あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」

2017年08月19日 12時17分35秒 | 西田税

わたくしなどはあの事件で残された未亡人の中では年もいっている方でございますし、
ああいう運動に一生を捧げている男の妻として、
それなりに心の準備もなければならなかったのでしょうけれども・・・・。
事件が起きましたとき主人は三十六歳、私は三十一でございました。
西田の古女房のように若い皆さんは思っていらしたかも知れませんが、
結婚生活は十年とちょっとなのでございます。

 結婚当初頃

一緒になりましたのは、大正十五年でございますが、ずいぶん古い話でございますね。
ある資料に、渋川善助さんが
「命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。 ・・・天劔党事件 (1) 概要
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
渋川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その渋川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
結婚いたしました頃は、西田は肋膜炎で陸軍は予備役になっておりまして、
北先生の 「 日本改造法案大綱 」 の普及と国内改造のため運動に専念しておりました。

押入れにはぎっちり 「 日本改造方案大綱 」 の印刷物がしまわれて、
次々の文書印刷を手伝うのがわたくしの日課になりました。
朴烈と金子文子の極秘写真が配られまして、民政党の若槻内閣の政治責任が問われたという事件がございます。
この二人は今の天皇陛下の御成婚式に爆弾を投げつける計画を企んだということで、当時は大逆罪。
一度死刑の判決がおり、のちに恩赦が出て無期になったのですが、重罪の嫌疑をかけられた犯人でした。
この恋人たちを予審の取調べのときに秘かに会わせて、検事が後日の資料に写真を撮ったのでございます。

獄衣と申しましても和服に藁草履をはいた姿で、
朴烈の膝の上に文子が腰をかけたような形にもたれあった、ずいぶん大胆な写真でした。
極秘にもちこまれた写真の複写をいたしますため、明るい電灯をつけまして、
締めきった部屋の暑さと電気の熱の下で、したたり落ちるような汗になりました。
蚊が畳の上へボトボト落ちてきたのを覚えております。
新聞がとりあげ、反対党は絶好の政府攻撃材料というわけで大騒ぎになりましたのが、
大正十五年の夏のことでございます。

結婚してほどなく、西田は宮内省怪文書事件で未決へ送られました。
次々に事件との縁の切れない人であったと思います。
わたくしは書生と二人、収入といっても何のあてもございませんで、麦の粥を啜ってしのいでおりました。
獄から帰って参りました主人は、わたくしが留守の間に家を出てしまうだろうと思っていたと申しました。
若かったのと、世間を知らない向うみずなところとがあったために
ひどく辛いことも惨めとも思わずにすんだのでしょうか。
その頃、なにか国家改造につながることをしなくては生きている意味がない、
主人はそんな執念にとり憑かれていたようです。
数えの二十六といえばまだ青年の若さでございます。

やがて西田の心が、
燃えさかるような炎からじっくり志を育て実らせる地熱へ変って参りましたあとへ、

青年時代の西田そのままの磯部さんが登場し、
代って座を占めたという実感を、すぐ傍に居りましたわたくしはもっております。

新婚時代、怪文書と呼ばれるほとんどのものを、千駄ヶ谷のわたくしどもの家で印刷いたしております。
浪人中の西田は、竜落子 ( りゅうらくし ) たつのおとしご というペンネームで、次々に原稿を書いておりました。
西田のそばで鉛筆を忙しく削りました。
時には、左手の爪を切らせながら原稿を書いていたこともございます。
青年時代は自叙伝など、かなり沢山文章を書いておりますが、・・< 註 >
わたくしと一緒になりましてからは、檄文のたぐいがほとんどでございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
無眼私論
青年将校運動の指導者、西田税が大正11年 ( 1922年 )
21才の青年期、病症で記した感想録である

 
   戰雲を麾く
--西田税自伝--

---戦雲を麾いて、
凱歌に欣躍すべき克服の日に向つて力強く 一歩一歩を進むるものである。
嗚呼、回顧二十四年春秋。
そはげに矢の如し。
斯書は、げに いみじき余が二十四歳の戦ひを綴れる所のもの。
そは永遠に世に留められるべき、余が魂の遍歴を記念の記録である。
  
・・・西田税 ・戰雲を麾く 
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運動費や生活費は、北先生が蒐められた中から出ております。
はじめは麦粥も啜りましたが、収入のあてのない、明日どうなるやら知れない生活と知りましたから、
わたくしはゆとりがあるときには、思いっきり着物をこしらえました。
他に質草になるようなものはございませんから、この着物が、金子入用のときには質草になりました。
季節の変り目には質屋を呼びましてこっそりもってゆかせる、そんな暮し向きでございました。
西田は自分の知らない着物が積まれているところへぶつかったりいたしますと、
女の大胆さにびっくりしているようでした。
本人も大体がお洒落な人で、和服を好んで着ました。
若い頃はオールバックの髪型にしておりまして

「 バレンチノに似ているといわれたぞ 」
と 外から帰って申したこともあり、
「 大変なバレンチノですね 」
と 笑った思い出がございます。
波のある不安定な生活でしたが、西田は年末がきますと、
自分の母だけでなく わたくしの身寄りにも黙って送金するというふうなところのある人でした。
・・・ 
その後、青年将校たちと民間の渋川さん、水上さんの判決や処刑が新聞に伝えられましてからも、
北先生と西田の様子は何も伝わって参りませんでした。
特別に家庭の相談事もあれば面会は許されるということでございましたが、
春が過ぎ、夏を送り、秋の気配が濃くなりましてからも、
わたくしどもは面会は出来ずにいたのでございます。
昭和十一年の十月二十二日、死刑の求刑があったことを新聞社から知らされました。
自分で確かめなくては信じられませんで、衛戍刑務所へはじめて面会の許可を求めました。
事件に触れないようにという条件つきの面会でございます。
「 死刑の求刑がおりましたそうですね 」
と 主人に申しましたら、
傍の看守が 「 それは 」 と 制止しようといたします。
「 いえ、噂でございますから 」
と 申しましたらそれ以上とめようとはいたしませんでした。
西田は、
「 火のないところに煙はたたないと言うからな。二人ともな 」
と申しました。

求刑後、はじめて西田に差入れが出来るようになりました。
差入れの食べものはわたくしがその日も宇田川町に訪ねた証しでございます。
面会には滅多に参りませんでしたが、差入れは一日も欠かしませんでした。
大輝さんと北家の使用人とわたくしの三人で運びます。
季節の花を添えたり、よもぎを摘んで草餅をつくったり、食べものが心を通わせる手だてでございました。

主人や北先生の裁判の前途がほとんど絶望的になりました十二年の五月、
五 ・一五事件の際縫い合わせた腸の傷痕が悪化いたしまして、西田は急性腹膜炎を起しました。
腸の傷はなかなか厄介なものらしゅうございます。
腸の縫合部分から滲出した(にじみだした)食物でちょうど豆腐のような環がとりまき、
それが腹膜炎を誘発したそうでございます。
衛戍病院で開腹手術を受けましたが、拘禁生活一年余り、体力は衰えており病状も悪く、
生命に危険があったからでしょうか、手術の立会人として十日程 夫の傍に付添うことが出来ました。
西田と夫婦になりましてから、あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが滲んで居りました。
あの負傷が原因で、夫婦としての最後の頁を心をこめて綴りあえたのでございます。
あの狙撃事件で西田はひくにひけない境地に立たされ、
その結果 二・二六の青年将校との紐帯を問われたのですが、
その傷痕の後遺症によって本来許されない時間にめぐりあうことになったのでした。
人間の運命はわからないものだと思います。
手術は病室で行われました。
看守が立会っております。
わたくしは寝台の枕許にたちまして顔の両側においた西田の手を握っておりました。
体力が衰えておりますので、ほとんど麻酔剤は使えなかったようでございます。
西田は痛みをこらえるために、わたくしの手を強く強く握りました。
両手が痺れて感じなくなる程の力でございます。
立会いの看守が一人卒倒するような手術でございました。
手術が終わって抜糸が済めば、主人はまた衛戍監獄の塀の向うへ帰されます。
好きな食物を運んで一日中つきそって、束の間の安らぎ、なんと時間は早く過ぎて行くものだったでしょうか。
看守もいる静かな病室で、西田は優しい表情を見せておりました。

わたくしどもの結婚は、最初西田の親の反対で入籍出来ず、忙しさに紛れてそのままになっておりました。
西田の死刑の求刑のありました直後に入籍いたしました。
西田は政治運動に心を奪われていた他は、酒を飲んで暴れることもなく、
外泊もせず、申分ない夫でした。
若い人たちを連れて神楽坂など色町へ参りましたが、青年将校のある方が
「 奥さん、西田さんはひどい人ですよ。
 それぞれ部屋へひきとったところへ襖をあけて   "失礼する" と 言って帰ってゆくのですからねえ 」
と 口を尖らしていたことを思い出します。

死刑の判決は昭和十二年八月十四日、十九日には執行でした。
判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
 と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません
そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「 さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。

北夫人に明日執行されるらしいことを報告しまして、
二人の遺体を迎える準備をいたしました。
新聞社から電話で、
「 明朝五時半に処刑 」
と 知らせてきたのは、全くむごいと思いました。
「 今夜は眠らずにいましょう 」
と 北家の広い応接間に香を焚き、北夫人と二人、刻々過ごしました。

八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。

 
昭和12年8月19日
北邸の仏間で

北夫人とは百ケ日 御一緒に暮し、わたくしは赤坂の禅寺へ西田の遺骨をもって身を寄せました。
北先生が捕えられましてから、北夫人の霊告はおりなくなりました。
この霊告がおりているときも、言葉に直せるのは北先生だけで、
北先生が西田に口述して記録させたものでございます。
朝早く、まだ寝んでおりますときに北家から電話があり
「 いま霊告がおりたから 」 と 招かれて、西田は時に出渋っておりました。
その北夫人も、戦後亡くなられました。

夫を喪いましてから、人混みの中を歩いておりますときなど、
大勢日本人が歩いているけれど、夫を銃殺された妻など一人もいるまいと思いますと、
歩きながら後から後から涙が伝い落ちたものでございます。
暗黒裁判でしたし銃殺刑になったことで悲壮感がございました。
でも、あの事件は随分ひどかったようですね。
渡辺教育総監のなくなり方など、ひどいものだったそうじゃございませんか。
戦争が終わりましてからは、戦犯で夫を銃殺された未亡人という立場もございますわけで、
人ごみの中にいて、自分一人の悲運を思って泣くようなことはなくなりましたが----。
生活は戦時中の方が楽でございました。
同情的な方たちからいろいろ庇護をいただき、大事にされたと思います。
勤めにも出ましたし、空襲下を逃げまわった経験もございますが、
若い間に苦労させられなかったことが、今ではかえって怨めしい気がいたします。
だんだん年をとりまして、女一人のこれからの生活を思いますと、苦労はこれからと吐息が出ます。
仲のいい御夫婦をみると癪にさわると申された未亡人もありますが、
わたくしは、いつまでも お揃いで長生きしてほしいと羨ましく眺めております。
再婚話がなかったわけではございませんが、
西田の死んだときのことを考えますと、とても踏切れませんでした。

処刑を前に西田から送られた手紙がございます。

小生 今日の事只これ時運なり 人縁なり 天命なり。
何をか言はむや。 万々御了解賜度候。
人生夫婦となること宿世の深縁とは申せ、十有二年、
万死愁酸の間に真に好個の半身として 信頼の力たり愛恋の光たり給ひしことは
誠に小生至極の法悦に候、
然して 死別は人間の常業と雖も今日のこと何ばう悲しく候ぞ。
殊に頼りなき身を残らるゝ御心中思ひやり候。
申訳無之候
只 いよいよ心を澄して人生を悟りつゝ 静かに ゆたかに そして自主的につゝましく
おゝしく 少しづゝにても幸福への路をえらみ歩みて 余生を御暮しなされ度候
然らば如何ならむ業なりとも可と存候ものを御信仰なされ度 又幾重にも御自愛なされ
半生病などに心身を痛むることなきやう申進じ候
親族主なる友人等はよく消息して不慮の間違等なきやう存上候
小生はこれより永遠不朽の生命として御身をお守り申すべく 将来御身が現世を終えて
御出での時を御待ち申候
感慨雲の如し十二年而して三十六年
恍として夢に似たり
万々到底筆舌に堪えず候
泣血々々
昭和十二年八月十六日    税
初子殿

幾つになりましても、独り暮らしは寂しゆうございます。
この三十余年、
さまざまに人の心の揺れ動き、万華鏡のように捉え難く、
美しい言葉にも金銭が絡めばああこの人までと、
醜い幻化の姿もしたたかに見せられました。
亡くなった西田は、心変りのしようもございません。
現世を終えてわたくしがあの人の許へ赴くのを待っていてくれるという、
この頃は待たれる身の倖せを心静かに思う日も多くなりました。
八月十七日、処刑の前々日に
『 残れる紙片に書きつけ贈る 』
と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
あの処刑前日の面会で、
西田は 「 さよなら 」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
今だに西田の夢をありありと見る依るがございます。
刑死の直後には、
最後に会った日の白いちぢみ姿で
「 迎えにきたよ 」 と 言われる夢も見ました。
夢の西田は、姿はまざまざと見えますのに、
いくら手をのばしても軀に触れることが出来ません。
遠くにおります。
夢の中でさんざん泣いて、
ふと目覚めると、涙で枕が濡れていることもよくございます。
おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか。
・・・
西田はつ聴き書き
妻たちの二・二六事件  澤地久枝 著から


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