あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

本朝のこと寸毫も罪悪なし

2018年05月26日 18時26分52秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤三郎 中佐  (少佐時代 )

「 偕行社で買物をして赴任する。」
永田軍務局長を刺殺したあと、相澤中佐はこういった。
決行の前夜、
西田税のうちに来合わせた大蔵大尉が 「 明日の予定は・・・・」
と、きいたときもこういったし、
決行直後山岡重厚中将から 「 これからどうするか 」 と きかれたときもこういった。
・・・・
私もこのことばをはじめて聞いたときは奇怪に思った。
禅的な表現かとも思った。
禅的な表現には禅に通じない私などからみれば、飛躍があって、思念の追随しかねる場合がある。
が、相澤中佐の公判で述べたことのあとをたどれば、
奇怪であると思った ことばの意味が、おぼろげながら私にも理解できそうである。

先ず相澤中佐自身が
「 認識不足 」
という 当時の流行語によって
「 偕行社で買物をして赴任する 」
を 否定している。
偕行社で買物をして赴任しようなどと考えたことが、
認識不足だったことに、決行後すぐ気づいたと、述懐しているのである。
八月十二日、
すなわち決行の日の朝、西田のうちを出るまえに、
ひそかに書きしるした手記のなかに
「 皇恩海より深し。然れども本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
の 句がある。
十一月二十日事件のあとの 昭和九年の年末から、十年の年頭にかけてのころ、
はじめて相沢中佐は永田軍務局長を斃す決意を抱いた。
十一月二十日事件は結局、
青年将校を弾圧しようとする永田軍務局長の策謀の一つの現れで、
辻政信の如きは、そのお先棒をつとめたにすぎないというのが相沢中佐の判断であった。
が 最初の決意は大岸大尉の反対にあって、一応おさめた形になっていた。
その後
天皇機関説問題をめぐる真崎教育総監の更迭があり、
そのいきさつに統帥権干犯事実があることに憤慨、
七月の上京となり、
その途中むかしの箱根越えに該当する丹那トンネルにさしかかった際、
頼三樹の詩を吟ずるうち、
ふと 永田少将一刀両断の決意を再燃させたが、これは自らの反省によって思いとどまった。
が、八月になって
磯部、村中が不穏文書配布を理由に免官となり、自分自身は台湾に転任ときまった。
ひとたび雲煙万里台湾に渡ってしまえば、内地の土を踏むことは容易でない。
このまま台湾に渡ることは、
相澤中佐の 「 尊皇絶対 」 の 信念がゆるさなかった。
思えば半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
であり、
したがって
「 偕行社で買物をして赴任する 」
だった。
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」
の 決意だったのだろう。

この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相澤中佐の祈念であり祈願だったのだろう。

が、それは決行前後のしばしのあいだの安心だった。
決行後まもなく、それがたちまち峻険の難路と変じた。
それに気づいたことが
「 認識不足 」 の 自覚であり、嘆きだった。
決行後、麹町憲兵隊に収容された相沢中佐は、
そこで直ちに底意地の悪い憲兵曹長の取調べをうけなければならなかった。
それが 「 認識不足 」 を 自覚させられた最初だった。
が、それは同時に自分の無力に対する嘆きだった。
自分の力が足りないから人々を正道へ導くことができなかった、
自分がもっと偉大であったら、それができたであろうにという・・・。
「 偕行社で買物をして赴任する 」 は、狂愚のことばでなく、
決行前後のひととき、ようやくたどりついた安心の境地から発したことばだった。
それが意外に執拗強靭な抵抗の前に、
はかなく崩れて 「 認識不足 」 の 自覚を強いられることとなったのである。

たとえ かすかであっても、光明さしいれる一つの破壊孔を打通すれば、
闇を闇と さとらぬものも、さし込む光明に闇をさとり、
ひとたび打通された破壊孔を力あわして、
さらに拡大し、もっと光をさし入れる努力をすべきはずだった。

が 闇に慣れたものはそうはしなかった。
闇に慣れた習性から突然の光明に、かえって目がくらむのか、
それとも闇に適合さした自分の姿を光明にさらすのを恐れるのか、
わずかながら打通された折角の破壊孔を、再びふさぐことに懸命になるのだった。
そこに 「 認識不足 」 が あった。
偕行社で買物をすることもできず、台湾に赴任することもできず、
相澤中佐は代々木の衛戌刑務所の狭い官房に大きな体を収容された。
そこは相澤中佐が、天誅成就を祈願した明治神宮とは、
あいだに代々木練兵場をはさむだけのすぐちかくだった。
・・・・
相澤中佐の決行は、
平素から中佐が抱懐する 「 尊皇絶対 」 の 信念が、時に遭って閃発したものだった。
相澤中佐における 「 尊皇絶対 」 は、中佐自身が公判廷でも述べているように、
同時に 「 国民も絶対 」 と いうことだった。
君主主義は同時に民主主義でなければならないということである。

日夜 民安かれとのみ祈る天皇の主観、
すなわち
大御心における民主主義国日本は
同時に
大君の御為には、わが身ありとは思わぬ、
国民主観における 君主主義国日本でなければならないということである
ひたすらに民安かれと祈る大御心は
「 天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば」
の御宸念となる。

・・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇ノ御主観ニ於ケル民本國
臣子ノ主観ニ於ケル君主國
即チ上ハ下ヲ、下ハ上ニ相互信倚、相互求引シテ萬代不易ノ皇國日本ヲ構成護持ス。
外來ノ所謂民主國ニアラズ、所謂君主國ニアラズ、實ニ君民即親子ノ世界無比ナル哲理國家、家族體皇國日本ナリ。
・・・
第四章  皇國日本ノ國家哲理 / 第一編    維新皇國ノ原理 / 『 極秘 皇國維新法案 前編 』
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とすれば一人どころか、

おびただしい貧窮に泣く農村青年を部下に持つ青年将校が、
抽象的に軍人勅諭の忠節を信奉し、それを部下に向かって説くだけで、
わがことおわれりと、澄ましておられるかどうか。
尽忠報告の義務のみあって、その国に拠って生活する権利を保障されていない兵。
その兵に代表される庶民にかわって、腐敗堕落の財界、政界、軍閥権力層に、
革新の鉾先を向け反省を促することは、軍人勅諭の忠節の具体的実践であるはず。
ただそこに権力層が、とってもって己の安泰のためのとりでにしている法があった。
如実に自己権力の擁護のためには、
その源泉である私有財産と国体との抱き合わせを法に規定することも憚らなかった。
しかし法は法である。
それは必ずしも権力層の利益のためのみとは限らない。
その法を超越するところに青年将校の苦悩があった。
相澤中佐 半歳の苦悩もそれだった。
が 苦悩の果てに開かれたものが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 「 尊皇絶対 」 の 安心の境地だった。
法を犯した相沢中佐は 法によって裁かれればよかった。
しかし 「 尊皇絶対 」 は 如何に裁かれようとするのか。
まずくすれば尊皇絶対、国民絶対の維新があきらめられて、
あとに、国民絶対、尊皇排斥の革命のみが残る憂いがある。
・・・・

末松太平  著
私の昭和史  蹶起の前後  から

今回の行動に出でたる原因如何。
宇宙の進化、日本国体の進化は、悠久の昔より永遠の将来に向つて不断に進化発展するものであります。
所謂、急激の変化と同じ漸進的改革とか称することは、人間の別妄想であります。
絶対必然の進化なのでありまして、恰も水の流れの如きものであります。
今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考へるべきものではありません。
斯くの如く分けて考へるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、
当時者たる私には説明の出来ないものであります。
相澤中佐が永田中将を刺殺して後、台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで
絶対の境地であります。
之を不思議に思ったり、刑事上の責任を知らない等と 言ふのは、凡夫の自己流の考へ方であります。
又 之を以て相澤中佐の境地に当嵌あてはめるのは間違ひであります。
今回の事件は、多少大きい事件でありますから問題にされる様でありますが、
私の気持ちでは当然の事と思って居ります。
・・・ 渋川善助の四日間 

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『 絶対の
地 』
伊勢の大神が相澤の身体を一時かりて、天誅を下し給うたので俺の責任ではない。
俺は一日も早く台湾に赴任しなければならない。
皇軍全体を救うためには、永田一人ぐらいは物の数ではない。
法律は国民全体の利益を計るためにできている。
それを害する者を制裁する、
私が決行に到達するまでには、熟慮に熟慮を重ね、
絶対の境地に立って決行したものである。
絶対の境地、即ち神示である。
俺の行動は明治大帝の御遺訓に添い奉り 皇軍軍旗の振作にあるのだ。
永田を倒さねば天皇の軍隊は一体どうなる
正義に基く行動は法律に超越するのだ。
・・・東京憲兵隊麹町分隊での取調

『 確信による行動 』
私の心の中の覚悟としましては、
すべて確信による行動であるから、事の成ると成らざるとを問わず、

行動をおわれば、そのまま任地台湾に赴く考えでありました。
永田閣下を刺したその場で割腹するなどの責任云々による行動でもなければ、
昭和維新の捨石として名を残すというような考えも全然なかったのであります。
しからば、なぜ、永田閣下を殺したかと申せば、
軍にとって重要なる軍務局長としての仕事を永田局長が十分につくしていない
その故、軍は危機に臨んでいると信じたのであります。
・・・軍法会議予審

『 大悟徹底の境地 』
被告は国法の大切なことは知ってゐるが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか
「 そうであります 大悟徹底の境地に達したのであります 」
決行後台湾に赴任しようと思ったのは、まだ、国法を考えなかったのか
「 何度も聞かれるが、はっきり説明します。
わたしは憲兵隊で二三時間話をすれば憲兵司令官には、
私の精神がわかってもらえて、
お前は謹んで台湾に赴任しておれ、追って処分を沙汰するといわれるものと思いました。
これは幕僚あたりが自分の精神を理解し、ざんげしていたならば、そうなるものと思っていたのに、
この期待が外れたので認識不足であったというのです」

被告はそうなると思っていたのか
「 いい条件の場合はそうであると思っていました 」
悪い場合は
「 憲兵隊で殺されると思っていました 」
その認識不足は憲兵隊でしったか
「 憲兵曹長の取調で知りました 」
・・・公判に於いての杉原法務官の問に
・・・大谷敬二郎著 「昭和憲兵史」から

『 神様に依る天誅 』
森健太郎分隊長立会いのもとに小坂慶助曹長が訊問にあたる

只今から、今朝陸軍省の軍務局長室に於いて、
永田少将を殺害した、殺人事件に関し、現行犯として訊問を行います、尋問中敬称は用いません
「永田の如き者を、俺は殺しはせん」
殺さんと云うが、その手の傷と、この軍刀の血潮、局長室に残した貴官の軍帽が、何よりの証拠ではないか
「 伊勢神宮の神示に依って、天誅が降ったのだ。俺の知った事ではない 」
例え伊勢神宮の神示であっても、直接手を下したのは貴官です。それを聞いているのです
「 伊勢の大神が、相澤の身体を一時借りて、天誅を下し給うたので、俺の責任ではない。
俺は一日も早く台湾に赴任しなければならない 」
事情の判っきりしない内は、此処から帰す事は出来ません。
人を殺せば法律と云うものがあります、その責任は取って貰わなければなりません
「 曹長は、法律と云うが、
その法律を勝手に造る人達が、御上の袖に隠れ、
法律を超越した行為があった場合、一体誰が之を罰っするのだ。
神様に依る天誅以外に道がないではないか 」
・・・小坂曹長、戦後の回顧
・・・実録 相澤事件 鬼頭春樹 著から


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