あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」

2017年06月25日 08時39分57秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 

行動記   
昭和十一年八月十二日菱生  誌
第一
八月十二日は
十五同志の命日
因緣の不思議は此日が
永田鉄山の命日であり、今日は宛もその一周忌だ。
昭和十年八月十二日、
即ち去年の今日、
余は數日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が來訪した。
余の住所、新宿ハウスの三階にて
氏は
「 昨日相澤さんがやって來た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に會ふと云って出た 」
余は病後の事とて元氣がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
実は昨夜
村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、
村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、
病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。
自動車の中でふと考へついたのは、
今朝の西田氏の言だ。
そして相澤中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。
さうすると急に何だか相澤さんがやりさうな気がして堪らなくなり、
上野で村中氏に會はなかったのを幸ひに、自動車を飛ばして陸軍省に行った。
来て見ると大変だ。
省前は自動車で一杯、
軍人があわただしく右往左往してゐる。
たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。
余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、
よくよく軍人の擧動を見る事が出来た。
往来の軍人が悉くあわててゐる。
どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。
余はつくづくと歎感した。
これが名にし負ふ日本の陸軍省か、
これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志將校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
俺が一人で侵入しても相當のドロホウは出来るなあ、
情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
今にして上下維新されずんば國家の前路を如何せん
と いふ普通の感慨を起すと共に、
ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、
既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。
振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百圓 ? を受領して帰途につく。
戸山學校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、
この日丁度、
新教育總監渡邊錠太郎が學校に来てゐた。
正門で大尉に面會を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。
これは後に聞いた話だが
この時憲兵は、余が渡邊を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。
陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、
面白いやらをかしいやらで物も云へぬ次第だった。

相澤事件以来、余と村中に対する憲兵、警視廳の警戒は極端であった。
特に赤坂憲兵分隊の態度は憤慨にたへぬものばかりであった。
新宿ハウスへは朝から晩迄つききりに憲兵がゐる。
大体八人は来てゐて外出にはウルサクつきまとふ。
余は
「 君等も日本人だらふ、正義を知れ、何れが正しいかを知れ、而して微行をやめよ 」
と 下士に云った所が、
驚く勿れ、この憲兵は
「 いや微行ではありません、公然と付くことになっているのです 」
と 云って、すましてゐるのだ。
村中は仙台に帰ってゐたが、仙台も相當ひどかったらしい。
この頃村中が東北の青年をつれて東京に潜入し、陛下に直訴をすると云ふ風説がとんだ。
又、永田の葬儀の日に磯部が爆弾を以て青山祭場を襲ふたと云ふ風説もつたはった。
葬儀の當日、
余は相澤中佐に差入れをしやうと考へて、
リンゴを黒い風呂敷につつんで家を出た所が、
憲兵が直ちに微行して来たので、
いきなり圓タクに乗って憲兵をまきながら、
青山から代々木の刑務所へ出た様な事実があった。
陸軍の上下も、國家の内外も、吾等同志の間も実に騒然として、
天下の事いよいよ多事ならんとするの気配だ。
栗原、明石両君等は、若い將校とひそかに何事かを語ってゐる様子。
地方の靑年將校からも激烈な通信がある。
羅南の長尾少尉は聯隊を抜け出して上京し、田中勝君と連絡してゐるらしい。
菅波大尉上京せりの風説は起ったが、大尉の所在は杳として不明。
天下はあげて吾等同志將校に気をもんでゐる。

次頁 第二 「 栗原中尉の決意 」  に 続く
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