あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和天皇と秩父宮 2

2017年08月07日 13時15分18秒 | 西田税


天皇と秩父宮
西田の建白書が、
果して天皇陛下のお手許に届いたかどうかは定かではないが、
この頃、
秩父宮と天皇陛下との間に相当の激論がかわされたことが、
本庄日記にある。
本庄は侍従武官長になって後、
侍従長の鈴木貫太郎に聞いたものであろう。
『 至秘鈔 』 の中にこう記している。
・・
当時は満洲事変勃発に伴ひ、国内の空気自然殺気を帯び、
十月事件の発生を見る等 特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、
或日、 秩父宮殿下参内 陛下に御対談遊ばされ、
切りに 陛下の御親政の必要を説かれ、
要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、
陛下との間に相当の激論あらせられし趣なるが、
後にて 陛下は、 侍従長に、
祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、
親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総攬せり。
之れ以上何を為すべき。
又 憲法の停止の如きは明治大帝の創成せられたる処のものを破壊するものにして、
断じて不可なりと信ずる
と 漏らされたりと。
誠に恐懼の次第なり。

・・
この当時の天皇政治は全く形式的で、
憲法では天皇が統治権を総攬するタテマエになっていたが、
天皇の意志は具体的には国策に反映していない。
議会も一種の手続にすぎなかった。
と、
敗戦後、鈴木は口述した著書の中で述べている。  ( 『 終戦の表情 』 )
鈴木の意図は、むしろ秩父宮のお考えに賛成ではなかったかと思われる。
今の陛下のお考えのようでは、陸軍の横暴は抑えきれないのではないか、
と 思ったのではあるまいか。
これはあくまで結果論になるのだが、
天皇陛下が憲法に対して表面的な字義解釈に御忠実であったから、
首相東條英機の言うままに宣戦の詔書に御署名になった。
・・・リンク →大御心「合法手続ならば裁可する、其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の途である 」

そのために古今未曾有の戦禍を蒙こうむり、数百万の生霊を犠牲にし
敗戦によって大いに 祖宗の威徳を傷つける 結果となった。
これは 私の想像であるが
本庄日記にある秩父宮と陛下との御激論は、
西田税の建白書をもって参内された時ではなかったろうか。
天皇親政とか、憲法停止とかいう言葉が飛び出したところをみると、
北一輝の改造方案を引用なさったのに違いない。
西田税が建白書で述べている 昭和維新の大詔 の渙発に関連して、
秩父宮は率直に陛下に言上なされ  陛下との間に激論となったのではあるまいか、
さらに言うならば
天皇は 重臣たちを御信頼になっているが、
秩父宮は元老重臣たちに対して批判的でいらっしゃる。
二・二六事件の際、天皇は本庄武官長に向って、
「 朕が股肱の老臣を殺戮す、
此の如き兇暴の将校等、其精神に於ても何の恕じょゆるすべきものありや
 と仰せられ、  又或時は、

朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、
真綿にて、朕が首を絞むるに等しき行為なり、」
と、天皇はその激怒の御気持を素直に語っておられる。
ところが、お若い時から秩父宮は元老重臣たちの面従後言 ( 表面は従って蔭であれこれ批評する )
の 態度や、目にあまる策謀、国民に対する傲慢不遜な日常生活を見ておられ、
内心不信感をお持ちではなかったか。
陸士御卒業の直前、兜松の下で秩父宮は
「 宮中をとりまく重臣たちの策謀は、目にあまるものがある 」
と、憤慨の口吻でおもらしになったことがある。  (福永憲)
宮内省に仕人つかうどとして二十五年勤めた小川晴信の口述手記 「 三代宮廷秘録 」の中に、
こんなエピソードを伝えている。
西園寺公望の子 八郎は、ある時、天皇陛下のゴルフのお相手をしていたが、
休憩の時、八郎はねころんで、頬杖ついて陛下と話をしていた。
陛下はゴルフ棒をもって立ってお話しをしていらっしゃる。
そこへ秩父宮がお見えになって、
「 西園寺 」 と、大声で呼ばれ、
「 いかに御運動中とはいえ、陛下の御前ではないか、貴様の無作法は何事か 」
と、お叱りになった。
西園寺は平気な顔で立ち上がったが、恐縮の態には見えなかった。
遠くで見ていた小川たちは、辞表か馘くびだな と話し合っていたが、
そのままになってしまった、
と いう話しである。
これは ほんの ささいな一例だが、
天皇の恩寵おんちょうを誰よりも多く受けている特権階級の人々が、
天皇陛下をどう見ていたかを端的に物語っている話だ。
この八郎の親、西園寺公望も、革新的な秩父宮には批判的であった。
冷たい目で見ていたことは原田熊雄 『 西園寺公望と政局 』 を見てもわかる。
ある二・二六事件の関係者はこう言っている。
「 秩父宮殿下は明治天皇のように英邁えいまいなお方であった。
それに比して残念ながら、天皇陛下は凡庸の資質であられる。
昭和の悲劇の根本はここにあった。」
別の一人は、
「 天皇陛下の生物学御研究は、一天万乗の天子としてどうかと思うね。
明治天皇は和歌以外何もたしなまれなかった。
なつかしい京都さえも行けないという御製さえある。
あの昭和の恐慌の最中に、国民となんの関係もない生物学を研究しておられた。
せめて稲の研究でもして、冷害に堪える品種でも作られたら、少しは国民に役だったろうに 」
と、直言している。

秩父宮はお立場上、
時の政治に対しては何の批評もなさらなかったらしいが、
政治に捨て去られた貧しい人々の生活には心を痛めておられた。
だから純粋な気持で国家を憂い、
国民を思う革新的青年将校の心情はよく御理解なさっていた。
刑死した中橋基明の遺書に、
歩三の時代、秩父宮が坂井中尉に
「 蹶起の際は一個中隊を引率して迎えに来い 」
と 仰せられた、とある。
その真意のほどは、もう究明することはできないが、
秩父宮と青年将校たちの深い心のつながりを伝えている。
安藤輝三の刑死後、秩父宮が遺書を見たいとのお申入れで、
遺族が
国体を護らんとして逆徒の名、万斛の恨、
涙も涸れぬ、あゝ天は、    鬼神輝三
と、処刑の前日認たためた悲痛な遺書を持参した。
再び遺族の手に戻された時には、立派に表装されていたという。  ( 河野司編 『二・二六事件 』 )
秩父宮と安藤との深い心の結びつきを思うとき、
殿下の沈痛きわまりない御心中がよくわかる気がする。

秩父宮と西田税とは、どの程度の心のつながりがあったか不明だが、
市井一介の浪人が、天皇陛下に建白書を上るのに秩父宮にお取次ぎを頼んだ。
殿下はそれを快くお引きうけになったところを見ると、
秩父宮と西田税とは、一般に考えられている以上に深い交流があったと思われる。
西田税の三弟 博が昭和二、三年頃 兄の税が帰郷の際
語った話を博の妻 愛が私に次のように話してくれた。
夫妻ともすでに他界しているので、確かめようのない話だが、
ありそうな話としてここに紹介しておく。
・・
昭和三年九月二十八日、
秩父宮は松平勢津子姫 ( 旧名節子 ) と、御婚儀の礼をあげられた。
姫は 旧会津若松藩主 松平容保の孫で、分家の松平恒雄の長女である。
その御結婚話の進行するさい中、
秩父宮は、西田税 に、こう悩みをうち明けられたという。
「 俺はいま、会津の松平の分家から、妻を迎えようとしているが、
周りにうるさい奴がいて、妨害して困る。どうしたら良いだろうな 」
「 殿下の思し召し通りに、断乎、直進なさいませ。きっと会津藩の旧臣たちは、感泣するでございましょう 」
と、西田が申し上げると、
殿下は
「 ウン 」
と うなずいて微笑まれたという。
・・
この話は 真実かどうかはわからない。
しかし、ありそうな話である。
なぜなら、その頃、宮中をとりまく顕官たちは、
ほとんどがわずか六十年前の、会津討伐藩側の出身か、
又はその息のかかった人たちである。
この人たちが
皇位継承第一位 ( まだ皇太子の御出生はなかった ) である秩父宮の妃に、
たとえ分流とはいえ旧会津藩の出を慶ぶ筈がない。
会津の人も六十年前の恨みは忘れてはいないだろうし、
薩長土の藩閥出の人々もいやな思いが残っている筈だ。
明治維新の際、
会津藩は一藩をあげて徹底抗戦し、ついに矢尽き、刀折れて降伏した。
降伏した会津藩に対し、
薩長政府は青森県下北半島の不毛の原野に移封を命じた。
これがいかに苛酷きわまる処置であったかは、柴五郎の遺書 ( ある明治人の記録 )
を お読みになればわかるだろう。
どんな冷血な人でも、飛びたつほどの憤激するに違いない。
それがわずか半世紀前のことである。
こうした歴史的背景を考えに入れると、
秩父宮の御結婚に、裏でどんな陰険な策謀をめぐらして妨害しようとしたか、
わかるというものである。
その頃、秩父宮は歩兵第三聯隊に御勤務になっており、
西田は、例の天剣党問題で、いろいろと紛糾の渦中にあった。
どうして、どこでお目にかかったか不明であるが、
四男博は兄の話はウソではないと語っていたという。
秩父宮と勢津子姫は、御母貞明皇后のお力添えで、めでたく御結婚なさった。
藤樫準二著 『 千代田城 』 には、
秩父宮の御結婚はスムーズに進行したように述べてあるが、
表面はともかく、
裏ではいろいろな陰謀がめぐらされていたことは想像にかたくない。

須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


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