あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』

2020年10月11日 05時48分29秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

暗黒裁判の象徴
北と西田を 「 反亂の首魁 」 にする
北一輝 ( 本名 ・ 輝次郎 ) が逮捕されたのは事件さなかの二月二十八日の午後八時ごろであった。
このとき中野区桃園町の北邸の奥の間には西田税と薩摩雄次がおり、
事件の對策について話し合っていたといわれる。
そこへ十数名の憲兵がやってきて北を逮捕した。
北が憲兵と対応している間、西田は北邸を逃げだした。
その後、知人宅を轉々としたが、
三月四日早朝に滞在先を私服警官に踏み込まれ、逮捕された。
西田が逮捕された日、特別陸軍軍法會議を設置する緊急勅令が公布された。
のちに陸軍次官が軍法會議の判士たちに對して行った 「 陸軍次官口演要旨 」 には次の一條がある。
「 本事件ニ關係アル者ニ附テハ常人モ公判ニ附シ 且 全國各地ニ於ケル事件ヲ併セテ裁判ス 」
これによって北と西田は蹶起將校らと同じように < 暗黒裁判 > によって裁かれることになった。
そして陸軍上層部は 「 北、西田は死刑 」 という既定方針の下、その準備を着々と進めていた。


わが國未曾有の不祥事二・・
事件勃發直後檢擧された北 一輝と西田税は
爾來東京憲兵隊並に警視廳で嚴重なる取り調べを受け
けてゐたが、
右兩名は今回の不祥事件の思想的バックをなすと共に
その黒幕となつて一部青年將校を操っていたものである
北一輝が著述し、西田税名義により發行せられた
「 日本改造法案 」 はこれを立証して余りあるものである、

即ち同書は大正八年八月上海において執筆せられ、
爾後法網を潜り所謂 「 怪文書 」 として秘密裡に頒布せられたもので、

現在に歩の政治經濟などの缼陥を摘し、
一見その弊害を芟除するが如き具體案を記述した点において、

国家改造に関心を有する一部人士の根本的思想を極めなかつた
中心分子をして 妄信せしめるに至つたものである、

その主張するところは、本流は右翼の仮面を被つた僞装左翼思想に基き、
直接行動によつてクーデターを斷行し、政權を獲得せんとするものであつて、
これが目的達成のためには軍隊に呼びかけ、
統帥權を干犯し、
神聖なる皇軍をも私兵化して手段に利用せんとした
矯激極まる所謂 「 武力行使による革命 」 を唱えたものである、・・・・


事件が終結してから半月ほど経った三月十五日、
新聞各紙には
「 二 ・二六事件の背後には北一輝、西田税あり 」
とする記事が躍った。
東京日日新聞の記者だった石橋恒喜の 『 昭和の反乱 』 によれば、
掲載の経緯はおおよそ次のようだった。
三月十三日、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐が記者クラブを訪れ
「 重大ニュース 」 があると語った。
「 北一輝と西田税は、憲兵隊と警視庁とで厳重取り調べ中である。
 その結果、驚くべし、彼らは右翼の仮面をかぶった共産主義者であることが判明した。
北の著書 『 日本改造法案大綱 』 を見るがいい、それは共産主義を基調としていることは明らかである。
彼らはこの左翼革命理論に基づき、世間にうとい青年将校たちに近づいて
『 上下一貫、左右一体、挙軍一体のための将校団運動 』 なるものを吹きこんだ。
そして、巧みに軍隊を、こんどのような不祥事に利用したのだ 」
北や西田が共産主義者でないことは記者もよく知っていた。
だから
「 見当違いなことを言うな。 北、西田は右翼の浪人ではあるが、アカじゃないよ 」
と笑い飛ばした。
ところが翌日、松村少佐は記者クラブに 『 日本改造法案大綱 』 を持参し、
一つひとつ北が共産主義者であるという、" 根拠 " を挙げ、
「 これでもニュースにならないと否定するのか 」 と迫った。
「 どうしても記事にしてほしいなら 『 戒厳司令部発表 』 としたらどうですか 」
と石橋がいうと、
「 諸君の自主的な取材によるものとしてもらいたい 」
という。
記事にしなければ軍部と対立することになる。
結局、記者たちは思ってもいないことを書かざるを得なかった。

なぜ陸軍はこうした手段をとったのか。
石橋は前掲 『 昭和の反乱 』 で次のように論じている。
「 確かに直接行動に出たのは、急進将校である。
 それについては軍事当局が、いかに報道管制をしこうとしても隠せ通せるものではない。
だが、その背後に北、西田がいて、事件の演出から監督まで一切を手がけていたならば、
軍もまた " 被害者 " の立場に立つことができる。
つまり、軍の面子を保つために 北、西田を
" 純真な青年将校 " を 操った元凶と しなければならなかったのである 」


十月一日、
吉田悳騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 ) を裁判長に、
北、西田、亀川哲也の第一回公判が開かれ、
以後十二回にわたって開廷された。
公判が進むにしたがって、吉田裁判長と他の判士との意見が対立しはじめた。
吉田裁判長は北、西田と二 ・二六事件との関係は
「 幇助 ・従犯 」 以上のものではないと考えていたが、
ほかの判士は北、西田を 「 首魁 」 としたかった。
十月二十二日、
論告求刑があり、北、西田に死刑が求刑された。
吉田裁判長は手記の中で次のように書いている。
「 論告は殆んど価値を認め難し。
 本人又は周囲の陳述を籍り、悉く之を悪意に解し、
 しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。
そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍上層部の責任である。
之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きことであつて、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思ふ。
奉職三十年初めて逢着した問題である ・・・松本清張著 『 二 ・二六事件 』
このあと、吉田裁判長は文字通り職を賭して奔走し、
一時は 「 依然過重なるも一歩希望に近づく 」 ・・・吉田手記
と その主張がみとめられるかに見えたが、
翌十二年一月十四日、
寺内寿一陸相の希望で裁判経過を報告すると、
ふたたび北、西田に対する死刑論が大勢を占めた。
寺内陸相への報告でどんな話が交わされたのか定かではないが、
陸軍省の強力な影響の下で 「 北、西田は死刑 」 とする方針が定まったといえる。
それでも吉田裁判長は、
死刑論の強硬派である藤室良輔判士の罷免か、
あるいは北、西田に対する判決言い渡しを延期しては、などと抵抗を示した。
その結果、判決は六ヵ月以上延期された。
しかし判決を延期しても状況は好転せず、
八月十四日に北と西田は死刑判決を言い渡された。
吉田は死刑を宣告したときの心境を手記にこう記している。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
 好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし 」
北と西田、そしてこの両名の証人として系の執行が延期されていた磯部、村中の処刑は、
判決から五日後の八月十九日に行われた。
この四名は、すでに処刑された蹶起将校らと異なり、刑が執行されるときには
「 天皇陛下万歳 」 をいわなかった。
そこにはどのような思いがあったのだろうか。
・・・図説  2 ・26事件  太平洋研究会編  平塚柾緒著 から
・・・リンク→ 
はじめから死刑に決めていた


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