あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら 」

2017年10月15日 18時59分37秒 | 安藤輝三


後田は、昭和九年兵である。
歩三・六中隊の上等兵で、
安藤中隊長の当番兵であった。

金剛不懐身
為後田清君
昭和十一年七月十日  安藤生

後田君君達にあひ度かった
諸君に宜しく幸多かれ
さらばさらばさよなら
昭和十一年七月十一日夜  安藤輝三

事件の のち、第一師団が守備隊として渡満したとき、
私はいきませんでした。
人事係のひとが、
「 お前は安藤大尉と特につながりが深かったから、残って、
様子を見届けるようにしたほうがいいだろう  」
と いって、留守隊のほうにまわしてくれたのです。
そして 七月十一日の夜、
私は週番司令に呼ばれました。
「 安藤大尉がお前に会いたがっているという電話連絡が、
看守を通じて聯隊にあった、お前、いきたいか 」
と いうのです。
「 もちろん参ります、週番司令がいってもいいとおっしゃるなら 」
と 答えましたが、
結局、いけませんでした。
「 気持ちはよくわかるが、いかないほうがいいだろう、
お前は行動をともにしたから、注意されている、
会いにいったということになっら、今後、にらまれて、困るだろう、
週番司令としては、やるわけにはいかん 」
と いう。
週番司令がそういうからには、それに従うよりほかありません。
自分の思いのままに行動できないことが、口惜しくてなりませんでした。
死刑の判決があったことは、新聞などでわかっていましたが、
まだ判決があったばかりなので、
まさか翌朝、処刑されるとは、想像もしなかったものです。
安藤さんにはそれがわかっていて、
そのため会いたがっていたとは、もちろん知る由もありません。
この二つの遺された書をみるたびに、
処刑の前夜、安藤さんが私の現れるのを、どれほど待ち望んでいたか、
それがしみじみとわかって、いまだに胸にこみあげてくるものがあります。
おそらく私が面会にいったなら、七月十日、
と 日づけのあるほうを、渡してくれるつもりだったのでしょう。
しかし、看守は電話してくれたが、私は現れない。
待って、待って、待ちわびて、
七月十一日夜、
と 日づけのあるのを、書いたのだと思います。
君達にあいたかった、さらばさらば、さようなら
これをみると、たまらなくなってくるのです。
私は一度も面会にいっていませんが、
というよりも、面会などいけませんでしたが、
安藤さんはなにかの方法で、
私が留守隊に残っているのを知っていたのでしょう。


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