あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』

2018年04月06日 19時15分19秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨
昭和十一年二月二十五日
 
内外多事、皇軍の團結最も鞏固なるを要し、吾人は殆んど他を顧るの遑いとまなき秋に方り、
予が證人として當法廷に立たざるべからざるに至りしことは、
皇軍として最も悲むべき現象にして痛嘆に堪へざる処なり。

抑抑よくよく相澤中佐事件を審理し、
其眞相を把握し、以て適正なる判斷を下す爲には啻ただに若干の證人を訊問し、
證拠物件を蒐集にしたるのみを以て足れりとするにあらず。
須らく近年における一般思潮、特に將校思想の變遷を究め
政治運動者の取りつつありし手段、官僚財閥の情態各種團體の成立性質動向等を明察し、
新聞雑誌の論調怪文書の種類 并ならびに孤等の出所、系統等を深く檢討すること肝要なり。

凡そ社會の裏面に在りて暗躍策動する者は惡智特に發達し、
直ちに押収せらるゝ如き有形的證拠を殘すものにあらず。
故に或る事件の捜査に當りては、
社會情勢を精密に観察し、哲學的、政治的、心理的、論理的に仔細しさいに研究し、
所謂形なきを見、聲なきを聞くの眼識なかるべからず。
彼の聖賢の敎の如く 十目の処 十指の指す所は嚴なるものなり。
予は判士諸公が既に十分の研究を積まれ、万遺漏なきことは確信する所なれども、
事件の重大性に鑑み、從來 予 自身が研究し來りし著想の要綱を示し、
特に留意を乞ひし次第なり。

相澤中佐の公判廷に於て陳述したる処によれば、
同中佐行爲の主たる動機は、
一、陸軍の人事が、元老、重臣、財閥、官僚等外部の力の作用を受け、
 左右せらるゝに至りしは、皇軍を私兵化するものなり。
二、故永田中將は陰謀策動の中心なり。
三、陸軍大臣が敎育總監の同意を得ずして、單獨に其更迭を奏請したるは軍令違反なり。
と 確信したるものにあるものの如し。

第一、陸軍異動に関し外部よりの作用ありしや否や。
人事異動に関しては、従来異動前に迫らば、各種の風説を生ずるを常とせしも多くは想像に過ぎざりき。
然るに昭和九年頃よりの新聞、雑誌、怪文書等の宣伝は、組織化し 且つ悪性を帯び、
其風説は結果と符号するもの多く、不思議なる現象を呈するに至れり。
予も昭和十年の初頭以来、相当の人物より予個人の身上に関し、種々の風説を耳にせり。
故に此等の文書 及 風説を組織的に真面目に研究せし者にありては、
決して雲烟過眼視うんえんかがんしし難きものありしを覚りしならん。
而して予は人事其他の問題に関し、林大臣と会談に際し、
其片言隻句の内より大臣が外界の影響を受けあることを屢屢感得せり。
故に相澤中佐も自ら研究の結果、或は斯る感を抱くに至りしならん。

第二、永田中将は果して陰謀策動の中心たりしや否や。
永田中将は、有為の将校たりしことは何人も認めし所にして、
予は今更死屍に鞭つが如き挙に出るを欲せず。
随て予が以下述ぶることは中将の生前に既に論ぜし所の一部に過ぎず。
予は士官学校事件前に中将を教育総監部に招き、思想問題其他将校の団結等に就て懇談を遂げたることあり。
当時中将も善く理解し、漸次予等の希望に接近する情勢に至るならんと答へて辞去せり。
故に予は中将自身が自発的に各策動の中心たりしや否やに就いては疑問を有し、
予は寧ろ後に尚伏在するものあらざるやを恐れ、中将に同情を有するものなり。
然れども元来中将の抱懐せし思想は、相澤中佐の思想と相容れざるものありしは疑を入れず。
加ふるに彼の士官学校事件当時、軍務局の某将校にして教育総監部の某将校に対し、
今回教育総監部は見事に永田局長の決戦防禦の網に陥れり、
局長は実に作戦計画巧妙なりと賞讃したる者ありて、
本事件 及 其関係者の処分は痛く相澤中佐の心裡を刺戟したるものの如し。
又 或者は警視庁を動かし、予等に監視を附せんとしたる事実あり。
或者は彼の五十万元事件の資料を予の名を騙りて提供したる等のことよりして、
相澤中佐が永田中将を斯る策動の中心人物
若しくは其附近の人物と思惟せしは蓋し故なきにあらずと云ふべし。
故に相澤中佐の動機を究明する為には  士官学校事件 を徹底的に調査すること必要なり。

第三、林大臣に軍令協定事項違反の事実ありしや否や。
本問題は頗る重大なるものにして予は予の干写したる場合に限り、
林大臣は少なくも軍令 ( 省部規定 ) の精神を軽視したるものと確信しあり。
左に之を説明せんとす。
従来人事の協議に際しては、先づ事前に相当の余裕を以て
重要人事に関しては、大臣、教育総監会合して意見を交換し、
其他の場合に於ては必要に応じて会合し
或は人事局長をして各官の意見を相互に通報伝達せしめ、
大体意見の一致を見たる上、参謀総長殿下の台臨を仰ぎ 正式の三長官会議を開くか、
或は軽易なる場合には大臣 教育総監 花押の後、殿下の御花押を仰ぐを常とせり。

然るに 昭和十年九月の人事に関する協議に際して従来の慣例一変せり。
七月十日、予は大臣の招きに応じ第一次の会見をなす。
此時大臣は紙片に鉛筆にて認めたるものを以て重大人事の一部 ( 予自身のことを含む ) に就いて説明せり。
予が異動に就て一端を知るに至りしは、本日を以て初めとす。
予は大臣の説明を聞き事の重大なるに驚けり。
予 及 予の友人に関する人事に就ては、昭和九年末頃より特に著しく各種言論に現はれ、
怪文書も横行し、今日に至る迄 絶ゆることなし。
此間予は相当の人物 或は大臣級の者より感知せしこと数へ難きも、
其主なるものを挙ぐれば教育総監更迭 又は転役の計画あること、
南大将満洲へ出発に際し真崎の整理を殿下 及 大臣に進言せしこと
及び 其提出せられたりと称する十七ヶ条の要求、
或は宇垣、南、林とは完全に聯絡しありて真崎を最も敵視しあること、
真崎にたいする圧迫は政府の高等政策の一たること、
南、鈴木、稲垣、永田 等は久しきに亙る画策により 真崎を罷むることに決定せること、
斎藤子爵は総理辞職に於て、其在職中海軍の方は整理したるも、陸軍には手を着くるを得ざりしも、
此は後継者の任なりと語られしこと等なり。

以上の外、
十一月事件当時、教育総監が指導者なりし如き宣伝
并に 其後本件の処理、青年将校の免官等のことを綜合して、
何等か組織的に陰謀行はれつつあるにあらずやと、
予は常に大なる疑問の眼を以て注視しありし際、
此日突然大臣の説明を聞き、予の疑問の真なることを直感せり。

人事は一面軍の方針を現はすものなり。
此意義に於て予は常に事象を注視しありしが、
昭和九年八月以降の諸種の状況を見るに、
彼の在満機構改革問題、陸軍パンフレット問題、五十万元事件、請願運動、
中華民国大使昇格問題 等 一として憂慮に堪へざるものなし。
故に予は此の機会に於て此等の諸件に関し、予の意見を開陳し、十分に尽す丈けを尽し、
熟議を遂げ、要すれば自ら自己の進退を決せんと欲し、
大臣に告げて云く
「 予は今日迄如何に悪宣伝をせらるるとも、軍の内部を暴露するを恐れ、隠忍自重し来り。
然れども今や軍の重大危機に直面せり。
斯くなりては、最早抽象論にては徹底せず。
今回は証拠物件を以て具体的に論じ、十分に研究協議すべし。
之が為には材料蒐集に相当に時間を要す。
之を終らば予自ら殿下に拝謁を願出て十分に進言すべし。」
と。
斯くて 此日(七月十日) の会合を終る。

十一日午前十時 参謀本部より電話あり。云く、
総長殿下は、予の参殿を御待ちありと。
予は前日の行きがかりより 何人か予の知らざる間に斯る処置を為せしやと驚き
且つ 怒り取調べしめしに、
大臣より予の参殿のことを言上せしことを知れり。
( 予は拝謁を終りたる後、之を大臣に詰問せしに曖昧にして要領を得ず )
予は斯く急速に参殿出来難きこと明なりしに拘らず、
不都合なる悪辣なる仕打ちとは考へしも、苟も殿下の御待ちとの御事に恐懼して参殿せり。
而して 殿下には予が即答し得る大要のみを言上し、
具体的に言上する為には書類未だ整はざるを以て一、二日の余裕を乞ひ奉りて退出す。
当時、殿下は総監の意見は諒解せりと仰せられたり。

同日 ( 十一日 ) 午後零時半陸軍省より電話あり。
本日午後二時より然らざれば明十二日午後一時より三長官会議を開くと。
予は殿下に対し奉りて言上未だ尽しあらざるに本日とは其余りにも乱暴にして無礼なるに憤慨し、
本日は絶対に不可能なることを主張し ( 事実不可能なりき ) 、
明日も困難なることを電話にて交渉せしめしも要を得ず。
よりて予は明十二日早朝自ら大臣と会見して決定することにせり。
本件に関し、事務当事者の交渉中にも頗る不可思議と不都合、
恥づべき場面現はれしも細部に亙るを以て之を略す。

七月十二日午前九時、
予は大臣に会見し、本日午後直に三長官会議を開くことの無理無礼なる所以を力説す。
大臣、総監の意見一致を見たる上にて殿下の台臨を仰がざれば殿下の御徳を傷くるに至るべし、
今日之を開くとも予は事実答ふる能はずと答ふる外なし。
斯くては益々恐懼に堪へず。
従来の経験によるも、決して一、二日延されざるにあらず。
此重大時機に重大問題を、何故に急ぐやと迫りしも、
元来計画的、抜打的、圧迫的に来りあるものなれば、
只小時の延期のみの協議さへ纏らざりき。
当時予は久しく屢々耳にしありしこと、即ち
「 教育総監がぐずぐず言ふならば、
之を殿下の御前に引出し、殿下の一喝を喰はしむれば直に屈服すべし。」
と思ひ合せて、皇軍の前途を思ひ、暗涙に咽びたり。
斯くて予の努力も空しく、遂に午後二時より会議は開かるることになりたり。
予は神仏に祈りを捧げ、堅き決意を以て会議に臨めり。
然れども予は既に述べた如く、此日正確に責任を以て答へ得る材料を欠きし為、
高級人事には意見を述ぶることなくして終れり。

七月十四日午後一時四十分、予は特に大臣に会見せり。
是れ 予は大臣の此の如き態度にては殿下の御徳を傷くるに至らんことを深く憂慮し、
心安からざりし為、大臣に意見を開陳し、最後の赤誠を吐露せんと欲してなり。
八月一日に異動を発表せんと欲せば、予は一身上の決定をなさずともなし得ることなり。
予に関する件は重大なる故、其影響する所も考慮せざるべからず。
互に研究熟議を遂ぐべく、強いて明日の会議に於て之を即決するの必要なきにあらずやと。
大臣曰く
「 如何なる結果を生ずるとも止むを得ざる所なり。又 斯の如きは部下に対しても不可能なり 」
と。
予は唖然として言ふ所を知らずして辞去せり。
以上の事実により、
大臣には予の身上に就て、予と協議するの精神は毫も無かりしものと判断するものなり。
因に記す。
予に異動表の全般を示されしは、十五日の正式会議の席に於てなされしを初めとす。

次に総監の同意なくして、
単独上奏を為したるは違法なりや否やに就て、予の意見を陳べんとす。

此れが為には予は、先づ教育総監の地位に就て論ぜざるべからず。
一、教育総監は、天皇直隷にして、教育大権輔翼の最高地位にあり。
二、其人事上に於ける地位は、陸軍大臣 及 参謀総長との協議に参与する権能を附与せられあり。
三、右権能は、陛下が教育大権 ( 即ち統帥大権の一分派 ) 輔翼者として附与せられたるなり。
四、教育総監の地位は、総監以外よりの示唆はありとするも、
 結局 大御心を拝する総監自身の所決によるの外、動かすべきものにあらず。
 之を紊るときは軍部の建制を動揺せしむべし。
五、陸軍大臣は、三長官の協議纏らざれば人事の決定を為し得ざる所に統帥権の確定存するなり。
六、三長官の意見合致せざるに、強いて之を決行するは、是れ協議を無にするものなり。
 陸軍には、従来根本原則として軍゜う会議の外、多数決の会議あるを知らず。
七、然るに之を一方意志にて決定せられ、総監の要求する人事と相容れざる結果
 総監をも除かんとするは、建軍の大義に反する所為にして、将来大なる禍根を胎すべきものなり。
八、陸軍大臣、参謀総長、教育総監 何れも一方意志のみにより強行的に人事が決定せられざる所に、
 皇軍の本義存し、統帥大権 ( 即ち教育大権 ) の確立 全きを得るなり。
九、聖慮を安んずるの道は、三長官の円満協議纏る範囲に於て人事が行はるべきものなり。
以上の理由により、
総監の同意なく大臣単独に上奏することは、
予は軍令違反なりとの見解を有する者なり。

二 ・ニ六事件秘録 (一) から
リンク→ 「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 



陛下ハ、
林陸相ハ
真崎大将ガ総監ノ位置ニ在リテハ統制ガ困難ナルコト、

昨年十一月士官学校事件モ真崎一派ノ策謀ナリ。
ト話セリ。
自分トシテモ、
真崎ガ参謀次長時代、
熱河作戦、熱河ヨリ北支ヘノ進出等、

自分ノ意図ニ反シテ行動セシメタル場合、
一旦責任上辞表ヲ奉呈スルナラバ、
気持宜シキモ 其儘ニテハ如何ナモノカト思ヘリ。

又 内大臣ニ国防自主権ニ関スル意見ヲ認メテ送リシガ如キ、甚ダ非常識ニ想ハル。
武官長ハ左様ニ思ハヌカ。
自分ノ聞ク多クノモノハ、皆 真崎、荒木等ヲ非難ス。
過来対支意見ノ強固ナリシコトモ、
真崎、荒木等ノ意見ニ林陸相等ガ押サレアル結果トシテ想像セラル。
旁々今回ノ総監更迭ニ関スル陸相ノ人事奏上ノ如キモ、余儀ナキ結果カト認メタリ
ト 仰セラレタリ。・・本庄日記

・・・昭和十年七月十六日 「 真崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なる 」 
昭和十年七月二十日 「 教育総監更迭 ・・ 在職中御苦労であった 」 


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