あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」

2019年01月18日 13時43分03秒 | 前夜

西田税 
本年二月中旬前後頃忽然トシテ、
今回ノ事件計画ノ決定的ナ動キガ眼前ニ展開シタト云フ有様デアリマシタ。

二月一八日、
西田は不穏な動きをしていると聞いた栗原を自宅に呼びつけて、軽挙妄動を愼むように注意したところ、
初めて事件の計画を知らされて驚いたが、なお抑止に一縷の望みをつなぐ。
しかし、二〇日には、
西田が全幅の信頼を置いていた安藤さえも参加を決意していることを知って絶望する。
説得を断念した西田は、山口大尉らと善後策について協議する。・・・松本一郎

栗原安秀
同日 ( 二月一八日 ) 午後五時頃カ六時頃カニ、
栗原中尉が來宅シマシタ。
私ハ
『 君等ハ、最近ヤルヤルト言ツテ隊内デ露骨ニ不穏ノ行動ヲシテ居ルサウデアルガ、
 引込ガツカナクナツテ困ル様ナ事ニナルノデハナイカ 』
ト云フ趣旨デ山口大尉カラ聞イタ事ヲ注意スルト、
栗原ハ例ノ開放的ナ、輕妙ナ調子デ、
「 今度コソハアナタガ何ト言ツテ止メ様トモ、又誰ガ何トシヤウト、部隊ヲ率イテ蹶起スル。
  如何様ニナルトモ、アナタ達ニハ無關係ダカラ構ハヌデハナイカ 」
ト云フ意味ノコト、
「 我々ガ在京シテ居ツテハ邪魔ニナルノデ、第一師團ヲ満洲ニ派遣スルノダト思フガ、
  我々ガ二年間満洲ニ行ツテ居ル間ニ、重臣ブロックト其ノ周囲ノ者等ハ、
必ズ勢力ヲ盛リ返シテ愈々跳梁スルデアラウカラ、之ヲ黙シテ出發スル事ハ出來ヌ。
相澤公判トカ大本敎檢擧トカ云フガ、我々ハ其ノ様ナ事デハ到底期待スル事ハ出來ヌ 」
ト云フ意味ノコトヲ申シ、襲撃目標及實行計畫ノ概要ヲ話シマシタガ、
私ハ夫レニ對シ約一時間計リヲ要シ、種々ナ角度カラ其ノ不可ナル所以ヲ縷々説明シ、
中止セヨト迫リマシタガ聞流サレルノデ、
更ニ方法ヲ變ヘテ、
私自身終局一味トシテ即時ニ捕マル事ハ確實デアリ、
又世上ノ風評デ片付ケラレテ了フ事モ確實デアル事、
其ノ他民間側ノ啓蒙運動ハ順調ニ進ンデ居ルガ、一擧ニシテ打壊シニナル事
等ヲ話シテ中止シテクレト頼ミ、
最後ニハ攻メテ渡満直前頃迄延期スル譯ニ行カナイカト申シマシタガ、
栗原ハ、
『 アナタニ何トカ彼トカ云ハレルノガ一番嫌ダ 』
ト申シ、更ニ、
『 考ヘテ見マセウ、モウ之デ歸ツテモ宜イデセウ 』
ト言ヒ殘シテ歸ツテ了ヒマシタ。
私ハ、從來此種ノ事例モナカツタ譯デハナシ、比較的楽観シテ居ツタノデアリマスガ、
栗原君ト會見ノ結果、事ノ意外ニ内心一驚シタノデアリマス。
然シ、栗原ハ常習犯的ナ定評ノアル人デモアルノデ、絶望ハシマセンデシタ。
下士官 ・兵ナトガ滅多ニ動クトモ考ヘラレナイシ、
他ノ將校達ガ栗原ノ言動ニ對シテハ却テ反發的デアツタ風モ、多少承知シテ居ツタカラデアリマス。
安藤輝三
同月二十日頃ノ夕方、安藤大尉ガ聯隊カラノ歸途私方ニ立寄リマシタ。
 安藤モ、一度會見シテ私ノ意見ヲ聞キタイト思ツテ居ツタ所デアルト申シタノデ、
私ハ栗原トノ會見シタ顚末ヲ告ゲ、一應簡單ニ反對ノ意見ヲ述ベ、
『 重大ナ問題デアルカラ、忌憚ナク意見ヲ話シテ貰ヒタイ 』
ト告ゲマシタ処、
安藤ハ私ノ從事シテ居ル民間運動 ( 海員、農民、労働、大衆、郷軍各方面及上海方面ノ情勢等 ) ニ附
如何デスカト云フ事ヲ質問シマシタカラ、
私ハ萬事漸ク緒ニ就イタ処デ、何事モ之カラノ努力デアル事ヲ話シタノデアリマス。
スルト安藤ハ、
最近若イ聯中ガ甚ダ激化シテ直接行動ニ訴ヘ様トシ、自分ハ大物ト見テ盛ニ勧誘スルコト、
自分トシテハ之ニ同感シテ決行ニ參加スル事ハ何デモナイ、別ニ能ノ無イ人間ダカラ。
然シ、夫レガ良イカ惡イカニ附テ判斷ガツカナイノデ、數日前皆カラ話サレタ時モ、種々考ヘタ結果一應斷ツタコト、
其ノ後先輩野中大尉ニ斷ツタ事ヲ話シタ処、同大尉カラ
今蹶起セネバ天誅ハ却テ我々ニ下ル、何故斷ツタカ。ト強ク怒ラレ、非常ニ恥カシイ思ヒヲシタコト、
此様ナ形勢デ、若イ聯中、下ノ方ノ空氣 ( 下士官、兵ナドノ強硬ナ事ヲ若干漏ラシ ) ハ、
到底只デハ濟マヌ狀態デアルコト
及實ハ自分モ、最近若イ將校達ヲ聯レテ以前ノ將校團長山下少將ヲ訪問シタガ、
若イ者ヲ刺戟スル様ナ事ヲ山下少將ト話合ヒ、
其ノ晩少尉ノ如キハ、早速非常呼集デ警視庁に出掛ケタ位デアルコト、
此狀態ハ、從來アツタ如ク、
誰カガアナタニ傳ヘルト アナタハ直グニ押ヘテ了ウト云フ調子ニハ行カナイ程度ニ進ンデ居ル様デアリ、
押ヘデモスレバ却テ大變ナ結果ニナルト思ハレルコト、
左様ナ時ニハ、誠ニ失礼ナ申分デアリマスガ
五 ・一五事件ノ時ト同様、アナタヲ撃ツテ前進スル事ニナルカモ知レナイコト、
右ノ如キ情勢デアルカラ、自分ハ種々考ヘタ末 其ノ様ナ事ニナツテハ困ルノデ、
前以テアナタノ御意見聞キタイト思フテ居ツタコト 』
當ヲ朴訥ナ口調デ語リマシタノデ、私ハ以外ノ感ニ打タレマシタ。
實ハ、栗原ノ話デハ幾分疑点モ抱キマシタガ、
安藤ニハ左様ナ疑点ヲ抱ク餘地ノナイ性格、言動ヲ信頼シテ居ツタノデアリ、
且夫レダケ安藤ノ愼重、重厚ナ態度ヲ尊敬シテ居ツタノデアリマス。
他ノ人々ガ如何ニ騒ガウト、安藤ガ自重シテ居レバ大抵ノ事ハ大丈夫ト豫想シテ居ツタノデアリマス。
然ルニ、安藤ヨリ右ノ如キ狀況ヲ聞クニ及ビ、私ハ全ク心中愕然トシテ了ツタノデアリマス。
安藤ハ大體決心ヲシテ居ル様デアリ、
尠クトモ同意ノ決心ヲ爲サネバナラヌ立場ニ置カレテ了ツテ居ル様デアレ事ヲ、其ノ時直観シマシタ。
ソシテ、最早狀勢ハ私等一人、二人ノ力デハ到底押ヘ切レヌ所迄進ンデ居ル事ヲ認メタノデ、
安藤ニ對シ、
『 理論方針トシテハ、總テノ點カラ反對デアルコト、
質問ヲ受ケタ自分ノ努力シテ居ル方ノ事ハ、根底カラ打撃サレ、總テ一空ニ歸シ終ルデアラウコト、
諸君ガ蹶起スレバ、關係ノ有ル無シニ拘ラズ自分ハ一體ト見ラレテ、先ヅ唯デハ濟マヌト思ハレルコト、
止メ様トシテ殺サレル位ハ別ニ惜しい身體デハナイガ、形勢斯ノ如キデハ、結局止メテモ無駄カモ知レヌト思ハレルコト、
自分自身ニ夫レ程ノ力量ガ無キノミナラズ、蹶起將校中ニハ知ラヌ人ガ多イ模様デアリ、
一方自分ニ對スル信用問題モ不明デアルコト、
蹶起ノ主タル理由ガ、渡満ヲ動機トシテノ國體明徴ノ様ニ聞イテ居ルガ、
風雲急ヲ傳ヘラレルル蘇満國境及共産化シツツアル匪賊ノ跳梁等ヲ考ヘルト、前途ハ不明デアリ、
夫レヨリモ心配ナノハ國内ヲ何トカシタイト云フ諸君ノ氣持ニハ、諒解出來ヌ譯デハナイコト、
海軍ノ藤井ノ上海出征ノコト、
主義方針ハ別トスルモ、人情ニ於テハ堪ヘ難キ懐ヒ出トナツタコト 』
等ヲ色々披瀝シマシテ、結局
『 中止シテ貰ヒタイトハ思フケレド、此狀況デハ最早何トモ致シカネルガ、ヤルカヤラヌカ、今一度ヨク考ヘテ、
 何レニシテモ御國ノ爲ニナル最善ノ途ヲ選ンデ貰ヒタイ。
君等ガヤルト云フナラ、自分ハ運ニ任ヨリ外ハナイダラウト思フ 』
ト云フ趣旨ノ事ヲ話シマシタ処、
安藤モ 『 ヨク判リマシタ 』 ト申シテ、會見ヲ終ツテ歸ツテ行キマシタ。
私ハ茲ニ於テ、之ハ飛ンダ事ニナツテ了ツテ居ル事ヲ痛感シ、種々考ヲ廻ラシマシタ。
ソシテマタ、何トカナルカモ知レナイト云フ一部ノ餘裕ハ頭ノ隅ニ在リマシタガ、
安藤ノ言動ニ依リ、殆ド大半ノ希望ヲ失ツテ了ツタノデアリマス。
  村中孝次   香田淸貞
二月二十二日ト思ヒマス。
村中孝次ガ來タ時、私ハ栗原、安藤等ト會見シタ事ヲ話シ、
 『 君等ハ何ウスルカ 』
ト尋ネマシタ処、村中ハ、
自分等ハ一緒ニ行ク決意デ居ルコト、
香田大尉等ト陸相ニ談判ニ行ク考デアルコト、
等ヲ話シマシタ。
私ハ、香田大尉ハ純情ナ眞面目ナ人ダト思ツテ居リマシタノデ、
同大尉ガ此事ニ參加スル事ヲ意外ニ思ヒ、更ニ尋ネ返シマシタ処、
『 香田大尉ハ、現狀ヲ斷乎トシテ打開セネバ日本ハ全ク行詰ツテ居ルトノ意見デ、相當強硬デアル 』
ト云フ事デアリマシタ。
既ニ安藤然リ、村中然リ、香田然ルヲ知リ、私ハ今更ノ如ク驚キマシタ処、
村中ハ却テ私ニ對シ參加ヲ求メマシタガ、私ハ拒絶シマシタ
ソシテ、
『 現役軍人側ノ人ガ此形勢デハ致方ナシトシテモ、君等 ( 村中、磯部 ) ガ加ハルコトハヨクナイ 』
ト忠告シマシタガ、肯キ入レサウニモナク、
一昨年以來の鬱憤モアラウト考ヘラレ、最早致方ナシト諦メマシタ。

村中迄ガ斯ノ如キ始末デハ、私トシテハ最早他ニ処置ナシト思ヒマシタガ、
村中ノ今迄ニ似合ハヌ態度ヲ意外ニ感ジマシタ。

 山口一太郎
二月二十四日頃、聯隊ノ山口大尉カラ閑ガアルカラ來ナイカト云フ電話ガアリ、
同日午後七時半カ八時頃歩兵第一聯隊ニ山口大尉ヲ訪問シマシタ。
週番指令室デ雑談ノ末、『 聯中ガヤルトスレバ、今週中デアルラシイ 』
トノ事デアリマシタノデ、私ハ山口ニ、
『 判ツタラ直グ知ラシテ貰ヒタイ。
 私ノ方ニ電話ヲ掛ケル譯ニモ行カヌダラウガ、出來得レバサウシテ一刻モ早ク知ラシテ貰ヒタイ。
私ノ立場上困難デハアルケレドモ、何トカシテ早ク収拾ノ出來ル様ニ努力スル。
一、二ケ所頼ム所モアルカラ、サウシテ貰ヒタイ。
又アナタハアナタノ立場モアリ、本庄大將ノ方ヘ知ラサネバナルマイ 』
ト申シ、約一時間位デ別レテ歸リ、途中新宿デ酒ヲ飲ンデ其ノ晩十二時頃帰宅シマシタ。
私ガ一、二ケ所頼ム所モアルト申シタノハ、海軍中將小笠原長生/元外交官藤井實 ノコトデ、
藤井ヲ通シテハ、平沼騏一郎方面ニ聯絡シテ貰フ考デアリマシタ。
歸宅シテ見ルト、机ノ上ニ置手紙ガアリマシタ。
夫レニ依ルト、
『 二月二十六日朝ダト都合ガ宜イト言ツテ居リマス 』
ト云フ意味ノ事ガ書イテアリ、
磯部ノ字デアリマシタノデ、愈々二十六日朝蹶起スルコトガ判明シマシタ。
直グ床ニ入リマシタガ、色々ノ事ガ考ヘ出サレテ、其ノ夜ハ一睡モ出來ズニ過シマシタ。
・・・予審訊問調書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大體私の前申した様に相澤中佐の公判に熱中してゐましたし、
所謂青年將校と云ふ人達も公判の狀況に関し御互話合って居ると云ふ風もあり、
公判を通じて相澤中佐を有利に導く様に奔走して居るらしかったので
私としては、非常に喜んで居ったのでありました。
殊に磯部、村中、澁川三名の如きは
決った職の無い關係もありませうが此事に非常に努力されて居ったし、
青年將校の方達が本年二月上旬から中旬にかけて二、三回集って
( 麻布竜土軒と思ふ ) 公判の内容に就て懇談したと云ふ話も其都度耳にしたのでありました。
其の集った方は大體今回事件を起した人達が中心であったと思ひます
私として今度の事件を起す様な事を知ってからも、
一つは何れ丈其の實行の可能性があるかと云ふ事も多少危んだ點もありますし、
眼前の公判の進行に就ては前申した關係で手を離す事が出來ませんし、
事件勃發の直前迄色々公判關係の仕事に追はれた形でありました。
今回の事件で私が最初少々反った空気を感じたのは
本年二月十日に東京控訴院の呼出しで
所謂五 ・一五事件當日私が川崎長光から撃たれた際着て居た衣類の返附を受けて歸宅し、
確か翌二月十一日正午頃かに磯部浅一君が來ましたので、
私から五 ・一五事件の記念物が返って來たと云ふ様な事を話して返附された衣類を見せました。
すると磯部君は感じ深そうに見て二人で當時の狀況を話し合ひましたが、終りに同君は
「 血が返ると云ふ事は縁起がいい事だ、 今年は運が良いだらう 」
と云ふ意味の言葉を洩らして居ました。
其処で私は一寸 「ハテナ」 とは思ひましたが
元來磯部君は熱情の人でありますからまあ大した事もあるまいと考へました。
そして相澤中佐公判に關する色々な打合せ等をして磯部君は歸ったと思ひます。
夫れから二月十四日頃と思ひますが、( ・・二月十三日 接見 )
相澤中佐から家事上の事で話があると電話が掛かりましたので
午後に澁谷の陸軍刑務所を訪れました。
すると相澤様から家事上の話や公判に關する話がありました末に
「 若い大切な人達が輕擧妄動する様な事の無い様に 殊に御國が最も大事な時に臨んで居るから
 特に呉々も自重する様に貴方からも言って貰ひ度い 」 
との話がありりました。
其処で私も同感でもありますし、
相澤様が何時でも此様な心配をして居られる事が判って居ましたので 

「 間違ひもありますまいし、此上共気を付けますから案じられない様に 」 
と話して歸ったのでありました。
其後二三日過ぎた頃と思ひますので確か二月十六、七頃と思ひます
相澤中佐の公判打合せかで来てゐた村中孝次君が 
「 二月二十日迄に相澤さんが一度來て呉れと云ふ傳言があったが貴方が行って呉れれば非常に都合がいいのだが」 
と云ふ話と、其頃相澤中佐の陳述内容の眞實に近いものを各方面に知らせなければならないと云ふので、
此の原稿の整理には村中、澁川君が主として携わってゐましたので
村中君は 「 自分も忙しいくするので成る丈け貴方に行って貰ひ度い 」 との事であった。
又此時と思ひます村中君は部隊側の青年將校の一部には
「 公判の進行とは別に御維新の運動を進めなければいかん。
 第一師團も近く満洲に行かなければならんが、
そうなれば當分そう云ふ機會がないと云ふ様な意味で相當決意が高まってゐる風で、
自分なと公判に一生懸命にやってゐるのを快く思はない風が見える。
自分は元來御承知の様に気が弱くて温しいので立場に苦しむ事がある 」 
と云ふ様な事を話されてゐた。
此時私は
「 満洲に行くから御奉公が出來ないと云ふ様な事は原則上間違ひである。
 そんな事で焦って間違ひを起しては困るし、
相澤中佐も此の間面會したときそんな事を非常に心配して自分に頼んで居るし、私も何とか考へて見やう 」 
と云って置きました。
又此の前後頃であったと思ひます、
相澤中佐の公判の事及び私用等もあったので
先輩の第一聯隊の中隊長である山口一太郎大尉を私宅に訪問しましたが、
此際相澤中佐の公判狀況等を話した末に話がたまたま青年將校の事に及びました。
そして山口大尉は
「 何うも栗原かが隊内で盛んに飛廻っているらしい。此分では何かやり兼ねない風があるが夫れでいいか 」 
と云ふ意味の話があったので、私は 
「 そう云ふ事は困るし大體今の時機はそう云ふ時機でない、
 もっとも栗原君は平素そう云ふ事が癖の様になってゐるから
眞意は判らないけれ共取返しの付かぬ様になっても困るから私が會って一度話して見やう 」 
と言ひ 
「 御會ひになったら一度私の家に來る様に言傳して欲しい 」 
と云ひ、別れて歸ったのでありました。
其の翌日は栗原君が來るだろうと思って待って居りましたが
遂に同君は來ず待ち呆けに會った譯でありました。
其翌日でありましたから確か
二月十八日、九日頃の午後聯隊内山口大尉から電話があり
「 栗原君に言傳したが行く必要ないと言ってゐるので 依頼は果したが何うにもならんから自分は知らんぞ 」 
と云ふ話でした。其処で私は
「 夫れなら栗原君に電話口に出て貰ひたい 」 
と頼み、確か暫らくすると待ってゐる栗原君が出たと思ひます。
それで私は同君に 「 話したい事があるから來ないか 」 と言ひますと
栗原君は 「 行く必要ないと思ふ 別に話はありません 」 と云ふ事でした。
私も同君の返事が意外に強いので内心一寸驚きましたが 
「 君の方に話がなくてもこちらに話があるのだだから兎に角一度來て呉れ 」
と話して電話を切ったのでした。

其のために栗原は私の宅にやって來ましたので私から
「 最近盛に君達はやって居る様だが何う云ふのだ 」
と聞きますと 
栗原君は
「 貴方には關係ない 」
と云ふ意味の事を申し、
「 貴方には貴方の役割と云ふものがあろうし 自分達には自分達の役割があるのだから話す必要はありません。
 公判の進行と維新運動とは別だと思ふ。貴兄には何も迷惑は掛けない積りである。
私共は満洲に行く前に是非目的を達したいと思って居る。
皆此の決心が非常に強くなってゐる。
自分達の都合から云へば今月中が一番良い。公判公判と云ふがそう期待が掛けられますか 」
と云ふ様な事を云って居りました。
私は此時
「 満洲に行くからやらなければならないと云ふ事は間違ひである。
 公判とは別だと云ふ事は其通りかも知れんが、
それかと云って公判を放任したり 別だと云って そういう事にのぼせたりして輕擧妄動する事は以ての外である。
今はそう云った君等の考の様な事をする時機ではない。
まして今月中になどと云ふ事はいかん。
引込みが付かなくなるではないか。
飛び廻って見ても案外人は動かないいし、
動いた様に見えても表面一時的であって 實は餘儀なくそういう風な態度を執る時が多いのであって、
結局いざと云ふ時には何もならんものだ。
斯ふ云ふ事は其の中の社會狀勢の進展が自ら決定するものである。
殊に大っぴらに色々の事を言動する君の癖があるから却って引込みが付かないと共に
最初からつまらぬ災を受けるのか落ちだ 良く考へ直して貰ひたい。
又僕等に迷惑を掛けぬと云ふが、僕個人としてはそんな事は問題ではないけれども
最近の狀勢では君等が何かすれば一般は直ちに僕等の關係を想像する、結局は同じ事だ 」
と云ふ様な事を話したのであります。すると栗原君は、
「 私共の事は心配して戴かなくとも良い、
 貴方が色々考へて居られる一般の大勢、指導、連絡ある方面の状態は
貴方の希望する様にはなって居らないのですか、矢張り貴方にも迷惑は掛かりますか 」
と云ふ様な事を云はれました。其処で私は更に、
「 僕の関係は未だ未だ前途遼遠である、僕は先を永く考へてゐるのである、
兎に角無關係だと云っても夫れは御互丈の事で外からはそうは見ないのだし、
結局今變な事をすれば何もかも駄目になって仕舞ふ 」
と云ふ様な事を話したのでありますが、同君は、
「 貴方からそう云ふ様な事を云はれるのは一番困る、まあ考へて見ませう 」
と云ふ様な言葉を残して結局は話も纏らず別れたのでありました。
又二月十六、七頃かに栗原君に來て貰ひました際の話で考へ付いた事があります。
夫れは私から
「 やるとすれば君は何う云ふ気持でやるのか 」
と尋ねますと栗原君は
「 改造とか革新とかではなく國體を歪曲する君側の奸臣を除けば良いのである 」
と云ふ事でした。 私は此時
「 御維新と云ふ事は國體を護る事であるから吾々としては夫れは正しい理論である。
 世間雑多にある改造の理論とか方針とかは吾々としては觸れてはならない。
夫れから間違ひが起る 」

と云ふ様な事を申し、更に
「 兎に角君は從來民間人でも何でも御構ひなしに引入れるので
 何時もそれで迷惑を蒙って居るがそう云ふ事の無い様に注意して 」

と云ひますと栗原君は 「 良く判って居ります」 とか云って居りました。

更に此の日か翌日かよく記憶しませんが、
磯部君がやって來まして例によって相澤さんの公判の事など話合ったと思ひますが、
其の末に磯部君から聯隊の連中が大分熱が高い様で、
安藤君あたり最近非常に考へ込んでいる風があると言って居りましたので、
私も栗原君に會った話を多少話したと思ひます。
尚一度安藤君に會ひ度いから序があったら 一度來て呉れと言傳して呉れと頼んだのでありました。
同君との話は之位でありましたと思ひます。
其の翌日頃でありましたから確か 二月の二十日頃の夕方安藤大尉がやって來ました。
そして安藤君が
「 實は貴方に一寸會ひたかったのだ 」
と云ひ、私も
「 會ひたかったから、磯部君に言傳を頼んで置いた譯だ 」
と話し、更に私は
「 最近青年將校間に飛び出すとか何とか話があるそうだが、何う云ふ狀況で、一體君は何う思ってゐるか 」
と聞きました。すると安藤君は
「 實は其事に就て貴方に聞き度いと思ってゐたのだ 」
と前置きして
「 最近若い聯中は其の気持ちが非常に強い
 此間も四、五人寄った際に自分にやって呉れと云はれたが
自分はやる 
やらんは別だがやれないと考へたので斷って仕舞った。
そして其事を週番中の野中大尉に話した処、同大尉は 『 何故斷ったか 』 と自分を叱りました。
『 そして相澤中佐殿の行動、最近一般の狀勢等を考ると
 今自分達が起って國家の爲に犠牲にならなければ却って天誅が吾々に降るだろう。
自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか 』
と言はれて私は非常に恥ずかしく思ひました。
併し今日迄の關係から我々が何か始めやうとすれば最後には貴方が押へたりされましたが、
今日の狀態は若し貴方が押へでもすると軍隊の内部は取返しの付かぬ混亂に陥り、
失礼な言分ではありますが、
貴方を撃っても前進すると云ふ様な事が起らんとも計り知れない狀態になって居ります。
それで一度貴方に御意見を聞いて見たいと思って居たのである 」
との事でありました。
私も事の意外なのに驚きました。
殊に平素沈着熟慮の安藤君の言ふ事であり
其の先輩で私は未だ一面識もない野中大尉からそんなに迄強い決心を持ってゐると云ふ事を聞いて、
何と考へても驚くの外なかったのであります。
そこで私は
自分としては色々考へる処もあり、到底當分の間そういふ事は同意は出來ない。
 社會状勢の判斷、自分の希望し努力してゐる事の今日の程度等から見て
實は賛成が出來ないが、併し諸君の立場を考へれば止むを得ない気持ちもあるだろう。
自分は五 ・一五事件の時にも御承知の様な事になり、
幸にして今日生きてゐるので、自分の生命に就ては別に惜しいとも何とも思ってゐないが、
若い將校達は何れも満洲に行かねばならず、
行けば最近に於ける満洲の狀態から見て對露關係が遂次険惡化して居る折柄、
勿論生きて歸ると云ふ様な事は思ひもよらぬであろう。
其点から言っても國内の事を色々憂慮して苦労して來られた人達が
此儘で戰地へ行く氣になれないのも無理もないと思ふ。
元來私共の原則として何処に居っても御維新の御奉公は出來るし、
満洲に出征するからその前に必ず何かしなければならんと云ふ事は正しい考へ方ではないと思ふが、
それは理屈であって人情の上からは一概に否定する事も出來ないと思ふ。
以前海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後近く上海に出征するのを控へて
御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度いと云ふ手紙を 昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、
私は當時の狀勢等から絶對反對の返事をやった爲
同少佐非常に失望落騰して其儘一月下旬には上海に出征し、二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした。
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります。
此の思出は私の一生最も感じ深いもので、
今の諸君の立場に對しても私自身の立場からは理屈以外の色々な點を考へさせられます。
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません。
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから
御國の爲になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ。
私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます。
人間は或運命があると思ふので
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます。
どちらでも良いから良く考へて頂き度い 」
と云ふ意味の事を話し、安藤君は
「 良く判りましたから考へて見る 」
と云って別れて歸ったのでありました。

・・・警視庁聴取書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

磯部浅一 
( 25日 ) 河野が出發した後、西田氏を訪ねた。
西田氏は、今回の決行に何等かの不安を有してゐる事を余は知ってゐるので、
安心をさせるために、豫定通りに着々と進んでゐる旨を知らすためであった。
西田氏の不安といふのは、
察するに失敗したら大變になるぞ、
取りかえしがつかぬ、有爲な同志が惜しいと云ふ心配であった様だ。
余は所期には西田氏にも村中にも何事も語らないで、
自力で所信に邁進しようとしてゐたので、
昨年末以來、西田氏に對してヤルとかヤラヌとか云ふ話は少しもしなかったのだ。
所が 二月中旬になって、
在京同志全部で決行する様な風になったので、
一應 西田氏に打ち明けるの必要を考へ、
村中と相談の上、
十八、九日頃になって打ち明けた。
氏は沈思してゐた。
その表情は沈痛でさへあった。
そして余に語った。
僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、
君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出來ぬ。
海軍の藤井が、革命のために國内で死にたい、
是非一度國奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた。
彼の死は悶死であったかもしれぬ。
第一師團が渡満するのだから、
渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた靑年將校をとめる事は出來ぬのでなあ
と 云って、
何か良好な方法はないかと苦心している風だった。
余は若し失敗した場合、
西田氏に迷惑のかかる事は、氏の十年間の苦闘を水泡に歸してしまふので相すまぬし、
又、革命日本の非常なる損失と考へたので、一寸その意をもらしたら、氏は、
僕自身は五 ・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、
僕に對する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ。

と 云った。
余はこの言をきいて、何とも云へぬ気になった。
どこのどいつが何と惡口を云っても、氏は偉大な存在だ、革命日本の柱石だ。
我等在京同志の死はおしくないが、氏のそれはおしみても余りある事だ、
どうしても氏に迷惑をかけてはならぬと考えた。
・・・磯部淺一、行動記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「 愈々決行 」
 と 西田が打明けられたのは二月の十八日か九日、
とめるにとめられず、西田に非常な苦悩の色があったことは磯部さんの 「 行動記 」 に ある通りで、
主人は変革の前途を楽観できず、
もし失敗して有為な同志をむざむざ失うようなことになったら取返しがつかないと考え、
率直な判断として事を起すのは反対でございました。
それでも引止められない運命の流れのようなものが西田を取巻き、
青年将校たちの心をさらって巨きな渦となり、一気に流れ去ったのではないでしょうか。
わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
 西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・西田はつ


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