あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助と末松太平 「 東京通い 」

2021年11月07日 20時48分06秒 | 澁川善助

・・・東京に出ると、も一度西田税のうちに寄った。
そこで澁川と落合、たまたま中耳炎で慶應病院に入院していた相澤中佐を一緒に見舞った。
・・リンク
「年寄りから、先ですよ」 
 相澤中佐の中耳炎さわぎ 

相澤中佐は中佐に進級して福山の連隊付になっていた。
慶應病院から、も一度西田税のうちに寄ったが、私はもう 『 改造法案 』 のことは口にださなかった。
ただしばらく歓談して澁川と一緒に知人のうちに引きあげた。
知人のうちには数日いた。
西田税のうちにはもう顔を出さなかった。
澁川は毎日この知人の家に訪ねてきた。
泊まっていく日もあった。
北さんの家にいかないかと澁川に誘われたが別に会いたくもなかったので断った。
それより是非いかなければならないところがあった。
五 ・一五事件関係の士官候補生を訪ねることだった。
一日私は澁川の案内で、彼らが収監されていた豊多摩刑務所を訪ねた。
澁川は度々来ているとみえ、勝手をよく知っていた。
面会の手続きも渋川がしてくれた。
彼らは一つの部屋で軍隊用の水筒の紐をつくっていた。
仕事部屋は獄舎というよりは小学校の教室みたいに明るかった。
が獄衣に冷飯草履の彼らの姿を前にして、漫然と将校の地位にとどまっていることが恥じられた。
しかし、それは同時に次の闘いへの決意を新たにする刺激だった。
澁川は篠原市之助あたりから本の差入をねだられていた。
経済学の勉強をしたいというものへは
「 じゃ、こんど経済学論を入れてあげよう。 これを先ず読むんだね 」
といっていた。
澁川らしく、これまでなにくれと彼らの面倒をみてきているようだった。
刑務所を出ると澁川は笑っていった。
「 今日は貴様と一緒だったから、いつもとちがって刑務所側の待遇がよかったよ。
面会室も特別だったし、将校はやはりちがうね。」
この同じ豊多摩刑務所に、あとで彼らと入れかわりに私は三年収監されることになるのだが、
そのとき面会にきた元の連隊長小野大佐と会ったのも特別の部屋だった。
が澁川はもうそのころは、この世にいなかった。
・・・中略・・・
二十日の旅を終えて帰りついた青森は、軍国の春につづいた自然の春も盛りをすぎて、
独身官舎の庭の桜の木にも、二分三分の花が散り残っているだけで、
それが吹き出た若葉とまじりあっていた。
・・・中略・・・
 
    末松太平 と 澁川善助
澁川は兵営に近い官舎街の一隅にある独身官舎の私の部屋にニ三日滞在した。
昼は私は連隊に出勤するので、澁川はひとり残って、私の書棚から本をひっぱり出して読んだりしていた。
ある日帰ってみると、相馬御風の 『 良寛と一茶 』  を読んでいた。
それには最初のほうに良寛の歌の 
「 いるほどは風が持てくる落葉かな 」
の校証がしてあった。
「 いるほどは 」 は一書には 「 焚くほどは 」 とあるなどと。
私はあとでニ ・ニ六事件の公判に立ち合った看守から、
澁川が法廷で生活費のことをきかれたとき、憤然としながら、しかしことばだけは静かに、
「 いるほどは風が持てくる落葉かな 」
とだけ答えたと、きいた。
夜は旅情を慰めようと、独身官舎の若い将校一同と、料亭に案内したりもした。
酒席の歌一つ知らない澁川は、
そのとき楽譜で練習した唱歌のように、それだけに正調で都々逸を歌った。
澁川が、こんど末松が帰ったら、都々逸を歌ってきかせると猛練習をしているとは、
満洲にいたときから、誰からかの便りで知っていた。
それを初公開したわけだった。

あいたさこらへて末まつからにゃ
  どんな苦労もいとやせぬ

この文句の都々逸だった。
これはもちろん澁川の作った文句ではない。
むかしから粋筋で歌われているものである。
東京都和歌山との板挟みになって、その調整に身の細るおもいをした澁川の感慨が、
末待つを末松にかけて、この文句を練習用に歌わせていたのである。
澁川は途中、秋田、山形の民間同志と会って帰るといって奥羽線廻りで青森を発った。
あとで澁川のことを、若い芸者が 「 変な人だ 」 といっていた。
芸者に澁川がしきりに敬語をつかったからだった。

澁川が大岸大尉の 『 皇国維新法案 』 を印刷したものを、風呂敷一杯重そうに提げて、
また青森にやってきたのは、このときから一ヶ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、大岸大尉から、和歌山で 「 人には見せられないもの 」
と大事がっていた 『 皇国維新法案  』 の草稿を、どう心境に変化がきたのか、
至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を渋川に伝えたが、それが出来上がったから、と持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした。」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
ニ ・ニ六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
ニ ・ニ六事件があった年の正月、私は東京に出ていたが、
そのとき渋川が 『 皇国維新法案  』 が西田税にみつかって、これは誰が印刷したんだと激怒したといっていた。
「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と 澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、へえ、そんなものかなあ、と意外に思った。
ともあれ、ニ ・ニ六事件直前に、まだこんな未解決な問題が、残されていたのである。
ニ ・ニ六事件で私が調べられているとき、
予審官が 「 ときに 『 皇国維新法案 』 というのがありますね。あれは誰が書いたのですか 」
ときいた。
私は一瞬だまった。
それにとんちゃくせず、予審官はつづけて
「 澁川は自分で書いたといっているが、そうですか 」
ときいた。
「 そうです 」
と私は答えた。

実のところ折角澁川が後生大事に持ってきてくれた 『 皇国維新法案  』 ではあったが、
それに対する私の関心はもう薄れていた。
いや、 『 皇国維新法案 』 に対してだけでなく、
改造法案 』 をも含めて、
建設案というものに興味を失っていた。
もともと破壊消防夫である。
焼跡の建造物の恰好が、どうならなくてはならないなどの論議に首をつっこむ柄でもないし、
また場合でもないと思うようになっていた。
凱旋を再度の出征と意気込んで、内地に帰ってきた気持ちは はぐらかされたみたいで、
二十日の旅をした経験では、どこもその接合点を見出し得なかった。
「 どうだ、大同団結がどうの、改革案がどうのと、
四の五のしちめんどうくさいことにかかずらわっていても仕様があるまい。
結局は誰か一人が犠牲になって、日本の一番の害を除けばいいだろう。
十月事件みたいに大勢よってたかって騒ぐことはないよ。
おれが一人て゛やるから、貴様東京でお膳立てしないか。」
と私は澁川に提案した。
澁川は同意した。
「 ところで一番の害は誰かね 。」
「 やはり牧野伸顕だ。」
「 いまでもやはり牧野か。ではそれを誰にも相談せず、二人だけでやろう 。」
当時青森発夜の七時の急行にのると、翌朝七時半に上野につき、
その急行はまた夜の七時に上野を発ち、翌朝七時半に青森についた。
土曜日に隊務を終って夜青森を発ち、日曜日の朝東京につき、
なにごともなければ、その日の夜の急行にのれば月曜日の朝青森につくから、
なに食わぬ顔で連隊に出勤することができる。
目的達成が可能ならば、月曜日は、火曜日水曜日ぐらいになっても、
病気で引籠っているとかなんとかで、とりつくろえる。
若し ニ、三日の欠勤があやしいと連隊が気がついて騒ぐころは東京では事は終わっている。
とりつくろい役は独身官舎仲間の志村、杉野中尉にだけはうちあけておいて、
やってもらえばいい。
---こんな段取りを私は考えていた。
はっきりした日にちは記憶にない。
澁川が東京に帰りついたころあいを見て、土曜日の夜行で、ぶらりと東京へ向かった。
とにかく実践だ、押しかけることだと思った。
志村に 「 じゃ、ちょっといってくる 」 と声をかけた。
志村は 「 一人だけでやっちゃいやですよ。 電報を打つことですな 」 といった。
もう羽織はいらなかった。
和服で袴をつけ、臍へその下あたりに、満洲以来愛用のモーゼル二号と、
別に予備の弾丸を塡めた替弾巣を一緒にしてハンカチに包み、しまいこんだ。
車輛編成は、後のほうに二等寝台があり、あいだに食堂車を挟んで並の二等車一輛がつなかっていた。
帰りは後先が逆になったが、この二等車がこののちしばらく私の専用車になった。
車輛番号は青森の連隊番号と同じ 「 5 」 だった。縁起がいいと思った。
この二等車はいつも空いていた。
二人分はいつもとれたし、時には四人分占領できた。
体を曲げれば寝台車同様の効能はあった。
格別の感慨はなかった。
利根川の鉄橋を渡るとき、藤田東湖がこの川を三十二回渡ったというが、
そのレコードを破っても、決行するまでは東京通いをつづけようと、ふと思っただけだった。

東京へつくとかねて打合せしてあった知人のうちで、澁川と会った。
もちろん他に誰とも会わなかった。
澁川は私の顔を見るとすぐ、おとなしく帰ってくれ、といった。
そういわれると、お膳立てはまかしてあので、もうこのことにはふれず家の人をまじえて澁川と、
蛮トラ代議士と途中一緒になったはなしなど、雑談して夜の七時までの暇をつぶした。
途中汽車のなかで、夜明け、目をさますと、
質屋のおやじのような、ずんぐりした男が知らぬ間に前の座席に座っていた。
途中どこかで乗りこんだらしかった。
私が体をおこすと 「 よくお寝やすみでしたね 」 と話しかけてきた。
別れぎわに東京で暇だったら遊びに来てくれ、と名刺をくれた。
衆議院議員中野寅吉とあった。
こんな代議士を私は知らなかった。
私が懐ろから出した名刺を見て知人は 「これは蛮トラといって議会の名物男ですよ 」 といって笑った。

月曜日の朝青森に帰ると、独身官舎に寄り、軍服に着換え連隊にでた。
志村、杉野以外は誰にも気付かれなかった。

土曜日になるのを待ってまた出掛けた。
このとき澁川はいった。
ひとりでお膳立ては無理なので、近衛の飯淵少尉だけに強力を頼んで、
一緒に牧野の動静を探っている。
牧野の邸にふみこむのはまずい、途中待ち伏せする方法がいいと思う。
牧野の車が邸をでて曲り角で一時停車するところがある。
そのとき自動車のステップに足をかけ、運転席の窓から拳銃を差しこんで撃つのがいい。
自動車の窓ガラスは防弾ガラスだろうが、いつも運転席の窓があいている。
離れてからでは撃ち損じるから、この方法がいい---。
私は拳銃には自信がなかった。
熱河の承徳にいたとき、潮河の上流の河原で、よく拳銃の練習をした。
銃工長が弾丸はいくらでも補給した。
「 中尉殿は拳銃を練習する必要があるでしょう 」 といいながら。
西部劇のヒーローにもあやかった。
が所詮拳銃は私にとっては飛び道具ではなかった。
ちっとも上達しなかった。
拳銃は必中を期すなら、相手の体にくっつけて撃つもの、というのが結論だった。
ステップに足をかけ、運転席の窓から、できるだけ長く手をのばして、
牧野の体に近づけて引鉄を引く自分の動作を頭に描いてみた。

東京通いは、せっせと一ヵ月ばかりつづけた。
四回か五回になった。
そのたびに澁川は私の顔をみるや
「 こんども駄目だ。なにもいわずに帰ってくれ 」
をくりかえすだけだった。
この方法が、ただ澁川を困惑させるだけでなく、愚であることが自分自身わかってきた。
同時に、自分一人が徒に先走っていることにも気がついた。
私は東京通いをやめた。
藤田東湖のレコードは遠くおよばなかった。
あとでわかったが、私が東京通いをしていたことを師団では偵知していた。
翌年の春の随時検閲のときだった。
検閲賀終わると恒例の師団長の招宴があるのだが、
そのとき参謀長の久納大佐は、私のそばに腰をおろし
「 おい、お前が毎週東京に行っていたことは、ちゃんとおれの耳にはいっているぞ。
お前の行動はみなわかっている。が、まあいい、飲め 」
といって、酒をすすめた。


末松太平著  私の昭和史 
十一月二十日事件 ( その一 )  から


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