あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯

2018年05月22日 14時55分21秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


満井佐吉 
相澤中佐公判の特別辯護人となりたる經緯に就いて申上げます。
相澤中佐同期生よりの依頼に依り起ったのでありますが、
當時私の心境は、
近來 軍中央幕僚と靑年將校との間、
竝 靑年將校中所謂皇道派と稱せらるゝものと
「 ファッショ 」 派 と 稱せらるゝものとが互いに感情的對立を持ち、
軍の精神的結束を困難ならしめつつあるを憂慮せられ、
偶々 私は所謂皇道派の靑年將校とは比較的意思疎通可能なるに依り、
彼等靑年將校と 「 ファッショ 」 派将將との感情の疎隔を緩和し、
對立観念を除去し、軍幕僚と靑年將校との感情をも融和せしめんことを欲し、
之等の爲、
重要人物たる石原大佐 (幕僚方面)、橋本大佐 (ファッショ派) と 屡々意思の疎通を計り、
全軍一致して、時勢に善處するの必要を力説し、
蔭ながら軍の結束に關し貢献しつつありました折柄、
相澤中佐の同期生たる赤鹿中佐(士官學校)、牛島中佐(士官學校豫科) 外二名(氏名不詳)
の人より、特別辯護人たるべき交渉がありました。
最初來訪の時は私が留守であつたので、再び來訪せられて、
私に對し、
「 同期生中には種々の立場上及其他に依り適任者なき爲、特別辯護人に是非起って貰ひたい。
 鈴木貞一大佐は、永田閣下の部下なるが故に辭退せられ、
中央部には村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等が居られるが、
中央部で立場が惡いからとのことであり、
又、聯隊附將校には中央の事情を認識するものがないので、是非引受けて貰ひたい 」
との交渉があり、困っておられましたので、
私は個人としては上司に於て許可があれば出てもよいと申しました処、
同期生から、陸大幹事岡部少將は、其時は許可せられない様な口吻を漏らされ
「 考へて置く 」 とのことでありましたので、參考迄にと思ひ、
私より 次の様な許可の可否に關し意見を申述べました。
「 若し相澤中佐の特別辯護人を受諾するならば、
一、目下靑年將校同志の間に、互に實力行動に出づるが如きことは絶對に避けたい。
二、軍裏面の歴史的な旧事実、例へば十月事件、三月事件等、相澤事件と直接關係の
   少なきものは、成るべく必要最小限度に言及することに依り、軍内に騒動を起さざる様に努めたい。
三、靑年將校の氣心も、軍中央部幕僚の立場も、克く心得て居るから、
   兩者の立場を無視して、正面衝突をせしむる如きことは避ける。
之を要するに、
相澤公判は一歩を誤れば軍を破壊に導く虞れ多きを以て、
私が起てば靑年將校も成程に信頼してくれるであらうし、
又、軍全體の爲を考へるから或は事なく公判を終了するかも知れない。
之に反して隊附靑年將校中より起てば、軍中央部の立場を理解せざるを以て、
感情的となる虞あり、其の結果は事件を巻き起すやも知れない。
寧ろ、私が起った方が靑年將校も穏便に濟むかと思ひます。」
との意味を具申しました処、
岡部幹事は、其の心持ちは自分も克く判ると申されました。
それから約一週間位經ってから、岡部幹事より口頭を以て御許しを受けました。
其間に幹事は參謀本部、陸軍省と交渉せられたものと思ひます。
以上のような經緯で引受けたのであります。

私が相澤中佐の特別辯護人を引受けましてから、
赤鹿中佐、牛島中佐より、
公判に関して龜川哲也より手續他法理的のことの援助を受ける様にとのことでありました。
龜川哲也は荒木大將閣下を顧問とする農道會の主任であり、
法律、經濟方面に詳しき人物で、會計檢査院に長く居た人であり、
荒木大將の陸相當時、私が陸軍省調査班に居た頃、
農村問題にて意見の交換をしたることがありまして、
同氏と公判手續其他に付いて互に一、二度往來しましたが、
私としましては龜川氏に公判の全部の指導を受ける意思はありませんでしたので、
五 ・一五事件の辯護人であつた菅原祐は日本精神の主張者であり、
平泉博士と親交り、此の人に法律上其他、辯護士に關する指導を受くることゝしました。
爾來相澤中佐に面會し、
手續及辯護に關する材料の蒐集其他公判の研究に入り、
其頃より村中、磯部とも面會し、
尚 公判開始前、陸大岡部少將に、陸相以下幕僚に私の意見を申上げ、
軍の実情を収拾せらるゝ必要あることを進言し、
其の結果、公判開始前四日程前に開かるゝ処、行違ひにて不能となり、
公判開始前日陸軍省にて大臣、次官、參謀次長、軍務局長、調査部長、軍事課長に對し、
軍の実情容易ならざるものあることを申述べ、実情と相俟って公判を進めざれば危険なり、
故に参議官会議を本日即刻開き、私の意見を聞かるる必要あるを申上げたるも、
遂に容れられることなく公判開始となつたのであります。

次に
私と靑年將校との關係に就て申上げます。
私が久留米歩兵第48聯隊大隊長より陸軍省調査班に轉出せる頃、
調査班に私を訪ねて昭和維新を慫慂せる將校に天野大尉(當時士官學校)、
常岡大尉 ( 広嶋電信隊陸地測量部修技生 ) あり、
當時磯部主計も亦來訪したることがあります。
當時調査部長東条少將は私に將校の動靜に注意して居る様に申されたこともありますので、
私は時々天野大尉、常岡大尉の自宅及磯部主計の下宿を訪ねて其の動靜に注意すると共に、
其の行動を誤らしめざる如く着意し、
村中大尉、栗原中尉とも、磯部主計の下宿で、一、二度會ったこともありました。

當時天野大尉、常岡大尉は十月事件組にて、
其の主張は理論よりも實行主義にして稍矯激の嫌ありしが、
磯部、村中等は十月事件當時の自重派にして、
其の主張は堅實に軍首脳部を信頼して上下一致維新に向ふことを目標とし、
逐次斯かる空氣の擴大を希望しありたるが如く見受けられ、
當時の陸相荒木大將に對し、常岡大尉、天野大尉等は
「 荒木爲す無し 」 との感を抱き、
東條少將、池田純久中佐、田中清少佐、片倉少佐の軍中央幕僚亦
反荒木的氣勢を示しありしが、
磯部、村中等は
國體信念を有し且つ維新氣分を有する時の長官たる荒木陸相に信頼して
上下結束して進むことを希望しありしが如く、
又、私の信念は軍の組織の本質に鑑み、
時の大臣を排撃し、実力行動を慫慂するが如き 天野、常岡両大尉等の思想には同意する能はず、
又、當時陸相を更迭せんと企圖せる如き軍中央幕僚の政治的態度にも同意し難く、
時の長官に信頼し、
全軍上下結束して進まんとする磯部、村中等の主張に比較的多く眞理の存するを認め、
此の点に關しては共鳴しましたが、
何れの色彩の靑年將校に對しても、實力行動を是認し又慫慂したことは無く、
常に之を否認し自重を促すの態度を持し、
天野、常岡等の思想に對しては特に反對の意圖を主張し、
當時著しく半荒木的なりし軍幕僚竝に天野、常岡等十月事件組の靑年將校は、
私の態度をみて荒木派なりと誤認し、露骨に反對を表明し、
當時無根の事實を怪文書として私を攻撃せるものすら出でたることがありました。

私が陸軍大學に轉任するに及び、是等靑年將校との面接の機なかりしが、
所謂十一月事件の發生を見て靑年將校等憤激し、肅軍パンフレットの筆禍に依り、
村中大尉等突然免官となるに及び、
村中退校に關する大學幹事の注意に見ても、
軍中央部の處置は必ずしも公正ならざるを感じ、も村中に同情し、
一度村中大尉を其の自宅に訪ね、慰撫して自重を促したることがありました。
續いて永田事件の公判迫るに及び、前述の如く相澤中佐の特別辯護人を受諾後、
村中は自宅に二回位、又、辯護人控室に來訪し、辯護に關し希望を述べ、
或は私より材料の蒐集を託したこともありました。

尚、手續等を中心とし
村中、磯部、栗原、香田、其他二、三名の將校及相澤中佐の同期生等の希望に依り、
昨年末一夕新宿本郷バーに集りて座談せることありしも、
實力行動等の話は全然ありませんでした。

永田事件の公判は、其の原因動機の性質上及び軍全體の實情のわだかまり上、
之が取扱に注意を要するのみならず、
軍首脳部に於ても軍の實情収拾に關し大いに注意を要するものもあるを認め、
公判開始前日、陸相、參謀次長、陸軍次官、軍務局長等に引見せられ、
忌憚なき意見を述べたるも、遂に容れられるに至らず。

公判中、村中は一、二回自宅及辯護人控室に來りたることあるも、私は其都度、
合法的に公判を成功せしむる確信あるを以て自分を信頼し、斷じて情況を悲観し、
思ひ詰むる等のことなき様と自重を促したるが、
當時、村中等には特に不穏の計畫等を爲しつつあるが如き態度は認めませんでした。

公判は漸次順調に進み、好結果を示し居り、又、中間に於て公開禁止續きたる爲、
公判の中頃以來は暫らく村中の來訪なく、
又、兵力迄も使用して實力行動に出ずるが如きことあるべしと全く考へず、
油斷し居るたるが、二月二十六日突如本事件を見るに至り、私の主義に反し、
辯護人として出たる甲斐なく、誠に遺憾に堪へざる処であります。

本事件突發前日二十五日に證人申請しましたことは、
私は次回に申請する希望でありましたが、裁判長より是非今日との事で、急遽鵜澤辯護人
と相談の上證人を申請し、其の理由を述べたのであります。

對馬中尉とは、同中尉が陸大受験に來りし際、私を訪問したるが、
其時試験に關することに就ては、應接することは出來ざる旨告げたるも、
敬意を表したしとのことにて面會したる外、特殊の關係はありません。

澁川善助とは、私が九州に在りし頃、九州の愛國運動者たる靑年と澁川とが同志的交友ある
關係上、二、三年前私宅を訪れたること二、三回あり、
公判開始後は相澤中佐の家族傍聽券にて數回傍聽し、
又、辯護の資料たるパンフレット等の蒐集を依頼する等、三、四回面會したることもあるも、
澁川は佛教家の如く、甚しく慈悲心ある靑年と観察して居りまして、
今事件の如き實力行動に出づるが如きことありとは全然見受けませんでした。


この記事についてブログを書く
« 佐々木二郎大尉の相澤中佐事件 | トップ | 犯人は某中佐 »