あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助 『 絶對の境地 』

2023年02月10日 08時07分37秒 | 澁川善助

昨夜 安藤と会ったあの応接室には、十数名の将校が集っていた。
安藤も坂井も鈴木もいた。
勿論 見馴れぬ将校もいた。
わたくしがそこに這入って行くや、
坂井に話す隙もあらばこそ、忽ち数名の者から、
「何うだ、何うだ」
と、質問の矢を浴びてしまった。
これは余り様子が違う。
野中や坂井が誰と交渉したのか、それさえも知らぬわたくしである。
ただ知っているのは奉勅命令のことである。
「奉勅命令が出たんです。お帰りになるんでしょう」
わたくしは慰撫的にそう云った。
これはかれらには意外だったらしい。
「 何が残念だ、奉勅命令が何うしたと云うのだ、余りくだらんことを云うな 」
歩兵第一旅団の副官で、事件に参加した香田大尉がこう叫んだ。
かれらはまだ自分の都合のよい大詔の渙発を期待しているのだ。
奉勅命令については全然知らない。
わたくしは茫然立っているだけであった。
この時
紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。

それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全国の農民が、可哀想ではないんですか 」

澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」

澁川は会津若松の出身で、仙台陸軍幼年学校を経て陸士に進んだ ( 三九期 )。
幼年学校では、二期上に村中、一期上に安藤がいた。
彼は、士官学校予科を二番で卒業し、将来を嘱望された。
しかし、本科卒業直前に、士官学校の教育方針を批判したというだけの理由で、退校処分を受けた。
ときの校長は眞崎甚三郎であった。
その後明治大学専門部に学んだが、在学中社会問題、思想問題に関心を抱き、
満川亀太郎らの指導を受けて国家革新運動に奔走するようになった。
昭和九年頃大森一声、西郷隆秀らと、学生を対象とする精神修養団体 「 直心道場 」 を創設し、
塾生の指導に当たる傍ら、道場に置かれた 「 核心社 」 の同人として雑誌 『 核心 』 の発行に携わった。
昭和一〇年一一月相澤中佐が起訴されると、西田税らと共に相澤の救援活動に当たっていた。
同志の澁川評は、
「 直情径行の士で、実行力に富む 」 ( 福井幸 ・第五回予審調書 )
「 昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。
 激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない 」 ( 中橋照夫 ・第一回公判 )
「 一徹に進んで行くかと思うと、途中でいかぬと思えばすぐに引き返し、
 今度は引き返した方向に一徹に進むという急進 ・直角的で、
 樫の木のような性格の持ち主 」 ( 西田税 ・第三回公判 )
と、ほとんど一致する。
彼が明晰な頭脳と鋭い論鋒の持ち主だったことの片鱗は、
裁判長らに宛てた 「 公判進行ニ関スル上申 」 に示されている。
しかし、私が何よりも驚嘆するのは、彼の強固でしぶとい意思についてである。
一例を挙げよう。
後述のように、彼は事件の前日、
偵察先の湯河原に同行していた妻を、連絡のため上京させた。
帰途西田から託された手紙を夫に渡した。
これは、妻も西田もあっさり認めた事実だが、澁川だけはついに最後までしらを切り通した。
取調官が確証を握っている事実について否認し通すことは、通常人にはできない仕業である。
澁川は、兄事していた西田に関する事項については、徹底徹尾諴黙を守っている。
西田を庇った被告人は、もちろん彼だけに止まらない。
村中 ・磯部 ・栗原らは、予審 ・公判を問わず、
極力西田が事件と直接関係のないことを主張した。
とりわけ磯部は、北 ・西田の助命のため、
獄中から百武侍従長その他の要路関係者に対して、
次々と秘密の怪文書を発送している。
しかし、まるで西田が存在しないかのように西田関係について黙秘した者は、澁川を除いてはなかった。
これは、彼の人間研究に見落とすことのできない点である。
リンク
獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」)
獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」 
獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」  )

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二月二三日、澁川は村中から本件の計画を知らされ、
牧野伸顕の所在偵察を依頼されてこれを快諾した。
この時点で、彼は直接行動には加わることなく、外部から蹶起を支援することになっていた。
彼は、即日妻キヌを同伴して湯治却を装い、
佐藤光佑という偽名で湯河原の伊藤屋旅館に投宿し、牧野の動静を探った。
二五日朝、彼は妻を上京させて磯部に情報を届けた。
午後、河野大尉が旅館を訪れ、直接澁川から情報を得ると共に、
牧野が滞在している同旅館別館の周囲の状況を自ら見分した。
澁川は、午後九時頃旅館に戻ったばかりの妻をせき立てて、
旅館には 「 親戚の子どもの具合が急に悪くなったので帰る 」 との口実で、
湯河原発午後一〇時三四分発の終列車 ( 横浜止まり ) で帰京した。 ( 澁川キヌ ・第二回検察官聴取書、稲井静江 ・検察官聴取書 )
妻が旅館に戻ったとき、彼は妻が帰ってくるのを待っていたような様子であり、
トランクなどもきちんと整理とてあったというから、当初から帰京のつもりだったと思われる。
帰京した彼は、終夜歩一 ・歩三の周辺で部隊の様子を窺っていた。
午前四時過ぎに部隊が営門から出発するのを確認した彼は、直ちに電話でこのことを西田に報告している。
事件発生後の澁川は、情報の蒐集と提供、民間右翼に対する協力要請などに走り回っていたが、
二七日旧知の中橋照夫 ( 明治大学生 ) から山形県農民青年同盟の同志らと謀って蹶起する旨を告げられ、
拳銃五挺の入手方を依頼された。
澁川は、歩兵第三二聯隊 ( 山形 ) の浦野大尉への紹介状を渡し、
まず軍隊と連絡を取るようにと助言する一方、栗原に依頼して入手した拳銃五挺し実包二五発を与えた
( さらに栗原を介して銃砲店に実包三〇〇発を注文したが、これは入手できなかった )。
中橋は、出発直前の二八日午前九時頃自宅で警察官に逮捕され、
反乱幇助で起訴されたが、判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定されて禁錮三年に處せられている。
このほか、澁川は、二八日青森の歩兵第五聯隊の末松太平大尉のもとに、
東京の情況説明と地方同志の奮起を促すため、佐藤正三 ( 中央大学専門部学生 ) を派遣している。
このため佐藤は反乱幇助罪で起訴されたが、
判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定され、禁錮一年六月 ・執行猶予四年の刑を受けている。
なお、末松は、革新青年将校の一員であり、澁川の同期生で親交があった。 ( 反乱者を利する罪で禁固四年 )
この事実は、澁川も被告人尋問で率直に認めている。
しかし、判決文からは、なぜかこの事実はすっかり欠落している。
おそらく、法務官のミスと思われる。
二八日午前一〇時頃、
澁川は 「 幸楽 」 にいた安藤大尉を訪れ、そのまま叛乱軍に止まった。
その理由について、
彼は法廷で、
「 外部の弾圧が激しく、検束されるおそれがあったからだ 」
と述べる。
確かに警視庁は、この日から民間関係者の一斉検束に乗り出している。
しかし、情報を得るために安藤に会いに行った澁川が、
急激に悪化した情況のため、戻るに戻れなくなった可能性もないわけではない。
以上の事実関係のもとで澁川を 「 謀議参与者 」 と認めることは、私には疑問がある。
牧野偵察はまさに幇助行為だし、
中橋らに対する行為にしても、彼が独自に行った支援行為にすぎないからである。
しかし、この点はさておいても、極刑の選択はあまりにも酷であった。
軍法会議は、民間の被告人らに対しては、とりわけ厳刑で臨んで居る。
澁川然り、湯河原班の水上然り ( 求刑は懲役一五年 )、北 ・西田また然りであった。
禁錮一五年の求刑を受けた亀川哲也も、判決は無期禁錮であった。
軍部に対する国民の非難を民間人に転嫁しようとする意図が窺える。
・・・北・西田裁判記録  松本一郎  から


澁川善助  シブカワ ゼンスケ
『 絶対の境地 』
目次

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・ 澁川善助 ・ 道程 ( みちのり ) 

・ 澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」 
・ 澁川善助の士官學校退校理由 

・ 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 

・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年三月二十四日 〕 
・ 
末松の慶事、万歳!! 
・ 澁川善助發西田税宛 〔昭和十年六月三日〕 
・ 澁川善助發西田税宛 〔 昭和十年六月三十日 〕 

・ 澁川善助・統天事件に巻添えを食う 「 奴らは卑怯です 」 
 皇国維新法案 『 これは一體誰が印刷したんだ 』 
・ 澁川理論の展開 
・ 
相澤中佐公判 ・ 西田税、澁川善助の戰略 

永田軍務局長を斬った時の感想として、
「 私の心の中の覚悟としましては、総て確信による行動であるから、
事の成ると成らざるを問わず、行動を終ればそのまま平然と任地に赴く考えでありました 」
と、澁川がその速記録を見ながら、相澤の心境を語った時、
安藤輝三大尉がクスクス笑い出してしまった。
これは笑うのがあたりまえだ。
一般国民でもかれは精神異常者ではないかと噂したほどであるから。
安藤は澁川と昵懇なので遠慮がないから笑えたので、
一緒に他の者が笑わなかったのは、ただ失礼と思っただけである。
澁川は陸士三十九期の中途退学生である。
「 笑ってはいけません。 安藤さん、あなたは禅を知らないからです 」
澁川が大きな声で叱った。
澁川のこの言葉に、一同は なる程そう云うものかなと、
全面的に納得はゆかぬものの、話はそれで進められた。
・・・
澁川善助 「 あなたは禅を知らないからです 」 

今回の行動に出でたる原因如何。

宇宙の進化、日本國體の進化は、
悠久の昔より永遠の将來に向つて不斷に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶對必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出來ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、
台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで

絶對の境地であります
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、
凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは當然の事と思って居ります
・・
澁川善助の四日間

昭和維新・澁川善助

・ 西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
・ 澁川善助 ・ 昭和維新情報 
・ 澁川善助の晴れ姿 
・ 澁川さんが來た 
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

・ 澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

白装束。
(あっ、やっぱり澁川さんだ)
本当に殺しちまいやがった! 畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面會の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。

・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 

・ 
澁川善助 『 感想錄 』 
・ あを雲の涯 (六) 澁川善助
・ 澁川善助の観音經 

事件勃発後は主として西田宅におり、
西田の指示により情報の収集と民間団体蹶起の呼びかけ等に専念していたが、
二十八日午前十時頃、幸楽の坂井部隊に入り、
爾来 事件終結まで 坂井隊と行動をともにした。
彼はこれがために 部隊指揮、すなわち 「 群集指揮 」 の責任の故に死刑となった。
澁川は日蓮宗にふかく歸依し、
獄中、常時讀經し、とくに刑死前夜には同志のため祈りつづけていた。
そして七月十二日午前八時三十分
泰然として刑場に臨み、
その刑の執行されんとするや、

「 國民よ、軍部を信頼するな !」
と 絶叫したという。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件 から


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