あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 12時07分05秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

西田税の墓

昭和五十六年六月、山陰旅行を機に米子の西田税氏の墓所を訪れた。
松江の湘南学園、岡崎功氏と同行し、
税氏の姪、西田真理子さんの案内で法勝寺境内の西田家墓所に立った。
「 西田家之墓 」 他二つの墓石のある墓所の中央に、
五寸角の木標が建っていて、それが税氏の墓標であった。
意外であった。
四十五年を経た今日、既に半ばくちけた木の墓標の下に眠る仮葬の姿に、
理解し難い複雑な心境で、花たてもない漂前を清めて生花を供えた。
墓標の正面には
「 義光院機猷ゆう税堂居士 」
と 書かれ、
左側面に
「 昭和十一年二月二十六日東京事件ニ連座、尊皇義軍ノ首魁トシテ殉職 」
と あり、
右側正面には、
「 昭和十二年八月十九日旧七月七日、没、俗名 西田税、行年三十七歳 」
と 書かれてあるが、
既に十年余を経たと思われる墓標の姿には 涙をさそった。
真横に建つ 「 西田家之墓 」 には、「西田税建之 」 と 刻まれている。
自分が建立した西田家の墓に入れず、
今だに仮の姿で眠る税氏を思い、
岡崎氏と淋しく目を見合わせたことであった。

西田家は古くから寺の下通りの博労町に仏具店を営んだ家で、
税氏が軍人となったあとの家業は弟が継いで盛業していた。
戦後弟夫妻の没後は娘、真理子さんが、
高校の先生の傍ら現在でも続けられている仏具店である。
この米子の弟一家と税氏の関係は複雑であったようだ。
税氏が軍人となって故郷を去ってから、
病気のため陸軍少尉で退官し東京へ出て北一輝に師事し維新運動に挺身し、
幾つかの事件にも関与し、
この間に結ばれた初子夫人との生活は、古い商家の米子の本家とは、
あまりにかけ離れたものであつたと思う。
かくて、初子夫人も米子の土地を踏まず、
税夫妻と米子の本家との間は円滑でなかったようだ。
こうしたことが税氏の死後四十五年の今日、
なお目前にする墓標であるとすれば、
故人の冥福いつの日かと断腸の思いを残して辞した。

松江に帰る車の中で、
岡崎氏は同じ山陰の同志として、
大先輩西田税国士慰霊のために、
あの墓標の文字をそのままに立派なお墓を建てたい、
それは私たちの責任であると情熱を傾けて語られた。
私としても ご遺族の方々にご協力して、
その日の来ることを熱願してやまない。

正真正銘の一心同体であった 税氏夫人初子さんも
五十六年正月、
一人淋しく逝かれた。
しかし遺骨は税氏のもとには帰らなかった。
悲しいことである。
「 西田税之墓 」
建立の日には、
晴れて同穴、
冥福を祈念するものである。

河野司 著 ( 昭和57年 ( 1982年 ) )
ある遺族の二・二六事件  から

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( 五輪塔・・昭和61年 ( 1986年 ) 9月 建立 )
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 


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