あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

永田伏誅ノ眞相

2018年05月20日 12時28分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )




陸海靑年將校ニ檄ス
永田事件來頻々ヒンヒントシテ吾人ノ耳朶 ジダ  ヲ撃ツモノハ
「 遁ゲ出シタ人ガアツタソウデスネ 」
「 憲兵隊長ハ腰ヲ抜カシタトイフデハナイカ 」
「 軍人モ近頃ハ 餘リ町人ト違ハナイ 」
等々ノ不快なる嘲笑ナリ
「 永田潜伏誅の眞相 」
ナル一文ヲ接手シテ軍人腰抜論擡頭タイトウノ由來ヲ知リ 痛嘆慷慨禁ズル能ハズ 
偶々
千葉市内〇〇〇ニ相會セル有志十七名徹宵悲憤通論
自戒自奮ヲ誓ヒタリト雖モ 皇國皇軍の爲メ 尚意ヲ安ンズル能ハズ
僭越ヲ顧ミズ
敢テ陸海全軍靑年將校諸覧ニ檄シテ憂憤ヲ漏シ奮起ヲ翼望ス

一、永田伏誅ノ眞相 ( 全文  八月十九日入手 )
時は昭和十年八月十二日午前九時稍々過ぎ
動□を帯び 軍刀を佩いて陸軍省に現われた相澤三郎中佐は
先ず調査部長、山下少將と整備局長、山岡中將の許に行き慇懃に臺灣赴任の挨拶を述べた。
整備局長室を離する時、居合せた給仕に永田局長の在室を問ふた處
給仕は小走して直ぐ歸つて來て
『 居られます 』 を復命する、
中佐は莞爾として悠々迫らぬ歩調を以て軍務局長室に向った。
( 以下左爛に就いて劍光一閃永田天誅の顚末を説明する。)

説明
( 1 )
整備局長室から軍務局長へと向った相澤中佐はこの附近で抜刀して局長室へと侵入した。
一説には局長室へ入った後、左手の帽子掛に軍帽を掛けてから抜刀したとも云ふ。
( 2 )
相澤中佐は室内に這ると三名を壓倒する精悍せいかんな勢を以て永田に迫り、
椅子から立ち上がった永田の兩肩を見事袈裟懸に斬った。
( 3 )
永田、痛手によろめきながら遁のがれて此處に來る。
隣室に逃れようとしてハンドルに手を掛けたけれども扉は開かない。
相澤中佐は永田に追及して左手を軍刀の刀背に掛け銃槍か短槍を持った時の身構えで
永田の背後から心臓部目がけて拳も通れと突き刺す、
此の時相澤中佐は左手に輕傷を受けた。
( 4 )
永田は隣室に逃れられぬと思ってか反轉し泳ぐが如く逃れて、この位置まで來たが、
丸机の下へ、ヘバリ込んで即死した。
( 5 )
憲兵隊長新見大佐は左上膊に相澤中佐の一撃を受けてこの附近に倒れる。
新見は相澤中佐に抱きついたといっているが相澤中佐はこれを否定している。
相澤中佐は亦、在室の他の二名に危害を与えることのないように努めた由である。
兵務課長山田大佐は凶變に狼狽し、周章として此處を逃げた。
山田は最初から軍事課長室にいたといっているが、橋本大佐はこれを否認し、
凶變直後に入って來たと明言しているし、相澤中佐も又當時永田の前に二名の將校がいたと陳述している。
又 山田大佐は凶變の現場に居合わせ乍ら其場を逃れたと云ふ自責の念から
自殺の懼れりと云ふので警戒されている。
( 6 )
橋本大佐と徴募課長とが局長室でゴトゴトと 音のしたのを不審に思ひ
局長室の扉を開き見ると扉から床にかけて、一面眞紅な鮮血が悽□面を打つのみで
室内は森閑として靜まり反つている、
兩大佐が室内に入って見ると無惨永田は半身を机の下にして、
數ヶ所の傷に横になつて斃れて居り、又室の一隅に新見憲兵隊長が尻餅をついて口をフッフッして
何事かを云わんとしているのを□見した。
( 7 )
永田の受創は次の通りである。
一、
兩肩に各一カ所、深さ各々頸動脈に達するもの
二、
心臓部に刺創
三、
左腕に斬創、腕が殆んど切り離れる程度のもの
右は軍医學校から最初に馳せつけた細田軍医長が、實に見事な切口であったと感嘆し乍ら語っている。

以上の様な阿修羅の如き奮闘は一瞬の間に終ったのである。
相澤中佐は刀を型の如く納めて悠々と室を出て、更に一、二の先輩に轉任の挨拶を述べ、
同期生某中佐と一會議室で快談した。
この前後、神色自若として少しも平常と異なるところがなかったと云ふ。
相澤中佐はその後医務室を探し求め看護婦に左手の繃帯をさせ、
「 とらんく 」 を片手に悠々と表門まで來た。
恐る恐る附いてき來る憲兵が
「 中佐殿あちらへ參りませう 」
というや、
「 ヂャア行かふ 」
と 輕く云ひ 自動車で憲兵隊に行ったのである。

天神劍を相澤中佐に輿へて斬奸の事をなさしむ。
然り、神意天業と□する以外に相澤中佐の行動を判斷する事は不可能な程
超非凡的なものである。

一、志風振起ヲ要ス
櫻田門外落花ノ晨あした、
井伊ハ 戞々カツカツ劍戟 ケンゲキ ノ中輿中ニ留リテ自若タリシニ非ズヤ
大久保甲東ハ刺客島田一郎ニ左腕ヲ斬リ落トサルルヤ
大喝一聲シテ島田ヲ僻易逡巡セシメ 
犬養首相ハ拳銃ヲ擬セル闖入者ヲ制止シテ對談セルニ非ズヤ
然ルニ何事ゾ
永田ノ醜状陋態 ロウタイ
 子女徒卒ニモ劣レルハ
然モ兇徒 
奉行ニ迫ルヤ輿力ハ遁走シ
目明シハ腰ヲ抜カス態ノ銀幕、
舞臺ノ悲喜劇其儘ナル山田、新見ノ醜ハ殆ンド聞クニ堪ヘザルモノアリ
嗚呼、昌平久シクシテ士風の頽廃 タイハイ 弛緩 チダン茲ニ至レルカ
而シテ何ンノ奇怪事ゾヤ
鯉口三寸ヲ寛ゲ得ザリシ懦夫ニ叙位叙勲ハ奏薦セラレ
或ハ自決退官ノ引責ヲ厚顔免カレントシテ 「 體力及バズ 」 ト辯明是レ努メ
又 「 事件當時在室セズ 」 トノ事實歪曲隠蔽ヘト百萬奔走シツツアリ
此ノ二重ノ皇軍威信ノ失墜事ヲ坐視放任シテ縦斷的、
横斷的聯繫ヲ禁ジ怪文書ヲ嚴重取締ル等ヲ以テ抜本塞源ノ肅軍ヲ庶幾シ得ルヤ

諸賢ヨ、
吾人ハ利己主義ノ權化ナル者 瓢箪式中央部幕僚ト
其ノ二、三ニ操縦駆使セラルル張子將軍トニヨツテ 軍ノ統一、士氣ノ振作ヲ期待シ得ベカラズ
相澤沢中佐ノ神的一擧ハ正ニ是レ昭和武士道ノ開顯ナリ
吾人靑年將校ハ宜シク此ノ風ヲ學ビ
昭和ノ薩摩土肥的下級靑年武士トシテ旗本八萬騎ノ浮薄軽佻ヲ猛撃一蹴シ、
武士道精神ノ高揚ニ努力スルヲ要ス

一、巷説妄信乎非  維新ノ烽火也
陸軍當局ハ曩 サキニ盲旅行ト称シテ水郷潮來ニ新聞記者團ヲ伴ヒテ
―--當時新聞班ハ 記者一人當リ五百圓準備携行シ
ナカ 四百圓ハ金一封トシテ贈与セリト云フ--―
眞崎、荒木等ノ純正將軍ニ統制攪乱者ノ惡名ヲ以テ筆誅ヲ加ヘシムルニ成功シ
今ヤ往年草刈海軍少佐ヲ狂死トシテ葬リ去リタル故 
智ニ學ンダ相澤中佐ヲ巷説妄信ノ徒トシテ抹殺セントシツツアリ
當局―--恐クハ數名乃至十數名ノ幕僚群----ノ迷妄救フベカラザルハ モトヨリ多言ヲ要セザルベシ
相澤中佐ノ超凡的行動ニ驚駭シテ狂ト呼ビ愚ト目スル者ハ
中佐ガ劍禅一如ノ修練ヲ其ノ純一無雑ノ天性ニ加ヘテ神人一體ノ高キ精神界ニ在ルヲ
理解シ能ハザル自己ノ蒙昧愚劣ニ自ラ恥ズベシ
相澤中佐ノ一擧ハ實ニ天命ヲ體シ神意ニ即シテ昭和維新ノ烽火ヲ擧ゲシモノ
是レヲ部内派閥逃走ノ刃傷的結末ト見ルハ無明痴鈍、
宛モ現下部内ノ諸動向ヲ以テ往年軍閥時代ノ藩閥的相克視スルト同一轍ノ愚ナリ


今ヤ維新變革ノ前夜トシ 國家ノ上下ハ維新カ非維新カニヨツテ明カニ二分セラレタリ
此ノ二潮流ノ最尖端ニ立ツテ接戰火ヲ吐クモノ 實ニ陸軍部内ノ維新派ト非維新派トノ對立ナリトス
斯クテ七月十五日 突如重臣ブロック、軍閥者流、新官僚群ヲ背景トシ
其ノ先棒タル林、永田の徒は統帥權干犯、違勅敢行ノ逆謀、七、一五反動クーデターを敢行セリ
天此ノ不義を寛過セズ 
相澤中佐ニ籍スニ神劍ヲ以テシ 雷閃一撃、永田ヲ兇死セシメシモノ
部内ノ私闘ニ非ズ 維新ノ故ニナリ

維新ノ烽火挙ル!
諸賢ヨ、斯ク正視諦観シテ謬
アヤマル勿レ

天皇機關説的思想、行蔵ヲ以テ  皇威ヲ凌犯シ萬民ヲ殘賤スルコト茲ニ年アリ
國運民命將ニ窮マラントシテ神劍一閃維新ノ烽火擧ル
永田ノ頸血ケイケツヲ祭庭ニ灑ソソイデデ天神地祗ノ降靈照覧ノ下 皇民蹶起ノ秋ハ到ル
烽火一炬  嗚呼待望ノ機ハ來レリ
慎ミテ憂國慨世ノ義魂ニ訴ヘ、奮起を望ムモノナリ

昭和十年八月二十一日暁天ヲ拜シテ黙禱
在千葉陸軍靑年將校有志
在館山海軍靑年將校有志

« 栗原安秀中尉の筆  »
昭和十年 相澤事件直後、
西田税、村中孝次、磯部浅一 等による所謂怪文書のひとつ

恐らくこの内容の出所は森木憲兵少佐であろうと思われる。
何故なら、この事件の検証は同憲兵によって行われているからである。 


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