あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇陛下萬歳

2023年02月13日 09時07分32秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。

・・・
万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた

怨み、いかり、殺されても死なぬ、鬼となって生きぬくとは、
これら刑死将校たちのひとしく書きのこしているところである。
もちろん、それは軍当局とくに中央部幕僚に対する、すさまじいまでの痛憤であり、
天皇に対しては、いささかもうらめしい言葉は残していない。
むしろ、天皇による軍裁判によって死刑に処せられながら、
ひたすらに天皇への忠誠を誓い 天皇陛下万歳を唱えて死についている。

・・
万斛の恨み・・・それでもなお 『 天皇陛下万歳 』 

天皇陛下萬歳

目次
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・ 天皇陛下萬歳、萬歳、萬歳 
・ 
『 やられてますよ 』 
・ 林八郎の介錯人・進藤義彦少尉

「 今日も会えたなあ 」 
・ 処刑前夜・・・時ならぬうたげ 
・ 長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 
『 やられたら直ぐ 血みどろな姿で陛下の許へ参る 』 

・ 
昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 
・ 昭和11年3月5日 (七) 河野壽大尉 
・ 
昭和11年7月3日 (二十) 相澤三郎中佐 

・・十二日は日本歴史の悲劇であつた
同志は起床すると一同君が代を唱へ、
又 例の澁川の讀經に和して眼目の祈りを捧げた様子で
余と村とは離れたる監房から、わづかにその聲をきくのであつた
朝食を了りてしばらくすると、
萬才萬才の聲がしきりに起る、
悲痛なる最後の聲だ、
うらみの声だ、
血と共にしぼり出す聲だ、
笑ひ聲もきこえる、
その聲たるや誠にイン惨である、
惡鬼がゲラゲラと笑ふ聲にも比較出來ぬ声だ、
澄み切つた非常なる怒りとうらみと憤激とから來る涙のはての笑ひ聲だ、
カラカラした、ちつともウルヲイのない澄み切つた笑聲だ、
うれしくてたらなぬ時の涙より、もつともつとひどい、形容の出來ぬ悲しみの極みの笑だ
余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと思ったが、
泣ける所か涙一滴出ぬ、
カラカラした気持ちでボヲーとして、何だか氣がとほくなつて、
氣狂ひの様に意味もなく ゲラゲラと笑ってみたくなつた
午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃聲をきく、
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた
余りに氣が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思ってやつてみたが、
聲がうまく出ないのでやめて 部屋をグルグルまわつて何かしらブツブツ云ってみた、
御經をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた
午前中に大體終了した様子だ
午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて來て話しもしないで聲を立てて泣いた、
アンマリ軍部のやり方がヒドイと云って泣いた、
皆さんはえらい、たしかに靑年將校は日本中のだれよりもえらいと云って泣いた、
必ず世の中がかわります、キット仇は討ちますと云って泣いた、
コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云って泣いた、
中には私の手をにぎつて、
磯部さん、私たちも日本國民です。
貴方達の志を無にはしませんと云って、誓言をする者さへあつた
この狀態が單に一時の興奮だとは考へられぬ、
私は國民の声を看守諸君からきいたのだ、
全日本人の被壓拍階級は、コトゴトク吾々の味方だと云ふことを知って、力強い心持になつた、
その夜から二日二夜は死人の様になつてコンコンと眠った
・・・磯部淺一獄中日記  先月十二日は日本の悲劇であつた

・ 
昭和11年7月12日 (二) 香田淸貞大尉 
・ 昭和11年7月12日 (五) 安藤輝三大尉 
・ 昭和11年7月12日 (九) 栗原安秀中尉 
・ 
昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉 

・ 昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十二) 丹生誠忠中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十三) 坂井直中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十四) 田中勝中尉 
・ 昭和11年7月12日 (十五) 高橋太郎少尉 

・ 昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十七) 中島莞爾少尉 
・ 昭和11年7月12日 (十八) 林八郎少尉 
・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 
・ 
昭和11年7月12日 (十九) 水上源一 

昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉 
・ 昭和11年7月12日 (番外) 佐々木二郎大尉 
・ 黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景 
・ 
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった 
・ 
「当日 親族者二十数名と共に 
午前十一時半代々木練兵場の一角 陸軍刑務所に参り、
まず 両親および嫁の三名は刑務所長塚本定吉氏の懇諭を受け、
午後零時二十分頃 衆と共に裏門より死体安置所に入り、
棺蓋を開いて一同告別を行いました。
前日には元気潑刺たりし彼、今や全く見る影もなし。
眉間に凄惨なる一点の弾痕 眼を開き歯を食い縛りたる無念の形相。
肉親縁者として誰かは泣かざる者がありましょう。
一度に悲鳴の声が起こりました
如山(勇) はこのとき声を励まして死体に向い
秀 国家のためを思い、よく死んでくれた。父は満足している。
家と一家のことに関しては、何も心配を残さず、安心して成仏せよ。」
また 同行の人たちに対しては
「皆さん、昨日までは笑って下さいと申しましたが、今日は思う存分泣いて下さい」 と。

・・・「 栗原死すとも、維新は死せず 」 

村中、磯部は一部未決のものの証人として、一方的に死期をのばされたのである。
ともに死ぬはずだった同志から引きはなされ、
私たちが同じ屋根の下から出るまでの半年、
それからさらに半年以上、四季をひとめぐりして再び夏を迎え、
それの終わるころまでのばされ、
結局は規定の処刑の座に就くのである。
大岸頼好は後年折にふれては、このことを
「 ちょっと前例のない残酷な処置だ 」
いっていた。

・・・ 
「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 

・ 
昭和12年8月19日 (三) 村中孝次 
・ 
昭和12年8月19日 (四) 磯部淺一 
・ 昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 


叛亂將校達を反逆者として處刑したとき、
 大元帥陛下の帥い給う皇軍 ( すなわち天皇の軍隊 ) は亡んだのである
彼らの銃殺のために撃つたあの銃聲は、
 實は皇軍精神の崩壊を知らしめる響きであつたのである
しかも、その銃には菊の御紋章が入っているのである
大元帥陛下の御紋章の入っている銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、
 極度の憎しみで射殺したのである
・・・橋本徹馬


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