あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・磯部淺一 (一) 赤子の微衷

2021年04月16日 13時02分16秒 | 昭和維新に殉じた人達

蹶起の眞精神は
大權を犯し國體をみだる君側の重臣を討って大權を守り、
國體を守らんとしたのです。

藤田東湖の
「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」
これが維新の眞精神でありまして、 青年将校蹶起の眞精神であるのです。
維新とは具体案でもなく、 建設計画でもなく、
又、案と計畫を實現すること、そのことでもありません。

・・・
「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん」 


磯部淺一 
「 僕は僕の天命に向って最善をつくす、唯誓っておく、
磯部は弱い男ですが、
君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる。
私は元来松陰の云った所の、
賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。
悪を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。
悪は見つけ次第に討つべきだ
との考へが青年将校の中心の考へでなければいけない。
志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。
だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。
大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。
お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、
村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、
又 むかふの心中もよくきいてみよう 」
と 語り合ったのである。
・・・
『 栗原中尉の決意 』 


二十五日の午後七時三十分頃、
歩兵第一聯隊に勤務して居ります機関銃隊の栗原中尉の処へ山本少尉と共に参りました。
山本は当日軍服の儘夕方の五時頃私の宅に訪れて来たので、
私から決意を述べたら即座に同意し、私と共に行動したのであります。
歩一機関銃隊将校室に行った時には、林少尉、栗原中尉が同室して居たと思ふ。
十時頃迄機関銃隊に居り、そりから第十一中隊将校室に参りました。
其の時には香田大尉、丹生中尉、村中が同室して居りました。
此間、蹶起趣意書印刷は山本少尉が担当し、
村中、磯部、香田が要望事項の意見開陳案を練り、 香田が通信紙に認めて居ました。
河野大尉が午後十一時歩一機関銃隊へ来て十二時過ぎ出発したので
一寸機関銃隊へ行きました。
それから歩三の状況を見るため、野中大尉の処へ連絡し、直ぐ歩一へ帰りました。
歩三へ行くとき 對馬、竹嶌中尉が自動車で来たので歩三前電車路で会ひましたので、
歩一へ行く様に示して置きました。

二月二十六日の午前四時三十分頃、
歩一の営門を出発しましたが、
栗原中尉の指揮する機関銃隊及び第十一中隊と行動を共にし、
赤坂山王下に出でて栗原部隊の首相官邸へ行くのを見つつ 第十一中隊と共に陸相官邸に向ひました。
私は丹生中隊の後尾を行きましたが、中隊人員は分りません。
中隊の指揮は丹生中尉が致して、中隊の先頭には村中、香田、丹生の三名が居たと思ひます。
私は陸相官邸の門が開いて居りましたから、直ちに中に這入りました処、
香田大尉村中が憲兵及官邸家人と大臣面会に就て折衝中でありました。
丹生中尉は兵を区処して陸相官邸に配置しました。
私共が陸相官邸に赴きました理由は、陸軍大臣閣下に事件の内容を申あげまして、
時局の重大なる事に対する重大決意を得ようと思ったからであります。

村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、 官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。
一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。
あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・
行動記 ・ 第十三 「 いよいよ始まった 」 

午前五時半頃、
陸相官邸に参りまして色々と御願いしやうと思ひましたが、
面会出来ませんので 約一〇回位各種の方法を講じ、
決して危害を加ふるの意志なき事、
及び 会見の理由を小松秘書官を通じて大臣に話して貰ひ、
到着後約一時間半後に御面会いたしました・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 
大臣との会見には香田大尉、村中と私が面会し、小松秘書官が立会して居りました。
香田大尉から蹶起趣意書 ( 印刷した者 ) を 口頭にて申上げ、
次に要望事項に関する意見 及び 本朝来の行動の大要を申上げました。
要望事項の意見とは、
一、此際断固たる大臣の決意の要請、
二、林大将、橋本中将、小磯、建川、南、宇垣諸将軍の逮捕、
三、襲撃部隊を其他一帯に位置せしめられたき事、
四、同志将校の数名の青年将校を東京に招致せられたき事、
   数名は、大岸、菅波、大蔵、朝山、小川、若松、末松(青森)、江藤(歩一二)、佐々木(歩七三)、
五、不純幕僚分子に対し処置を乞ふ、其人名は武藤章中佐、片倉少佐でありました。
以上の要望を通信紙三、四枚に書いてある。
多分香田大尉が持って居ると思ひます。
大臣閣下との会見時間等はよく解りません。
私は連絡をしたり、他の事をして居りました。
会見途中、陸軍次官が御出でになり、
次官から電話にて真崎将軍、山下少将、満井中佐を御召きになりましたので
続いて官邸に来られました。
私は其後、陸相官邸、警視庁、参謀本部を行動して居り、
亦 陸相官邸正門にて連絡に任じ、
二十六日の第一日には 陸軍首脳部の態度は殆んど解らぬ儘 経過しました。
殺害を加へた者に対し知った其の順序、
1、高橋蔵相を完全にやつたこと、
2、斎藤内府を完全にやつたこと、
3、岡田総理をやつたこと、 4、鈴木貫太郎をやつたこと、 5、渡辺総監をやつたこと、
等でありますが、
二十六日午後になつて牧野内府をやつたと云ふ噂を聞きました。

二十六日午前午前十時頃
陸軍大臣官邸玄関にて片倉少佐を射ちました。
其の状況は私は正門前にて連絡の為出て居りましたら 将校が五、六名やつて来られたので、
正門前に居た二、三名の将校が之を入らない様にすすめたが、
片倉少佐が不服相でありました。
私は片倉少佐は殆んど面識がなく、
「 片倉 」 だと云ったので片倉少佐だと思ったが、殺す気になれぬ。
一旦玄関の方へ引返しました。
そしたら田中中尉が片倉少佐が来て居ると言ったので、
又何とかせねばならぬと考へたが、 殺意がピンと来ないので正門前まで歩いて行った。
暫らくして憲兵控所の前で、片倉少佐が何か言って居るのを現認したが引返し、
熟考したが殺意を生ぜず、 それから玄関に来た時、大勢の将校が玄関前に来り居り、
山下少将、石原大佐が将校に帰れ、軍人会館の方へ行けと、命じて居られたが、
其時 片倉少佐が話たい事があると、語気荒く憤懣の状ありしを現認したので、
此将校が居たのでは我々の威信も滅茶苦茶になると思ったので、
所持の拳銃を以て片倉少佐の頭部左側面より一発発射し、
更に軍刀を抜いて構まへましたが、 片倉少佐は話せば分ると云ひつつ、
玄関外の砂利敷の所に逃げたので、
私も敢て追及せんとせず、刀を収めました。

第一日の午後は、
各々現在地を警備せしめられたいと言ふことを
山下少将、鈴木貞一大佐、西村大佐、満井中佐に御願ひをしたので、尽力すると言ひ、
西村大佐が警備司令部に折衝に行かれたのであります。
小藤大佐、山口大尉は午前中に陸相官邸に来られた様に思ふ。
私は第一日は、大体、陸相官邸に居り 夜は官邸に泊りました。
第一日夜、満井中佐、馬奈木中佐が来られ
「 これに依り御維新に入らねばならぬ 」 ことを 御話ししたが、
両官は極力尽力しやうとの事にて、
今、宮中に参謀総長、陸相が行って居られるから一緒に連れて行かうと云ふ事になり、
山下少将、満井中佐、馬奈木中佐、香田、村中、磯部のものが
自動車にて宮中に行かんとして御門 ( 夜間の為判明せず ) に 行きました。
目的は陸相閣下が宮中に於ては種々維新反対の人達に取囲まれて、
本情勢を誤認してはいけないと言ふ訳で、
満井中佐、馬奈木中佐、山下閣下の御発意を青年将校を同道して、
青年将校の心情を陸相閣下に申上げて、
陛下の御維新発程の議を奏上して頂く様に御願する為であつた。
而し 此事は、山下閣下から勧められ、
其代り 軍事参議官を陸相官邸に集って貰ふからと言ふのであつたが、
不安であつたので一緒に行きましたが、
御門の処に山下閣下丈け入門を許可され、吾々は入れなかつたのであります。

当夜一時頃、(二十七日)
官邸で村中、香田、磯部、野中、栗原、対馬、竹島、が 参議官の集って居られる処へ出席して、
主として香田大尉が今朝陸軍大臣に申上げたと同様の事を申上げ、
各人も一口宛程申上げました。
第二日の二十七日の夕方、
両面罫紙に 二十六日朝来行動せる将校は現在の位置にありて小藤部隊として、
其地区の警備を行ふべき旨の警備司令官命令 ( 香椎中将の靑の鉛筆を以てする華押あり )
を見て、大いに安心し、農相官邸に宿営しました。
此命令の出た事に就て、村中が二十六日夜、 香椎中将閣下に司令部で御会ひして
我々が此の一帯の台上を占領することは維新発程の原動力であるから、
是非此位置に頑張り度い旨を具申し、 其許可があつたものと考へて居ります。
同日夜、農相官邸に泊りましたのは田中勝中尉と山本少尉と私の三人でありました。

二十八日の朝、
憲兵隊の神谷少佐が自分を訪れて来ました。
それは同日朝山本少尉が警備司令部を訪問し、司令官参謀長に会ひ、
此時神谷少佐が立会し、後、神谷少佐と山本少尉が私を訪れて来たので、
私は警備司令官に御会ひしたいと云ふたので、神谷少佐が案内して呉れました。
軍人会館に行ったが司令官に会ふ事が出来ず、石原大佐と満井中佐に会ひました。
大佐殿は奉勅命令が出たら、どうするかと申されたから、
其時は 命令に従はねばならぬと答へ、
兎に角吾々は現在の位置に置いて頂く様にならぬものだらうかと申しあげましたら、
大佐が意見具申に行かれ、 その間に満井中佐が来られたので、
私は 「台上に居る私共に解散さすことは軍が維新翼賛する事にならぬ。
即ち 私共があの台上に居る事によつて国を挙げての維新断行の機でもあり、
下っても実に宮中不臣の徒の策謀に依って、
陛下の大御心を蔽い奉った奉勅命令だとしか考へられませんでしたから、
此際 吾々は部隊を解さんされたならば、
断乎各自の決意に於て残したる不臣の徒に対して、
天誅を加へねばならぬ」 旨を申しました。
他の者の意見は 奉勅命令が下れば命の儘に動かねばならぬ
と言ふことが大体纏り掛けて居ったが、
更に相談することとなり、
其結果、全員奉勅命令に従ひ大命の儘に行動する と云ふことになつた。
そこで第一線部隊を引上げ、
将校を官邸に集合せしむるべく 香田、村中が第一線部隊に連絡にゆきました。
第一線部隊の一部の将校 ( 安藤、外に歩の三部隊 ) 
が 最後迄やるのだと言ふことを主張したので、
私共も之に同意し、最後迄やる決心をとつた訳であります。
同日午後第一線の安藤から電話にて、
兎に角、相手方はすつかり包囲して攻撃態勢をとつて居る。
吾々に徹底的に賊名を着せて了せようとしておる との邪念がありました。
斯くて私は大いに苦悩しましたが、機関説信者が聖明を蔽ふて居るのであるから、
仮令賊名を着ても最後迄現位置に残る、
解散されれば私一個としても不信の徒を、機関説思想を、洗ひ清め
不純勢力を退却せしむる事が出来、斯くて皇国の維新に前進することが出来ると思ふ。
然るに軍の首脳部には、吾々を解散させる処置のみ汲々として、
維新に入ると言ふ事を考へて居ないのではないかと話し、
司令官、石原大佐に申上げて頂きたいと御願しました。
暫らくしてから石原大佐、満井中佐が入座し、両人で私の手を取り、
石原大佐は司令官に具申したが採用されず、
奉勅命令は一度出したら之は実行しない訳には行かぬ、
御上を欺くことになると言ふ司令官の断乎たる決心であるから、とても動かせない、
男と男の腹であるから維新に入るから暫く引け、と言ふ事でありました。
私共の同志は、私が指揮者でもありませんので、
私が言っても聞かないものがあるかも知れない、
然し 私は私の出来る丈けの事は御尽しする、 それから解散されたならば、
私は一人でも未だ残って居る国体反逆者、不臣の徒に対して突入する決心である、
軍部に於て林大将閣下の居らるる事は御国の為に忍ぶ事能はざる事である、
と 答へ、解りました。 それから陸相官邸に帰りました。

官邸に香田、村中、栗原、野中等、山下閣下、鈴木大佐殿が居られました。
私は奉勅命令斬らうと考へて居ます。 其夜は鉄相官邸に泊りました。

私は二十九日の夜明に、ラジオで奉勅命令を聞きました。
其時は鉄道大臣の官邸の所を歩いている時でありました。
そこで首相官邸に参り、栗原中に対し、
「 君は如何に考へるか 」と 申したら、
栗原は兵を残すことによつて維新が出来るのであり、
中には可愛そうな兵も居るから此儘殺す事も忍びないと云ひました。
それで私も其決心を採る、君は第一線に連絡して呉れ、
僕も連絡するからとて別れました。
それから官邸の方へ帰る途中、坂井中尉等に会ひました。
坂井は奉勅命令には従ひ、部隊を解散する。
私は其決心を採ったのであるから、他の所はどうであらうと私はそうすると申しました。
それからも安藤の処へ行かうとして、其途中(農林大臣官邸附近)栗原に会ひましたら、
栗原は野中、香田、村中、坂井、渋川は 奉勅命令に従ひ行動する事に決まったと言ひましたので、
私は栗原と共に山王ホテルの安藤の処に説きに行きました。
安藤の処で、奉勅命令があつた以上撤退すべきである旨を説きたるも、
安藤は 「 貴様は始めの決心が変っている 」 とて叱られました。
然し安藤に対し懇々申上げて射る内に、安藤も少し考へさせて呉れと暫らく休んで居った。
其後暫らくして、
「 俺は負ける事は嫌だ、奉勅命令に遵ふから包囲を解け、
それでなければ賊名を着せられる丈だ 」
との意味の事を申しました。 
それで石原大佐の処に誰かが連絡したものと見ゆる。
歩兵少佐参謀が石原大佐の代理と称し来り、
「 今となつては、脱出するか、自決するか、二つに一つだ 」
と言ひました。
安藤は之を聞き、愈々賊名を着せられたと思ったのであらう。

私、村中、田中とは陸相官邸に行ってから直ちに小室に入れられました。
室の外で機関銃の音がした様に感じました。
私は安藤は最後の決戦をして居るのではないかと思った。
愈々維新を真に願って居る同志の将校の気持ちを解かず、
安藤の如き純一無垢の人をば、
大御心を蔽ひ奉る幕僚の群衆が群り来て殺すのかと思ひ、
皇国維新の為に涙を禁ずることが出来ませんでした。
又陸相官邸内でピストルの音が聞えた様に感じました。
誰か同志が自決か銃殺されたのではないかと思ひました。
こんな事では皇国の維新は汝の日に来るのかと思ひ、 胸が避ける様でありました。

夕刻になり刑務所に送られました。
自動車の中で、安田少尉から 誰か自決をせまられて非常に叱られておつたと聞、
更に更に幕僚に対する義憤に燃えました。

・・・
磯部浅一の四日間 1 


「 我等義勇軍は今迄包囲されているので外に出られない、
しかし包囲している外に全国民という味方が見守っている。
若し包囲軍が我等を攻撃すれば国民はデモを各所で起すに決まっている。
だから我々は必ず勝つのだ 」
大尉の話は悲壮感がこもっていた。
・・・28日夕方、文相官邸で、
機関銃隊、十一、
歩三の一部を集めて涙ながらの演説


2月28日午後11時5分の記録には、
追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が
天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、
「 何故(なぜ)ニ貴官ノ方ノ軍隊ハ出動せんヤ 」 と問い、
天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
「 本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり 」
「 近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり 」
決起部隊の首謀者の一人、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

磯部の2期先輩 ( 36期 ) で、親しい間柄だった山下。
山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。
追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
磯部  「 何故に貴官の軍隊は出動したのか 」
山下  「 命令により出動した 」
山下  「 貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか 」
磯部  「 空中に向けて射撃するつもりだ 」
山下  「 我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか 」
磯部  「 断じて反撃する決心だ 」
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。
しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。
山下は説得を続けるものの、二人の溝は次第に深まっていく。
山下  「 我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか 」
磯部  「 本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず 」
もはやこれまでと悟った山下。
ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。
・・・私の想い、二 ・二六事件 『 昭和維新は大御心に副はず 』 

廿九日 午前三、四時頃、
鈴木少尉が奉勅命令が下ったらしいと伝へる。
室外に出てラジオを聞く。
明瞭に聴きとる事が出来ぬ。
この頃 斥候らしい者が出没するとの報告を受けたが、
攻撃を受け、戦闘に なりはしないだらふとたかをくくる。
理由は余の正面は、近四、山下大尉だ。
大尉は昨夜来訪し、決して射撃はしない、
皇軍同志が射ち合ひすることは 如何に上官から命令があつても出来ない、
との旨を述べて去った。
余と山下大尉とは近四時代親しくしていたから、
誠実一徹の大尉の人格を熟知し、その言を信じていたのだ。
夜の明け放たれんとする頃、
いよいよ奉勅命令が下って攻撃をするらしいとの報告を下士、兵から受ける。
各所、戦車の轟音猛烈、下士官、兵の間に甚だしく動揺の色がある。

・・・
行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

電話の借用を申し込むと、私はわななく手で農林大臣官邸を呼び出した。
兵隊が出てすぐ磯部に代わった。
受話器の中には悲壮な軍歌がきこえて来る。
「 磯部!宇多だ 」
あれもいおう、これもいおうと思いながら不覚にも、私はまた涙声になってしまった。
磯部の太い男らしい声が応じた。
「 宇多 !  きさまどうする?」
簡単な一語だが、意味はすぐわかった。
私に来るか、来ないかということである。
来いといったって行けるはずがないじゃないか。
蹶起の趣旨は十分にも百分にもわかるが、オレはこの直接行動には賛成じゃないんだ。
声にならぬ声を押しつぶすように私は、
「 勅令が下ったんだ。すでに討伐行動は開始されている。
貴様死んでくれ、断じて撃つな!皇軍相撃を避けてくれ、死んでくれ!」
と必死の思いを一気に告げた。
磯部は、
「 オレの方からは撃たん、だが、撃って来たら撃つぞ!
貴様も防長征伐の歴史は知っちょるじゃろうが?」
きりこむような声で怒鳴り返して来た。
そして奉勅命令は自分らにはまだ示されていない。
お上の聖明をおおい奉った幕僚どもの策動だ、
と  私に一語をさしはさむ余地も与えずに防長征伐の歴史をとうとうと説きだした。
ずいぶん長い時間に感ぜられた。
やがて磯部は声を落として、いく分冷静な口調になり、
「貴様のいうことはわかった。ところでオレの方から頼みがある。
オレの隷下にはいま七個中隊いる。 勝っても負けても今晩が最後だ。
どうせ金は陸軍省が払うんだ。
この七個中隊に今晩最後の四斗だるを一本あてやりたいんだ。
きさま輜重兵じゃないか、持って来てくれ・・・」
と いやおういわさぬ調子で申し込んで来た。
そのころ私はもう不思議に冷静な気持ちになっていた。
頭の中をしきりに "小節の信義" という勅諭のくだりが往来する。
・・・おぼろげなることを、かりそめにうべないで由なき関係を結び・・・
というあの一章である。
理性はハッキリ磯部の申し込みを断れと命ずるのである。
だが、私の頭脳感情は反対に働いた。
いそがしく財布の中を調べてみた。
ある、四斗だる七本分くらいの金は、香港から返ったばかりでまだ持っている。
「 よし、持って行こう 」
私は成敗を度外視して持って行く決心をきめた。
そして官邸で磯部に会い、 もう一度皇軍相撃を諫止しよう。
オレも死ぬんだと思い定めた。
磯部は私の返事をきくと、
「 ありがたいぞ、しかし今となってはダメかも知れんナ
・・・・宇多、きさまと握手がしたいのう・・・」
と 涙声になって電話を切った。
後はもう書きたくない。
私は挙動不審で憲兵に捕らえられ、ついに磯部の依頼を果たし得なかった。
二月二十九日のあけがたのことである。
磯部、安藤!このオレを嗤ってくれ。

・・・
磯部浅一 「 宇多! きさまどうする?」  


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