あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 『 國民の苦境を救うものは大御心だけだ 』

2017年12月11日 09時59分32秒 | 磯部淺一

 
磯部淺一 

磯部淺一は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河村 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
のち獄中日記に彼が「菱海」と号したのは、この生れ故郷の寒村の名をとったものである。
農家といっても、農業で暮らしをたてていたわけではない。父の仁三郎は左官であった。
その頃の菱海村は貧しい農漁村で、家わ新築したり、改造する人はごく稀れであった。
そのために仁三郎は遠くの町に出稼ぎに行き、家には殆んど居なかった。
家には二反(二〇アール)あまりの水田と、
山林と畑合わせてこれも二反あまりの土地があり母親のハツが一人で耕し、
作った野菜を近くの塩田の労働者たちに売って、暮らしの足しにしていた。
磯部淺一はこうした家庭に育った。

彼は物心ついた時から、母一人子一人の生活が多く、
朝から晩までまっ黒になって働く母親を見ているだけに、子供の時から親思いで働き者であった。
浅一は学校から帰ると、さっさと野良着に着かえて、畑仕事を手伝ったり、
野菜を母と二人で浜まで売りにいったりした。

磯部淺一の竹馬の友であり今も磯部の生家の近くで農業を営んでいる下瀬諒は、
少年の頃の磯部を追想してこう語っている。
「私は磯部より一級下であったが、家が近くだったので兄弟のようにして育った。
学校はごく近く(五百メートル位)だったので昼食はいつも食べに家に帰る。
二人は朝昼は一緒に歩いた。
磯部は頑丈な身体つきの元気者で、激しい気性の男であったが、
幼少な者や老人にはいたって親切であった。
しかし、大人の無理や非道に対しては、強く反撥した。
ふだんはニコニコしていて、まひとに明朗闊達であったから、先生にも友達にも好かれていた」
済美小学校では一年からずっと主席で通し、明治四十五年三月尋常小学校を卒業する時は、
当時としては例のない山口県知事の特別表彰を受けている。
それは学業が優れているばかりでなく親思いで、よく母親の仕事わ手伝い自分も野菜を作って売り、
一家の生計を助けた類いまれな孝行少年であるという理由からであった。

磯部の噂さを耳にした厚狭郡厚狭町(現山陽町)の、山口県属の松岡某(名不詳)が、
是非磯部少年を自分の力で世に出したい。  (松岡喜二郎)
自分に任せてくれまいかと申し出てきた。
松岡の夫人が菱海村の西光寺の娘であったので、
西光寺の住職が返事を渋る仁三郎夫妻を説得したと謂われる。
松岡家に引きとられた磯部は、厚狭町の大殿高等小学校に入り、ここでも抜群の成績を示した。
松岡家は代々長州藩士で、老父は古武士的な気風の人であったが磯部を一目で惚れこんだ。
頑健な身体と優秀な成績、少年ながらも気魄も闘志も充分である。
しかも、平素は明朗闊達、生まれながらの将器である。
ぜひ陸軍に入れと、熱心にすすめた。
その頃、山口県下の退役将校の親睦団体に「同裳会」という組織があった。
明治の末頃、山形有朋の主唱と毛利家からの援助で作られ、
この会によって、山口市伊勢小路に「山口県武学生養成所」が建てられた。
これは防長二州から軍人志望(主として陸軍)の優秀な少年を、軍関係の学校に入れ、
大いに後進を増強しようというものであった。
磯部もこの武学生養成所の指導を受け、
高等小学校二年の春、受験して合格、大正八年九月一日広島陸軍地方幼年学校に入校した。
磯部は幼年学校へ入った後も休暇で家に帰ると、すぐ野良着に着かえ終日まっ黒になって働いた。
「まだその頃は封建色が強く、田舎は因習にしばられていた。
貧乏人のくせに将校生徒になりおってという羨望と嫉妬のまざりあった目で磯部は世間から見られていた。
磯部はそんな世間の冷たい目を意識していたのだろう。
広島から休暇で帰る時は、人の通らない山道を歩いて家にこっそり帰る。帰るとすぐ、
つぎはぎだらけの野良着に着かえ、母を助けて畑仕事に精を出していた」・・・下瀬諒談
社会の一番下積みの階層に育ち、たえず自分わ殺し続けてきた磯部も、
広い世間に出てみると無能な奴やくだらない人間が、富や地位を得て威張っている。
磯部はそんな世の中の不条理に激しい怒りを感じ、やがて、権力者への反撥となる。
陸軍士官学校の予科に入ったばかりの頃、磯部はある日、
日曜下宿で山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ、「 この軍閥野郎 」 と叫んだいたという。
「 男にしかできないのは、戦争と革命だ、おれは革命のほうをやる 」 と、高言していたという。
ここには少年の日の磯部の面影は全くない。
まるで山口版の二宮金次郎のようであった。
篤学で孝心のあつい勤勉な少年が、どうしてこんなに急に変貌したのか。
少年時代に抑圧されていた批判精神が、
社会の矛盾や不条理に触発されて激しい反逆精神となり、一気に燃え上がったものとみえる。
しかし、磯部の陸士在学中の反逆精神は、まだ心情的で深みをもったものではなかった。
磯部がはっきりと国家改造に志を定めたのは、朝鮮に赴任してからであり、
更に思想的に展開したのは、昭和七年六月上京して西田税の家に出入りし、西田の影響を受けてからである。
磯部は大正十五年七月、陸軍士官学校を卒業して、原隊の大邱歩兵第八十連隊に帰り十月に任官した。
任官直後大田分遺隊付を命ぜられて、大田に赴任する。
磯部はここに四年あまり居て、昭和五年大邱の本体に帰っている。
磯部が国家改造に志を定めるのは、この大田の四年あまりの時代であったと思う。
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少尉任官記念            歩兵第八十太田分屯隊営門
大正十五年十一月

料亭  『 荒川 』 別荘
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「・・・大田の料亭 「 あらかわ 」 で酒をくみ交わしながら磯部はこんなことを言った。
財閥、特権階級、それに政党は国家に害毒を流し、国民を苦しめている。
われわれ若い者が起ち上がって、こいつらの息の根をとめねばならん。
日本では昔から下級武士が革命をやっている。
源頼朝は武家政治を開いたが、下積みの田舎武士だった。
建武中興の楠正成もそうだ。
明治維新も薩摩や長州の下級武士の力で成った。
昭和の維新は、俺たち下級将校の力でやらねばならん。
そして、天皇陛下の大御心による仁慈の政治をとり返さねばならん。
この国民の苦境を救うものは、もはや陛下の大御心だけだ
と、磯部は涙を流しながら語った。
その言葉は今でも耳の底に残っている 」
と、下瀬は述懐する。

ある夕方、大体本部から、むっつりした顔で戻ってきた磯部は 
「 おい、呑みに行こう 」 というので、「 あら川 」 に行って、二人で痛飲した。
あくる朝、大隊副官が将校官舎にやってきて、
「 磯部、大隊長の所へ謝りに行け 」 と言う。
磯部は
「 自分は謝る理由がないから謝りません。処罰するなら勝手にして下さい 」
と、きっぱり断った。
わけを聞くとこうである。
大隊長の矢野少佐が磯部の部下の特務曹長に、あらぬ濡れ衣をきせて退役するように迫った。
特務曹長は口惜しさを磯部にもらした。
激怒した磯部は大隊長を面詰し、その不当なことを事例をあげて痛論した。
大隊長もやり返す、あげくの果て、磯部は大隊長を一つ二つ殴って帰ったというのである。
あとで特務曹長の冤罪を知った矢野大隊長は
「 磯部、よく殴ってくれた 」 と、手を握って礼を言ったという。
磯部という男はこんな男であった。
荒武者だったが、清廉潔白という字義通りの男で、何よりも不義、不正の許せない性格であった。
国家、国民のためならいつでも生命を捧げる気持ちでいた。
二・二六事件にはいろいろな批判のあることは知っているが、
磯部が起った気持ちは、天下万民のために起つ、止むに止まれぬ赤誠心であったと、私は信ずる。
・・・・
磯部淺一の登場
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


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