村中孝次
昭和三年 ( 1928年 )、村中(25才) は中尉に進級し、陸軍士官学校予科区隊長となる。
区隊長は生徒訓育の中心で、人格、識見、指導力をもった者が選ばれる。
一区隊は 二十五人で編成される。
安田優、中島莞爾、高橋太郎は村中の教え子である。
安田 優少尉
は 憲兵調書で
「 旭川の原隊に帰っも村中氏とは家族同様の親交をして 今迄来たのでありますが
それ等終始交際して居る内に
村中氏は私情を投て凡て 君国に殉するの精神に甦って行動して居らるることに
非情に感奮したのです。
然し 一度も国家改造の事は村中氏より聞いたことは有りません。
但し 其の親交中の無言の内に愛国の士であることが判り 無言の感化共鳴し
全く此の愛国の至情には一つの疑念なく
凡てに於て 共に行動出来るものと確信したのであります 」
と 答えている
中島莞爾 少尉
は 憲兵調書で
「 村中氏とは予科の時は他の区隊長であったから種々の動作を見聞し
立派な人だと考えていました
即ち 武人的の人と考えていましたが その後 次第に親しくなって来て
私と同じ信念を持って居る人であるとし
先輩として敬して居りました 」
と 答えている
・
三岡健次郎氏
は 平成三年 ( 1991年 ) の夏、
六十年前の記憶を こう 語った
「 私が陸士の生徒のとき、
学校では毎日生徒に日記を書かせて区隊長に提出させていましたが、
ある日 私は村中さんに呼ばれました。
私は和歌山の貧農の子で
幼い時からその頃の日本の矛盾を何となく肌に沁みるように感じていました。
年を重ねるにつれて そのことが意識として形づくられるようになりましたが、
村中さんは日記に書いている私の考えを聞き
最後に
『 そりじゃ一体、今の日本をどうすればいいと思うか 』
と 言いました。
村中さんは静かに頷いていましたが
『 よし、お前の考えは分った。 しかし そりは自分の胸にだけしまっておけ。
他人には話すな。 ただ、俺に見せる日記にだけは本当のことを書け、
どんなことでもいい、お前の思っていることを正直に書け 』
と 言われました。
𠮟られるとばかり思っていた私は、茫然と村中さんを見返しました。
村中さんは 心底から敬服できる立派な方だと思いました。
和歌山で生まれた私が、なぜ北海道を原隊として選んだかというと、
村中さんに 『 北海道は俺の故郷だ。お前行ってみないか 』
と 言われたからです。
村中さんの言うことに素直に従っていけるほど信頼の出来る方でした。
陸士を良い成績で終えた多くの者が東京近在か、
自分の出身地の部隊を希望していたときですから、
私は変わり者としてみられたかもしれません 」
・
武藤与一氏
十一月二十日事件の陸軍士官候補生
は
「 私は貧乏農家の出ですが、将来軍人になって世に出ようとして陸士を志願したのです。
村中さんとの出会いは 予科へ入ってすぐ、
週番士官の村中さんから訓示を受けたときです。
『 お前らは将来軍人になって偉くなりたいと思っているかもしらんが、
陸軍士官学校はそんな人間をつくるところではない 』
と 言われたとき、
私はそれまでの自分の考えを恥ずかしく思いました。
それから私は 一人で村中さんのお宅を訪ねるようになりましたが、
村中さんは農村の疲弊に義憤を感じておられました。
だが、ともすれば過激なことを口走る私をたしなめるのは村中さんの方でした。
とにかく村中さんは温かく、静かに諄々と私たちを訓すという方でした。
二・二六事件に関わった何人かの人を知っていますが、
それぞれ信念をお持ちの方々ですけど、特に村中さんと安藤 ( 輝三 ) さんは
心底 敬服できる立派な人でした 」
と 追慕した。 ・・・リンク→候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」
・・・平澤是曠 著 叛徒 から