村中孝次
村中は私が房前に立つと、
突如 「 私らは負けた 」 といった。
しかも元気旺盛で、負け面づらは見えない。
それを冒頭に大いに喋る。
この話の骨子は十一月事件で入所した時も聞いたのであった。
その話の要旨は、
「 勝方法としては上部工作などの面倒を避け、襲撃直後すかさず血刀を提げて宮中に參内し、
畏れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。
陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、重臣らにおはかりになるかも知れない、
いわゆる御前會議を經ることになれば、成果はどうなるか分からないが、
そのような手續きを取らずに、おそらく御許しを得て奏功確實を信じていた。
この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、
氣でも狂ったら別だが、至尊鞏要の言葉が怖ろしい。
たとへ 御許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、勝利はこちらにあったと思う。
飛電により全國の軍人、民間同志が續々と上京するはずだ。
しかし、今考えて見れば銃殺のケイ よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。
北先生からも 『 上を鞏要し奉ることは絶對にいけない 』 と聞かされていた。
この方法で勝っても、その一歩先に、陛下のために國家のために起ったその忠誠が零になるわけだ、
矢張り負けて良かったとも考えている 」
と 慨然として嘆聲を洩らす。
「 勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり 」
…東京陸軍刑務所所長 塚本定吉 「 二・二六事件 軍獄秘話 」 から