
     
     

紺の背広の澁川が熱狂的に叫んだ。
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」  誰かが駆け寄った。  それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」  野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」  澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」  野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」  野中は沈痛な顔をして呟くように云った。
・・・二月二十八日の幸楽

蹶起趣意書

昭和維新

蹶起の目的
目次
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根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天剣によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。

・・・磯部浅一

今回の行動は大權簒奪者を斬る爲の独斷専行なり。
党を結びて徒らに暴力を用ひたるものにあらず。
我々軍隊的行動により終始一貫したるものなるを以て、
此独斷専行を認めらるるか否かは位置に大御心にあるものなり。
若し大御心に副ひ奉る能はざりし時と雖も反乱者にあらず。
陸軍刑法上よりすれば檀權の罪により処斷せらるるものたるを信ず。
・・・
村中孝次    

・ 
維新は天皇大權により發動されるもの 
・ 「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 
・ 尊皇討奸 ・君側の奸を討つ 「 とびついて行って殺せ 」 
・ 蹶起の目的は、昭和維新の端緒を開くにあった 
・ 「 栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった 」 

憲兵大尉 大谷啓二郎の 『 二・二六事件 』 

・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1 
・ 
生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 

澁川善助
宇宙の進化、日本國體の進化は、悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
同志一同の行動は、大御心を上下に徹底し、上下民其所を得て尊皇絶對に邁進し、
皇威を八紘に輝らし 皇恩を四海に浴し乍ら、皇謨翼賛の重責を盡さず、
却って大御心を歪曲し奉りつつある奸臣を除かんとしたるものでありまして、蹶起趣意書の通りであります。
事件を決行しました動機の直接とか間接とか言ふ様なものは、
絶對の境地で行はれたものであり、説明は出来るものではありません。
然し 強いて申せば、
相澤中佐が公判廷に於て、あれ丈言はれたるに拘らず、
國家の上層部、軍上層部、軍幕僚、官僚、財閥、政党等が
何等反省の跡を見受ける事の出来ない事が 直接の原因動機でありますと申されませう。
・・・憲兵訊問調書 から

野中四郎 
迷夢昏々、萬民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶對絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、國内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戰士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ
・・・遺書・天壌無窮  から

村中孝次  
吾等は護國救世の念願抑止難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の擧を敢てせり。
今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒嚴令を宣布し軍政權を樹立して昭和維新を斷行し、
以って 北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を実現するに在りとなすは是悉ことごとく誤れり。
吾人は 「クーデター」 を企圖するものに非ず、
武力を以って政權を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を爲せるものに非ず、
吾人の念願する所は一に昭和維新招來の爲に大義を宣明するに在り。
昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
抑々維新とは國民の精神覺醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。
然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、
自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、
遂に武力を擁して權を専らにせんと企圖するに至る。
而して斯の如くして成立せる國家の改造は、
其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、
國民を頣使し、國民を抑圧して築きたるものは國民自身の城廓なりと思惟する能はず、
民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。
之に反し國民の精神飛躍により、擧世的一大覺醒を以て改造の實現に進むとき、
玆に初めて堅実不退転の建設を見るべく、
外形は学者の机上に於ける空想圖には及ばずと雖も、其の實質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、
吾人は維新とは國民の精神革命を第一義とし、
物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。
而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、實に國體に對する覺醒に在り、
明治維新は各藩志士の間に欝勃として興起せる尊皇心によって成り、 
建武の中興は当時の武士の國體観なく尊皇の大義に昏く滔々私慾に趨りし為、
梟雄尊氏の乗じる所となり敗衂せり。
而して明治末年以降、人心の荒怠と外國思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇國體に、社会理想を発見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔り 「デモクラシー」 を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機關説思想者流の乗じて以て議会中心主義、
憲政常道なる國體背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ一に明治大帝によりて確立復古せられたる國體理想に対する國民的認悟得なきによる、
玆に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事實を捉へ來って、
佐郷屋留雄先ず慨然奮起し、
次で血盟団、五 ・一五両事件の憂國の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、
吾等即ち全國民の魂の奥底より覚醒せしむる爲、
一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、
頃來期する所あり、機縁至って今回の擧を決行せしなり。
藤田東湖の回転史詩に曰く
『 苟も大義を明かにして民心を正せば皇道奚んぞ興起せざるを患んや 』  と。
國體の大義を正し、國民精神の興起を計るはこれ維新の基調、
而して維新の端は玆に発するものにあらずや。
吾人は昭和維新の達成を熱願す、
而して吾人の担當し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、
豈に微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当らんと企圖せるものならんや。
吾人は三月事件、十月事件等の如き 「クーデター」 は國體破壊なることを強調し、
諤々として今日迄諫論し来れり。
苟も兵力を用ひて大權の發動を強要し奉るが如き結果を招來せば、
至尊の尊嚴、國體の權威を奈何せん、
故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覺悟せる同志の集団ならざるべからず。
一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。
國體護持の爲に天剣を揮ひたる相澤中佐の多くが集団せるもの、
即ち 相澤大尉より 相澤中、少尉、相澤一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。
此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、
故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意圖は極微と雖もあらず、
純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。
吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、
乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の實現を妄想して此挙をなせるものならんや。
吾人は身を以て大義を宣明せしなり。
國體を護持せるものなり。
而してこれやがて維新の振基たり、
維新の第一歩なることは今後に於ける國民精神の変移が如実にこれを実証すべし、
今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。
吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。
吾人は軍政權に反対し、
國民の一大覺醒運動による國家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。
吾人は國民運動の前衛戰を敢行したるに留る、
今後全國的、全國民的維新運動が展開せらるべく、
玆に不世出の英傑蔟出、 地涌し大業輔弼の任に当たるべく、 これを真の維新と言ふべし。
國民のこの覺醒運動なくしては、
區々たる軍政府とか或は眞崎内閣、柳川内閣といふが如き出現によって現在の國難を打開し得べけんや

・・・村中孝次・丹心録から

松浦 邁中尉
軍服の聖衣を纒まとへる農民の胸奥を知る者は独り青年将校のみ。
我等は熱と誠心の初年兵教育に彼等の魂を攫つかみ彼等の胸奥を知る。
困窮に喘ぐ家郷を棄て 黙々として君國の爲め献身する彼等の努力こそ実に血と涙の結晶なり、
彼等の胸奥の苦悩は我等のみが知れり。
彼等が我等を見上る眞摯の眼には 何物か溢あふるゝその至純なる農民層の頼むあるは唯 我等青年将校のみ、
我等は軍服をまとえる彼等の兄とし彼等の深刻なる苦悩を代表す。
興嶺大江の雪に氷に埋るゝ幾千の生霊に代りて彼等の意志を貫徹するは、我等あるのみ。
客秋満蒙の地に鉄火閃ひらめきしより以來 勇猛何物をも恐れざる尊き彼等の血潮は未だ涸れず、
彼等は病床に独り苦しめる老父母を残して去れり、
彼等は粥を啜り 芋の根を噛かむりて日々を送る妻子を残して去れり。
彼等はボロをまとひ 寒さに凍えて帰りをのみ待てる弟妹を残して去れり。
彼等は斷じて何人の犠牲にも非ず。
彼等は唯 「天皇陛下の為に 」 起てり。
彼等は家郷の土と父母との身代りとなりて笑って死せり、
彼等の笑って死せるは彼等の在に依りて家郷の土の苦悩が救はるる事を確信したればなり。
「 忠道烈士 」 の 名  彼等に取て何の価値あらん。
金鵄勲章の輝き  彼等に取て何の満足あらん、
嗚呼 彼等の死を以てせし祈願に応ふる何物か与へられんや。
吾人は幾千の生霊を空しく異郷の土に冥する事に忍びず
彼等と共に戰へる我等は先立つる彼等の遺志を貫徹せずんば止むを能はざるなり。
・・・
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 から

栗原安秀
「 吾々同志が蹶起したのは
天皇と臣民の間に居る特權階級たる重臣財閥官僚政党等が私心を慾ほしい侭に
人民の意志を 陛下に有りの侭を伝へて居ない
従って日本帝國を危くする
吾々の同志は已む無く 非常手段を以て今日彼等の中樞を打砕いたのである 」
・・・二十八日夜・幸楽での演説


河野壽
「 磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。
今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、
もし、陛下の ろぼ を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、  と。
私も兄も父の問に答えなかったら、
父は嚴然として 飛びついて殺せ といいました。
私は理屈は知りません。
しかし 私の理屈をいえば、
父が子供の時教えてくれた、
賊に飛びついて殺せ という たった一つがあるだけです。
牧野だけは私にやらせてください。
牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ 」
・・・第磯部浅一  行動記  第八 

「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
・・・西田税


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