あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」

2021年09月29日 13時58分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

陸軍に、はっきりした形で靑年將校運動なるものが、捉えられるようになったのは、
昭和五年十月の櫻會結成以後のことである。
それまでの隊附靑年將校の動きは、非合法であり上長の眼をぬすんで、
ひそかに、西田税などの指導で動いたにすぎなかった。
では、軍に、このような國家改造を志す靑年將校の一群が、どうして誕生したものだろうか。
すでに述べたように、
第一次世界大戰後の平和思想とデモクラシーの高潮、ロシア革命による共産主義の浸潤
などによる社会思想運動の勃興は、將校もまたその思想開眼を餘儀なくせられたが、
その運動のおこるには、それが起るだけの社会會惡、政治惡の多くが、そこにひそんでいることを知った。
これに、軍隊教育に任ずる若い將校は、直接かつ現実實に兵隊達の家庭、
それは小商人といわず、小市民といわず、貧農といわず、
その家庭の實體に触れて、その社會惡、政治惡の存在を確認する。
當時の軍隊兵員の四分の三は農村出身だった。
だから農村の困窮は、とりもなおさず兵の困窮である。
日夜兵隊たちと寝食を共にする若い將校たちの眼に映ずるものは、
飢餓線上にただよう小作農民の悲惨な生活であり、中小企業者の轉落であり、
失業にあえぐ労働者の生活苦であり、花街に身賣りする憐れな子女の姿であつた。
しかもそれら巷にあふれる悲惨な姿は、健全な社會、正しい政治でないことを直感する。
考えれば、それは、また、仁慈無限の天皇をいただく日本のほんとうの姿ではない、
どこか狂うた日本の姿である。
その狂いはどこからきたのか、そのこれを狂わしめているのは何者か。
もともと、兵の訓練に任じ強兵を思念する隊附將校は、國民生活の安定と嚮上を希い、
また、なによりも國家を至上としてその隆々たる發展を願っていた。
だが、その國は本然の姿を失うて思想は惡化し經濟は振るわず、國民は窮乏に沈んでいる。
これではいけない、日本の現状をこのままにしておくことは許されない、
若い將校はこうした義憤に燃えた。 ・・・リンク→後顧の憂い 「 姉は・・・」
しかも、外に眼を轉ずると、
そこには國威の伸暢どころか、英米に屈する無力な外交の姿があった。
隊附將校の國家革新への志嚮はこうしておこった。
要するに、隊附將校のこのような思想的基盤の上に、革新の種が蒔かれ、
しかもそれが時に應じて培われて、そこに、根鞏い靑年將校の國家革新運動、
即ち靑年將校運動が育成されたのである。
いうまでもなく、その革新の種とは、國家改造運動者の靑年將校への働きかけであり、
これを培うものとは、彼等を國家改造意欲にかりたてた、内外事情の發生であった。

 
陸士三十四期生 卒業記念
前列中央・・秩父宮  右上○枠・・西田税 


さて、陸軍士官学校三十四期といえば、大正十一年の卒業であるが、
この卒業生には秩父宮もおられたが、騎兵科士官候補生に西田税なるものがいた。
彼はすでに中央幼年學校の頃から、満蒙問題や大アジア主義運動に關心をもち、
士官學校に進んでは、北一輝、満川亀太郎らのもとに出入りし、
ことに、北の 『 
日本改造法案大綱 』 を讀んで
深くこれに共鳴感動し、國家改造を志嚮するようになった。
大正 十一年末朝鮮騎兵第二十七聯隊で騎兵少尉に任官したが、
大正 十三年には廣島の騎兵第五聯隊に轉じ間もなく胸部疾患のため、
大正 十四年七月に依願退職した。
軍服を脱いだ彼は、上京して行地社に投じ雑誌日本の編集に從事するかたわら、
當時大川周明の主宰していた大學寮の軍事學講師となったが、軍事學とは名のみで、
寮生に對し國家改造思想を吹き込んでいた。
記述のように大學寮はその頃日本革新の源流の観を呈し、
陸海軍靑年將校、陸士生徒などの出入りも多く、西田と靑年將校との接触も頻繁となった。
當時陸士生徒だった澁川善助や末松太平は、ここで西田を知ったといわれている。

・・挿入・・
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。 
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。 
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
・・・ 天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 


・・挿入・・
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 

さて、西田の行地社入りは、彼の國家革新運動の第一歩で、
北一輝の 『日本改造法案大綱 』を革命の聖典として、これが普及にのり出したわけだが、
北と大川の不和から行地社が分裂すると、西田は北の許に走り、
大正 十五年四月には北から 『 日本改造法案大綱 』 の版權を得て、いよいよ革新運動に乗り出した。
彼は代々木山谷に一戸を構え、ここを 士林莊 と稱した。
だが彼の古巣は陸軍だった。
その革新思想の啓蒙はいきおい軍の將校に向けられる。
西田は陸士卒業後も全国同期生の志を同じくするものには、たえず情報をおくりその思想の啓蒙に努めていた。
例えば 大正 十二年ヨッフェが後藤新平の招きにより、來朝したときは
北は ヨッフェに与える書 と題するパンフレットを全國にばらまいたが、
その文書は西田の手によって全軍同志將校に配布されていた。
それは西田の同志獲得の手段であり、
こうして彼の士林莊當時すでに數十名に及ぶ靑年将將校を同志として握っていた。
たしかに、靑年將校運動における西田税は絶對に見逃すことのできない存在である。
すでに述べたように、彼は陸士在學中より國家革新の洗礼をうけて、その志を固くしていた。
大正十一年 かれが在學中病を得て入院中、書き殘したといわれる
無眼私論 」 と題する一篇が最近發掘されて
『 現代史資料5国家革新運動 』 ( みすず書房 ) にのせられている。
一讀して、すでに彼が北一輝の國家改造法案に魅了されていることが理解されるが、
その大正維新という一文には、
「 今に於ては最早直接破壊のために劍でなければならぬ。劍である、そして血でなければならぬ。
吾等は劍を把つて起ち血を以て濺がねばこの破壊は出來ない、建設は出來ない。
神聖なる血を以て此汚れたる國家を洗ひ、而して其上に新に眞日本を建設しなければならぬ。
而して 天皇の民族である、國民の天皇である この理想を實現しなければならぬ。
噫、大権--神聖なる現人神の享有し給ふ眞理實現の本基たるべき--の發動による國家の改造
クーデッタ 吾等はこれを斷行しなければ無効だと信ずるものである。
--爆彈である、劍である。」 と書いている。
すでに一かどの白色革命の闘士だったのである。
陸軍士官学校
一體、陸軍將校を養成するこの學校には、いつ頃から革新の風が流れていたのだろうか。
五 ・一五事件には後藤英範ら十一名の陸士生徒が海軍將校らと行動を共にしたし、
昭和 九年の十一月事件にも武藤、佐々木、佐藤など五人の生徒が連座しているところを見ると、
そこに何かしら代々に伝わる革新の流れといったものが感ぜられることである。
たしかに、いかめしいこの武窓には昔から一つの風潮があった。
昔からといっても私がここに在学していたのは、大正の中期であったが、
その頃ここには大陸党とか金魚党とかいわれた一種の血盟があった。
もちろん、それは極く少數のグループであったが、
これらの人々は、わが國の將來の發展が大陸問題にあったためか、
支那、満洲に飛躍する志士、國士といった人々への強い憧れから、課業をよそに、
ひそかにその道の先達を求めて教を請うていた。
それは一面この學校教育の無味乾燥劃一性に反逆しての志向とも見られるのであるが、
これらの一群の人々は國の現狀に悲憤憤慨して、その行動ややもすれば常規を逸し、
いわゆる勤勉從順なる生徒ではなかった。
肩をいからし弊衣弊帽、口を開けば國家、國事を談ずる東洋豪傑ぶりを喜び、
かつこれを實踐していた人達であつた。
もとよりこうした行動や、人々の結びつきは、學校當局の容認するところではなく、
それはあく迄も非合法的な存在だったのである。
しかし、これが學校教育への反逆である限り、時と共に形を變えてくる。
或は國體信念に透徹しようと國體学究の門をくぐるものもあれば、
社會思想運動に興味をもち思想家の教をうけるものもあり、
時には文學にこって文學者に師事するものもあった。
そして西田のように國家革新、國家現狀の認識を高め
そこから現狀打開、國家改造への志嚮に奮い立つ一群も生れてきた。
こうした一群の人々は卒業して將校團にかえれば、
すでに一かどの自他共に許す革新將校であった。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』 
二 革新のあらしの中の憲兵 ・・から

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西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」 に続く


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