西田税
挫折した昭和維新
こうして
北、西田とも十数年来の革命運動の終焉を悟る。
革命運動の挫折に対して二人は別々の反応を示しているのは、二人の年齢と世界観の違いであろう。
北は獄中でもっぱら読経三昧であった。
しかも、島野三郎の追想によれば、
この獄中でも、ふと頭に浮かんだ哲学上の疑問は看守を通じて々獄中の島野に質問した。
「 ぼくが、二・二六事件で出獄するまで続いていました 」
と、島野が語っているから、昭和十一年九月二十五日の釈放まで続いたことになる。
北はほとんど獄中で遺書らしいものは残していない。
刑死の前日、一子大輝に法華経一巻を残し、末尾に 「 子に与ふ 」 として数百言の短文を書し
「 父は汝に何物を残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり 」
と、しるしている。
西田は、北のように淡然とも超然ともしなかった。
迷いや後悔はなかったが 後図を慮るところがあった。
「 西田さんがえらいと思うのは、ぼくに伝言をよこして 『 出ることを考えろ 』 と言うのです。普通なら心中意識でしょう 」
と、末松太平は思い出話を語って
「 こういう心理状態というのは、すばらしい心理状態ですな 」
と 言っているが、
西田の考えは末松ら有為の青年将校によって己が志を継がしめたい肚であったと思われる。
しかし、末松ら同志将校が出獄した時は、もう日華事変は抜きさしならぬ膠こう着状態に陥っている時であった。
北も西田も、この大陸での戦火の拡大を恐れていた。
とりわけ北は支那の民衆の底力を知っているだけに、自ら日支紛争の渦中に飛びこもうとした程である。
この思いは西田も同じだ。
二人ともこれからの日本が、きわめて危険な道に進むだろうと予見する。
結局この予見のとおりになった。
「 国家ハ玆ここ十年許リノ間ニ急変スルヨ。 モット早イカモ知レナイ。 四、五年ノ中カモ知レナイ。
必ズ大体改造方案ノ如ウニナルカラ其ノ意向デ・・・・」
刑死の前日、
最後の面会に行った門下生の馬場園義馬たちに 北一輝はこう告げている。
この予言は的中した。
八年後、大日本帝国は崩壊し連合国に七年間占領された。
その指令どおりに日本国が再生したのだから、急変どころの騒ぎではない。
もしこの時、良識ある偉大な政治家が居て 万難を排して占領軍を説得し、
北一輝の改造方案の筋書き通りに事を運んだら、今日の日本は全く違った国家に成長していたであろう。
「 東久邇内閣の国務大臣になった小畑敏四郎中将は、大岸頼好を座右においていろいろ知恵を借りていた。
大岸さんのポケットにはいつも改造方案が入っていた 」
と、明石寛二が証言しているところを見ると、
敗戦後の日本再生には、いくらかは改造方案が役立ったかも知れない。
耕地を独占していた大地主は消滅し、華族制は廃止され、皇室財産は国有となり 皇室費は国庫から支出されるようになった。
しかし、北が最も重要視していた経済の三原則は、ついに実現しなかった。
西田税も、
「 軍閥が支那で戦争をはじめたようだが、やがて墓穴を掘るようになるだろう 」
と、面会に来た肉親たちに語っている。 (村田茂子)
その予見のとおり、敗戦によって帝国陸海軍は消滅してしまった。
死児の歳よわいを数える愚かさではあるが、今日の日本の情けない国状を見るにつけても、
かつての日、熾烈しれつな思いを国家、国民の上に寄せていた多くの人々を失うことになった、
歴史の因果に痛恨の思いは消えない。
戦後の日本は、なぜ改造されねばならなかったか、に ついては今まで折にふれて述べてきた。
これに対する西田税をはじめ多くの青年将校たちの言動もみてきた。
敗戦後になって、
彼らの観察が正しかったことを、一度青年将校の銃弾によって斃たおされた鈴木貫太郎 自らが証言している。
「 従来の日本の政治家は、政治についてはそれが如何に日本の前途を大きく左右し、
真に民族発展のために重要な政策であろうとも、これを陛下の御裁断に俟つということは行わなかった。
御前会議とか、御裁可を仰ぐということは一種の手続に過ぎず、
元首としての天皇の御意向は、具体的には国策に反映せず、
さりとて、最近に至る迄の政府の諸政策は、議会に於いて国民の代表たる議員の意思表示をも反映してはいなかった。
議会に対しても一種の手続としてこれを認めていたに過ぎない。
しかるが故に要するに、官僚軍閥による専断政治を実行していたと言える。
真に日本国の国体を思い、国民の幸福を思っての政治ではなく、一部政治家の意志に依る政治であった。
勿論政治輔翼の真に任ずる政治家が、正しい良心と道義と国家観を以て行えば、理想的な政治も出来たであろうが、
今次太平洋戦争の勃発の如き、国家元首の意志を無視し、
国民全般の自由なる意志の表明を無視した無謀な戦争を起したというのは
畢竟ひつきょう幕府的政治を意味するものと断ずる以外にはかんがえようがない。
憲法に依れば 『 天皇は国の元首にして統治権を総攬し・・・・』 とあるが、
事実は 『 天皇は神聖にして侵すべからず 』 という条項に依って、
天皇の無責任論を規定し、天皇を政治の圏外に置こうとしていると考えられるのである。
であるから陛下の御立場というものは従来から国家の運命とはかかわりなく、
単なる政治上の手続として御裁可を仰ぐと言うようなことになって居った 」 ( 鈴木貫太郎述『 終戦の表情 』 )
これは、天皇に戦争責任をが及ぶのを恐れた鈴木が慎重な語り口で、
天皇政治の内状を告発したものであるが、おそらく、昭和時代の立憲政治の実態であろう。
鈴木が昭和四年から十一年まで、彼が六十二歳の時から六十九歳まで、
足かけ八年間侍従長として側近に奉仕したから、その時の見聞を述べたものであろう。
瀕死の重傷から蘇生した鈴木は、九年後の昭和二十年、七十八歳の高齢で内閣総理大臣となり、
首尾よく戦争終結に導いたことはよく知られている。
戦前の日本は、よく天皇制国家とよばれているが、それはあくまで形式の上の話で、
実態は天皇の名を借りた官僚的専制国家であったことがよくわかる。
西田たちが打破しようとしたのは、こうした官僚体制であった。
青年将校たちは、それを維新運動とよび、昭和維新と名づけているが 西田は革新とか革命の語を使っている。
しかし、内容は同じである。
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 の冒頭に
「 天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に
天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く 」
とある。
これが革命の第一歩であるが、天皇に改革の意志がなければ不可能である。
北一輝はその註三において、
「 日本の改造に於ては必ず国民の集団と元首との合体による権力発動たらざるべからず 」
として、天皇と国民の合体によるクーデターの決行を考えている。
ここでは大規模な国民運動が前提になってくる。
西田はこれが可能と考えたのだろうか。
西田は公判廷で
「 国家の改造は非合法手段に依り実現せらるべきものにあらず。
明治維新に於ても非合法のみにて実行せられたるにあらず、『 日本改造方案大綱 』 に特筆大書しある如く、
国家の改造は天皇大権の発動に依り実現せられ、国民は翼賛し奉るにあり 」
と、述べ
「 自分は 『 日本改造方案大綱 』 に基き国家改造運動に一生涯を捧ぐるものなるが、
絶対に非合法手段を採用せず、合法的に国民運動により天皇大権を補佐し奉るの外他意なし 」
と、強調している。
半分はホンネであるかも知れない。
というのはこの頃、同志のうち菅波、大蔵、末松など不参加の将校たちの公判中であった。
自分の運動が非合法をもくろんでいないことを強調することによって、彼らを援護しようと考えたのではあるまいか。
・
いったい西田は合法的な手段で、革命が成功すると信じていたのだろうか。
合法的な革命のプランとはどんな内容のものなのか、西田は大蔵にも磯部にも語っていないし、書き残してもいない。
海軍の青年将校や神兵隊の壮士から、革命の扇動家として生命をねらわれたように、
西田は口説だけの似非えせ革命家であったのか。
今日になっては、その黒白を明かにする術はないが、いくらかは片言隻語の形で、西田の合法革命の片鱗を知ることができる。
「 西田さんは無血革命を考えていた。
軍刀をガチャつかせただけで無血革命ができるともらしたことがある 」
と、大蔵は語っている。
しかし、血の気の多い若い将校に話したって、嘲笑されかねない空気だったから、
慎重派の大蔵以外には誰にも言っていない。
また、別の折に
「 天皇陛下が維新の大詔さえ渙発されるならば、あまり血を流さないで、昭和維新は実現できる 」
とも、言っている。
しかし、西田は大蔵に天皇陛下に建白書を奉ったことは、一言も言っていない。
噂さが八方にひろがり秩父宮に迷惑がかかるのを恐れたからであろう。
西田が維新の大詔による、昭和維新を考えていたことはたしかで、
関係した人々の証言によれば、
西田の描いた昭和維新は次のようなプランであったという。
・・
まず時機を選ぶ、
革命は一度しかやれない。
『 慎重に時機の至るのを待つのだ 』 と、よく言っていたが、
国政が行き詰り 経済は極度に不安となり、しかも、国際的に孤立している。
人心が動揺して流言蜚語が乱れ飛び、一種のパニック状態に陥る。
「 大地震裂して、地涌菩薩 」 の現れるのはまさにこの時である。
かねて気脈を通じていた秩父宮を奉じて起つ。
軍隊を動員して宮城を護衛し、戒厳令を布いて一時的に軍が主導権を握る。
起つと同時に、秩父宮が参内して、天皇に維新の大詔渙発を奏請する。
あとは北の改造方案の筋書に従って、新国家の建設にとりかかる。
「 恐らく西田さんはこうしたプランをもっていたのであろう。
しかし、要は天皇の御意志如何の問題だ。
天皇が大詔に署名を拒否されたら、どうにもならない。
北さんも西田さんも 今の天皇は誠実なお方だが、凡庸の資であられる。
とても英雄的な大決断をなさるようなお人柄ではないことを見透していた。
これが明治天皇のようなお方なら別だ。
明治天皇は貧乏の味を知っておられ、
しかも、血腥い白刃の下をくぐりぬけた豪傑連に教育を受けておられる。
今の天皇は違う。
東宮として特殊な教育を受けられ、下積みの苦労の体験をなされていない。
同じ御兄弟でありながら、
秩父宮が、貧しい下層階級に関心をもたれたのは庶民とともに苦労されたからだ。
秩父宮が天皇の立場におられたら、西田さんの案もあるいは実現できたかも知れない 」
と、菅波三郎は語っている。
「 まあ、死んだ連中には気の毒だが、二・二六事件の連中の戦術は甘かったと思う。
第一動員兵数が少ない。 それに人を多く殺しすぎた。 これが敗因の第一だ 」
と いう。
この菅波の説に従えば、次のような構想になる。
動員兵数は六千、二個聯隊が出動する。
さっと皇居の門を占拠して内外の出入を断つ。
もちろん電話線も切る。
別に将校数人によって一人か二人、最も重要の地位にいる人物を斬る。
総理大臣は必ず斃す。
余りに多くの人を殺ると何も知らない国民から反感をもたれるおそれがある。
皇居を占拠したら、
かねて気脈を通じている重臣数人と首謀将校数人が、天皇に謁して維新の大詔を奏請する。
もし、天皇が逡巡なさるようなことがあったら 脅迫してでも大詔を渙発させる。
天皇が国家改造に反対なら御退位をねがって秩父宮に御即位を願う。
要は 近衛聯隊が出動するまでの間に維新の大詔さへ渙発すれば、もう革命は成ったも同然である。
「 戦前は何といつても、タテマエは宮廷政治である。
宮廷を抑えて維新の大詔さえ渙発されれば、あとは自然に道が開ける。
高位高官といっても根は肚はらのない連中ばかりだから、大詔の前にはそれこそ詔承必謹易々として從う。
あとの有象無象はそれこそ風になびく草木も同然、こうして昭和維新は大した血を流さずに成就するであろう。
革命の見通しがたち、国家の大方針が定まったのを見届けたら、主謀者数人は事件の責任をとり皇居前で割腹してお詫びするのだ 」
と、明快な解説が続く。
あとは、北一輝の改造方案のプランに従って事を運ぶという。
この中でも最も大切なのは経済三原則である。
私有財産と、私有地と、私人産業にはそれぞれ限度を設けて大きくなりすぎないようにする。
資本主義でも社会主義でもなく、その中間をゆく画期的な経済政策である。
・・
この計画が当時どの程度まで西田税やその同志たちのなかで暖められてきたか定かではないが、
二・二六事件が中止されて、この計画が実施されていたら、おそらく成功していたであろう。
支那革命の体験をもつ北一輝は、革命をもって終局の目標としていなかった。
革命は当然権力闘争がつきまとい、流血の惨事をくり返すことは歴史的に明らかである。
これで一番被害をうけるのは民衆である。
民衆の禍害を除くためには、まず民衆の自覚と思想の確立が先決であると、北一輝は考えたよあである。
これはいつ頃かは、はっきりしないが、
北邸を訪れた島野三郎に北はこんな述懐をしたというのである。
話の前後から推測すると昭和九年から十年頃のことてあろう。
「 自分が初めて東京へ来た当時は、ずいぶんいろいろな法律、歴史、経済の本を読んだものだ。
ところが当時の日本の学者は、政治制度なるものに万能薬的な力があるということを信仰しておった。
これは明治以来法律、法律で国を固めてきたせいだろう。
しかし最近自分は、政治制度の万能薬的な力の信仰は迷信に過ぎぬ。
西洋かぶれの迷信に過ぎぬ、と考えるようになった。
君主政治とか、民主政治とか、共産政治とか、政治制度にはいろいろあるが、
その中の一つを絶対視することは、西洋かぶれの偶像崇拝である。
東洋には西洋の知らない新しいやり方がある。
それは何かといったら修身斉家治国平天下の思想の宣伝である。
外面的な政治制度よりも、個人個人の精神の革命こそ、政治制度に比して はるかに実効あるものであると思うようになった 」
これは島野三郎という哲学者の媒体を透して語られた北語録である。
北の話を要約して述べられたものであろうが、ここには魔王といわれた北一輝の凄みがない。
まるで安居楽業している老教授の言葉である。
これが五十四年の修業の果てに到達した北の心境かも知れない。
刑死の前日、北が父のように親密にしていた黒沢次郎が、最後の面会に行った時
「 イロイロ刑務所ナカデ考ヘタノデスガ、ドウシテモ此ノ世ノ中ハ最期ハ宗教デナケレバ治オサマリマセンヨ 」
と、北が言っている。
島野のへの談話といい、黒沢への語りかけといい、革命の行者北一輝が最後に到達した境地が何であったかを物語っている。
北と実の親子以上に心の通いあっていた西田は血気旺んな壮年だ。
北のように革命論を宗教に昇華さすほど淡白ではない。
中途の挫折は悔やんでも悔やみきれないものがあったと思われる。
「 自分はもっと大きな、もっと正しいことを考えていたのだけれども 」
と、最後の面会に来た妻の初子に語っているほどだ。
「 人間にはいくら知恵をしぼってみても、それ以上は運賦、天賦というものがある 」
と、西田は安藤に語っているくらいだ。
天運の窮まるところと西田は諦観したであろう。
獄中ではもうじたばたしなかった。
「 牢屋の中では浪人が一番しっかりしている。
軍人というのは二足わらじでしょう。 うまくいけば出世するけれども、浪人は出世のしようがない。
だからというわけではないが、西田さんなんかも堂々たるものですよ。
北さんなんかも堂々たる獄中態度です 」
と、同じ獄中にいた末松太平は語っている。
これは西田が生れながらの非凡な資質があったからではない。
三十七年の彼の人生行路に見られるように、感受性の強い むしろ 神経質にちかい性格である。
ずのうは秀れていたが 天才でも英雄でもない。
言うなれば 才能と実行力のある平凡人というべきであろう。
その彼が、思いもかけない悲運な挫折に会い、
最初は多少は悔恨や焦燥感にさいなまれたであろうが、次第に歩一歩と安心立命の境地に到達した。
それは自己の一切を集中して努力に努力を重ねて登りつめ、最後は死生一如の妙境に到達したと見るべきであろう。
革命児西田税としてでなく、
法華の行者西田税として昇天したであろうことは顕本法華宗の木村日法権大僧正の証言でも明らかである。
昭和十二年七月七日 日華事変の勃発から、昭和二十年八月十五日の敗戦まで、
日本人にとっては息つく暇もない九年間で、
戦火に追われるあわただしい歳月であった。
敗戦後、七年間連合国に占領され、
その占領政策は虚脱した多くの国民によって忠実に実施され、
マツカーサーの占領政策は予想外に成功した。
それと共に日本人のゆかしい道徳的伝統や祖国愛の精神は、ふり捨てられてしまった。
独立をかち得て後、
その余りにも重大な損失に気づき改めようと志した者も少しはいたが、
多くの国民は全くの太平の逸民と化してしまった。
自分の権利だけは強く主張するが、国家社会がいかに不利益をうけようと問題にしない。
国家がいかに外国から不当に干渉され、侮辱され、領土を強奪されても、
敢て対岸の火災視してかえりみない、
亡国の民、という声もある。
国民所得はいくら自由世界の第二位となり経済大国と自負してみても、
国民に国家の独立を保ち、外圧に屈服せぬ気概がなければ、国はやがて亡びる。
いかに国際協調時代に入ったといっても、
己が祖国を誇りと使命感をもたない国民は、やがて軽蔑されるだろう。
・
わずか四十数年前、
己が一命をなげうち、肉親の恩愛をふり切って、
国家、国民を救おうとした青年将校たちの、その清冽な心情だけは、
こうした意味で、これからの日本を築く若い人々に伝えたい。
彼らの思想的な先逹であった北一輝、先輩格の西田税は、
彼らほど単純でも純粋でもなかったかも知れないが、
国家、国民を思う心情では、いささかの遜色もない。
若くして日本の改造に志をたて、
中途で挫折した西田税の生涯は革命家としては悲運であったが、
激動の時代を徒手空拳で乗りきろうとした、
充実した男の生涯としては悔いのない一生であった。
須山幸雄著 西田税 二・二六への軌跡 から