あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

皇国維新法案 『 これは一体誰が印刷したんだ 』

2021年11月06日 05時41分05秒 | 澁川善助


末松太平と 澁川善助
昭和九年
歩兵第五聯隊のテニスコートで

昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』
« 末松太平大尉もこの宴に居た » 
の 続き

夜の白々と明けそめたころ、私は澁川と中村義明の家を出て、西田の家に向かった。
・・・ともかく年末年始にかけては、あと二ヵ月あとに、あれだけの大騒動がもちあがる気配はなに一つなかった。
中村義明のうちでの大岸大尉は、酔って悪たれをついているだけだった。
西田税のうちでは、蒙古王子の嫁探しのことで話に花を咲かしているだけだった。
澁川とは、西田税のうちを出たあと、
一緒に知人のうちより、しばらく話し合ったが、これも蹶起の話はでなかった。
このとき澁川と話し合ったことの第一は、この相澤事件の公判のことだった。
澁川は特別弁護人には満井佐吉中佐を頼んだといっていた。
はじめ石原莞爾大佐に頼んだ。
石原大佐は 「 大いにやってやる 」 と張り切っていたが、途中で難色を示した。
そこで富永良男中佐と思ったが、富永中佐は無天だから保留して、
やはり参謀懸章を吊った天保銭がよかろうと、満井中佐にしたといっていた。
満井中佐については私は、前に記したように十一月二十日事件のころの宝亭の会合のあと、
中佐を私宅に訪ねて、二時間蹶起計画の放言を聞かされた不愉快な記憶があるので、
一考を要する人選であると反対しておいた。
・・・リンク→ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」  
・・・相澤中佐公判 ・ 西田税、渋川善助の戦略
・・・満井佐吉中佐 ・ 特別弁護人に至る経緯 

第二は天皇機関説問題だった。・・・リンク → 国体明徴と天皇機関説問題
澁川はこれについて、
「 実は北さんの 『 国体論及び純正社会主義 』 が、天皇機関説なんだ。 
 それでおれは北さんにただしてみた。
が、北さんは、あれは書生っぽのとき書いたものだから、というだけで、てんでとりあわないんだ。」
といって、困った顔をしていた。
が私は別になんとも思わなかった。
澁川にいわれてみれば、なるほど見習士官のころ借りて読んだ 『 国体論及び純正社会主義 』 のなかに、
「 天皇は特権ある国民の一人 」 といったような文句のあったことを憶えている。
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註  ・・・実に国家に対してのみ権利義務を有する国民は
天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。
 即ち等しく天皇の形態と発言あるも、
今日の天皇は国家の特権ある一分子として国家の目的と利益との下に活動する機関の一なり。
・・・( 『 北一輝著作集 』 第一巻  みすず書房版 二一八頁。)
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あんなところを、天皇機関説というのかな、と思っただけだった。
私は 『 国体論及び純正社会主義 』 にかぎらず、北一輝の著書には、どれを読んでも、
その一行々々には感銘するのだが、
一巻読み終わってのあとは、どういうことが書いてあったのか印象のうすいのが常だった。
澁川とちがって私がなんとも思わなかったということは、
北一輝の著書を読みこなすだけの素養を、私が欠いていたということでもあった。

第三は 『 皇国維新法案 』 のことだった。
その時期を澁川が、十月ごろといったか、この年末年始のころといったか、記憶はあいまいだが、
ともかくそのいずれかのころ、西田税がどこで手にいれたか、『 皇国維新法案 』 を一冊澁川の前につきつけ、
これは一体誰が印刷したんだといって、えらい剣幕で詰よったという。
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「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
 それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、ヘエ、そんなものかなあ、と意外に思った。
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私はそれまで 『 皇国維新法案 』 が、
西田税の目に一度もふれていなかったことを不思議に思うと同時に、
西田税のこれをみての激怒を以外に思った。
私が満洲から帰ってはじめて知った 『 日本改造法案大綱 』 をめぐっての、
東京の西田税と和歌山の大岸大尉との間の確執は、
このときになっても、まだちっともやわらいでいないわけだった。
私が満洲から帰ってすぐ和歌山に大岸大尉を訪ねたとき、
大岸大尉は 『 皇国維新法案 』 の草稿を示しながら、
『 日本改造法案大綱 』 には、骨が粉になっても妥協できない三点があるといっていたが、
それはどういう点だったのか。
『 皇魂 』 に影響を与えていた遠藤友四郎は
『 日本改造法案大綱 』 を、しばしば 「 赤化大憲章 」 と表現していた。
一方には磯部浅一のように、
『 日本改造法案大綱 』 に誤りなし---で一点一画も改変をゆるさないという金科玉条組がいた。
西田税もまた、この金科玉条組に衛られて牙城にたてこもり、一木一石も絶対に動かすべからずと、
それに固守しようとするのだろうか。・・・リンク →
改造方案は金科玉条なのか 
前にもちょっとふれてあるように、もちろんこの間の調節も、なんどかくわだてられている。
このため双方の関係者があつまって、直心道場で数回協議したこともあるようである。
それがとりあえず、直心道場で発刊され、必ずしもそうでなかったのだが、
西田系と目されている 『 核心 』 と、大岸、中村系の 『 皇魂 』 が連繋を密にし、
それぞれの分担をきめて文書活動を統一しようとする形に、あらわれようともした。
しかしこういったくわだても関係者の熱意にもかかわらず、
いろいろ事情があって残念ながら不調に終わったようである。
・・・リンク → 『 二つの皇道派 』 

二 ・二六事件がおこったことによって、こういったことも幾たびか夏草が茂っては枯れ、枯れては茂っているうちに、
つわものどもの夢の跡と化してしまったが、
終戦のとき、国務大臣小畑敏四郎を通じて、東久邇内閣に政策上の進言をしていた大岸大尉は、
たえず 『 日本改造法案大綱 』 を座右において参考にしていた。
が、それはすぎてののちのこと。
ともかく西田税と大岸大尉の確執は同時に、双方をとりまく青年将校間の確執だった。
もちろん、それを意識するものも、しないものもいたし、意識していても大局から、
あっさり割切っているものもいた。
が、どこにともなく、この確執はいまわしく潜在していた。
私はこの確執をとかなければ、全国一致の行動は困難だと思った。
二ヵ月あとのことは知らず私は澁川に、東京でどんなことがおこっても、
和歌山との一致した行動でない以上おれは強力しないよ、といった。
澁川は、貴様はそれでいったがいいよ、といった。
が、そのことばには、おれはそうとばかりもいかない、といった裏が読みとれた。
それは己れを殺して他に尽くしてきた澁川らしい響きをつつんだことばだった。
士官学校の優等生だったころの澁川は、
口も八丁、手も八丁、抜群の頭脳と、赤鬼というあだ名どおりの体軀にものをいわして、
時には強引に横車も押しとおした。
あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら、
行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう。
が、それが士官学校を退校させられると同時に変貌しはじめ、
赤鬼は御上人といわれるまでになった。
それには人に知られぬ修養が積まれていたことだろう。
私は一月三日の軍人勅諭奉読式に間に合うように
二日、澁川の見送りをうけて、上野駅から夜行を発った。
澁川と面と向かって話しあえたのはこれが最後になった。

末松太平著  私の昭和史 ( 下 ) --二 ・二六事件異聞
2013年2月25日発行  から


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