あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助の観音經

2021年11月05日 05時28分02秒 | 澁川善助

栗原中尉が
「 鞭声粛々・・・・ 」
と  声を張り上げて 「 川中島 」 を吟じた。
みな謹聴するかのように静かになった。
終わると 拍手が起こった。
「 栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ 」
と  中橋中尉がどなった。
一人が軍歌を歌いはじめると、それがいつか合唱に変わっていた。
私は彼等が楽しく宴会でもやっているのではないかと、錯覚するのがしばしばであった。
錯覚しながらも私の両眼には涙がにじんでいた。
澁川善助
遠くの方から
「 観音經 」
を誦ずる声が、腹わたにしみいるようにきこえてくる。
騒音を縫ってくる朗々たる誦経は、耳をすませば澁川善助のなつかしい声だ。
昭和九年九月、
いまから数えて一年十か月まえ、千駄ヶ谷の寓居において私の母が急逝したとき、
真っ先に駆けつけてくれた澁川があげてくれたのも 「 観音經
あのときと いまでは立場を異にして、
澁川が自分自身をふくめて
十七名の死をまえにしての誦経には、悲壮な響きがあった。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝執行サレルコトガ昨日ノ午後カラウスウス解ツテ夜ニ入ツテハツキリ解ツタ。
一同ノ爲メ 力ノ及ブ限リ読經シ 祝詞ヲ上ゲタ。
疲レタ。
今朝モ思フ存分祈ツタ。

一同
君ケ代合唱
天皇陛下  萬歳三唱
大日本帝國 ( 皇國 ) 萬歳三唱
シマシタ。
・・・澁川善助 『 感想録 』 ・・・

夜の白みはじめるころ、
香田大尉の音頭で君が代が齊唱された。
つづいて天皇陛下萬歳が三唱された。
・・・大蔵栄一著 
ニ ・ニ六事件への挽歌   処刑前夜・・・時ならぬうたげ  から
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昭和九年
九月二十八日 ( 
昭和九年 ) は、わたしにとって最も悲しい日であった。
まえの日の夕方連隊から帰宅してみると、家の中がひっそりかんとしている。
いつでもあると、私の足音をききつけて子供らが玄関に飛び出してくののに、
その気配がない。
「 ただいま 」
と、声をかけてみたがなんの反響もない。
いまごろ留守にするはずはない。
いかぶりながら部屋にはいってみると、
薄暗くなりかけた部屋の片隅に、老母 ( エイ ) が苦しそうに寝ていた。
その日は近くの鳩森八幡神社のお祭りがあるので、
子供らがせがむまま、妻はお祭り見物に子供らをつれて行ったという。
私は、母の容態が普通でないと直感して、軍服を脱ぐ暇もなく近くの病院に走った。
食事中の院長をせきたてるようにして同道した。
診断の結果は狭心症で絶対安静を要すという。
百方手をつくしてもらったが時期すでに遅く、ついに二十八日午前三時過ぎ永眠した。

死の直前、枕頭ちんとうにすわって様子を凝視していた私は、母の死を感じた。
静かに母の首の下に左手を入れてわずかに抱き上げた。
苦しさに耐えていた母はかすかに半眼を開いた。
「 栄一だね、有難う、とても楽しい一生じゃった 」
私の右手に痙攣けいれんを感じたとき、母の一生は終わった。

ちかくにいた西田夫妻が夜中にもかかわらず、母の死を見送ってくれた。
急を知って駈けつけてくれた澁川は、家に佛壇のないのを見て、
急造の佛壇にお灯明をあげてお經を誦ずるのであった。
澁川の唱える観音經は
老母にとっても私にとっても、何ものにも替え難い、有難いものであった。


大蔵栄一 著 
ニ ・ニ六事件への挽歌  母の死に転機を誓う から


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