芭蕉という修羅(連載中・嵐山光三郎)

2013-10-16 00:00:51 | 書評
basho新潮社の書評誌(波)に連載中の『芭蕉という修羅』が、俄然、面白くなった。連載6回目で、芭蕉の事実婚の妻が養子と駆け落ちするというシェークスピア的展開となる。そして順風だった水道事業を投げうち、深川に引っ越し、俳風人生を突き進むことになる。

ただ、実は芭蕉は、当時、それほどメジャーじゃなかった。駆け出しの文学青年。当時の大御所は大坂在住の井原西鶴。版元をスポンサーとして万句興行なる公開作句会を開いていた。朝から晩まで次々に句を詠む。実際、西鶴も実業の世界にいて、ある程度おカネを貯めてからスポンサーを捕まえてWIN=WIN関係を築いたわけだ。村上春樹と新潮社の関係みたいだ。

それで、芭蕉は二歳上の西鶴が大嫌いだったのだが、マイナー文学者としては出版社の言うことを聞かないといけない。現代の評価では西鶴よりも芭蕉が上であるのだろうが、それは芭蕉の感性が「人類の普遍性」に近いからなのだろうが、なかなか同時代人には評価されにくいポイントだ。シェークスピア、モーツアルト位の大巨匠にしても、当時はライバルがいたことになっている。鳩山某だって、「ねじの締まってないボンボン」としか評価できないが、200年先にはすばらしい評価を得ているかもしれない(日本は存在しないかもしれないが)。

そして、コツコツと商業主義的実績を積み重ねながら、メジャーデビューの日を待っていたわけだ。(あらかじめ、言っておくと、彼が一流と認められたのは、「ふるいけやかわずとびこむみずのおと」なのだが、有名過ぎる一句に到達するまでが苦悩の一生だったのだろう。

下積み時代の恐い句。

夜ルひそかに虫は月下の栗を穿ツ(うがつ)


月光の夜、虫がひそかに栗の実を食べ、小さな穴をあけていく。ホラーとしか言えない。

芭蕉は自らを虫にたとえたのだろうか。あるいは栗の方にたとえたのか。

本人はコツコツと努力を重ねる自分を虫の方に喩えたのだろうが、実際には虫ではなく、栗の方だったようだ。芭蕉本人が知る由もない虫がその後、現れるわけだ。


この連載が、いつまで続くのかわからないが、連載が始まった頃には、それほど興味がなかった。もともと芭蕉の名句の数々は、その作品の評価を純粋に楽しめばいいので、芭蕉の人生に深入りしてもしょうがないじゃないか、と思っていたからだ。実際、そういう単に文学史的解説を読んだことは何度もあって、つまらないと思っていたのだが、嵐山光三郎氏の筆は、文学史を超越している。芭蕉の内面に突き進んでいる(もっとも、正しいとは限らないが)。

しかし、残念なことに、連載1回目から6回目までは、既に紙資源化してしまっているので、連載終了後、加筆され、発行されるであろう単行本を買うことになるのだろうが、本の後半を最初に読んで、そのあとで前半を読むということになるわけだ。

冠婚葬祭って

2013-10-15 00:00:53 | 市民A
雇われ社長業をはじめて数ヶ月になるのだが、冠婚葬祭って困ったものだ。

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「冠」はまずないのだが、知人に叙勲された人がいた。自分が叙勲される場合は、タキシードを買わなくちゃいけないのだろうが、公務員じゃないので叙勲の可能性はゼロに近い。

「婚」は多い。中小企業社長では業種にかかわらず、大変だろう。祝金だけの場合、式場に出向く場合、そして、頼まれ仲人の場合。自分が主役の場合はないだろう。モーニングを購入か。

「葬」も多い。社用で葬儀に出向く場合、相手の顔すら知らない場合もある。横浜と倉敷と住居拠点がわかれているため、二着が必要なので、手配。

「祭」はレアケースだ。そういえば社長就任パーティを開いていないことに気が付く。

(なお、写真は、本文とは、何の関係もありません)

続南ヴェトナム戦争従軍記(岡村昭彦著)

2013-10-14 00:00:26 | 書評
今月4日に老衰で亡くなったボー・グエン・ザップ将軍の国葬が12日と13日の二日間、ヴェトナムで行われた。享年は、満102歳。各種報道によれば、フランス軍と戦ったインドシナ戦争、米軍と戦ったヴェトナム戦争を指揮し、フランスのナポレオンと呼ばれたというように紹介されている。記憶の整理のため、最近入手した岩波新書の一冊である「続南ヴェトナム戦争従軍記(岡村昭彦著)」を読む。「続」の付かない方が有名で、その後、再び南ヴェトナムに潜入し、いわゆるヴェトコンの幹部であるファット副議長との単独会見を行った著者の手により、1966年に出版されている。ファット副議長との会見は、1965年とされている。

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で、この辺でヴェトナム戦争の流れとリンクさせてみると、1965年というのは、大きな節目の年で、米軍の指導を受けた南ヴェトナム軍とヴェトコンの戦いが行われていて、「政府軍」と「解放戦線軍」とが、オセロゲームのように村単位で陣地の奪い合いをしていた。いつものように苦しむのが市民で、この市民が結局解放戦線を支持するようになってきていたわけだ。

で、この年、米軍と北ヴェトナム軍の戦闘が本格化を始めたわけだ。

1965年の著者の取材では、北ヴェトナムは直接南ヴェトナムを支援しているわけではないとヴェトコン幹部は話している。実際はどちらだったのかは不明だが、その直後には北ヴェトナム各地に対する爆撃が始まる。日本を屈伏させたのと同じだ。そして原爆投下が検討されるが、実現しなかった。


戦闘終結は、それから10年後。1975年4月30日である。つまり本書が発表されたから10年は必要だったのだ。

著者の経歴はwikipedia等で調べていただければ、と思うが、好きか嫌いか意見が分かれるのだろうか。

寺山修司展『ノック』

2013-10-13 00:00:49 | 美術館・博物館・工芸品
青山キラー通りにある唯一の美術館、ワタリウム美術館で開催中の寺山修司展『ノック』へ。「ノック」とは、1975年寺山修司が38歳の時に敢行(決行?)した、市街劇のタイトルである。『30時間市街劇 ノック』は劇の始まりから終わりまで19段階のステージがあり、ごく平和な阿佐ヶ谷(杉並区の街)に虚構劇を持ち込もうとしたわけだ。

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それらの各ステージは時間を変え、場所を変え、次々に俳優が登場し、日常の中に非現実を展開することにより、粛々と進行していったのだが、見知らぬ人のドアをたたく第18ステージあたりでトラブル発生(もっと早い段階でもトラブルがあったらしいが)。ついに警官が登場(ニセ警官じゃない)するということで、予想外の展開になっていく。

本展覧会では、寺山の原点である高校卒業までの青森での天才ぶりから始まる。短歌の前に俳句をたしなんでいたというのは初めて知る。私個人としては、彼の多才な才能の中でも短歌は群を抜いていると思うが、かなしいかな短歌で世界を相手にするのは困難だ。

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そういう意味で、数多くの名歌を詠んだ彼が、韻文、小説、戯曲、映画の方向に向かったのもわかるような気がする。書を捨てて街へ出よう、といって全国に大量の家出少年少女を生み出したのはお笑いだが、彼自身、自分を覆う何らかの見えない透明バリアを突き破ろうとして、あがきもがいていたのかもしれない。

もっとも、短歌というのは、何かを突き破るものではなく、少しいじいじして創るもののようだし、彼が目指した前衛劇は、それほど前衛的ではなく、市街劇『ノック』で問うべきだったのは、「日常」と「非日常」の対比というのはともかくとして、「観客」と「演技者」の関係ではなかったのだろうかと思う。

もっとも、それも時代の制約があったともいえるわけで、現代では一部の人は俳優でもないのに、各種ITツールやSNSのソフトによって、いつも自分の行動を世間にさらしながら生きていたりするわけだ。市民の生活が「秘密」の中で行われた時代と、市民が「秘密を持てない時代」あるいは「自ら秘密を開示してしまう」時代では、日常と非日常、観客と演技者という対立関係が、ボーダーレスになっているようだ。

ところで、本展はワタリウム美術館と青森県三沢市にある寺山修司記念館の共催となっているのだが、青森の記念館が開館してほんのわずかな時期に、むつ小川原の荒野を記念館を目指して車で飛ばしたことがあった。所用があって、確か5時閉館、4時30分入館締切のところを1分遅刻して4時31分に到着したのだが、受付で色々と粘ったものの、ついに入館を果たすことはできず、スゴスゴと三沢空港に向かうしかなかった。

それ以来、私の中で寺山修司と言えば、「一分遅刻をするだけで、人生、痛い目をみることがある」という教訓を与えてくれた人物ということになったのだ。

将棋文化検定、不受験の弁

2013-10-12 00:00:02 | 市民A
第二回目となる将棋文化検定。申し込みの締切りが近付くと、何度も申込み用紙が送られてくる。昨年も不受験なので、ことしも不受験を決め込んでいたのだが、執拗に送られてくるので、心の中に20%ほど“受験してみようかな”という気持ちが芽生えてきた。申込み期限は9月22日だった。

で、Aコースを受験すると4000円。受験日前後の動静を調べると広島県福山会場にギリギリ行けることがわかる。

そして、すぐに申し込まないのが、おおた流で、905円+消費税の「将棋文化検定試験問題集」(A・Bコース)を取り寄せる。試験に応募してから過去問を読むのが普通か、過去問を解いてから受験するかどうか決めるのか、どちらが正しいとも言えないが、大学受験の時は、過去問を解いてから“勉強しないで入れるレベル”を探すという不精をしてしまった。その頃も忙しかったから。

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で、わかったことは、Aクラスを受験すると、その点数によって、1級、2級、不合格の三択となるそうだ。去年は1級問題がなかったはずなので、2級の人が今年も受けるとどうなるのだろう。1級、不合格、2級取消の三択になるのだろうか。釈然としない。

で、試験範囲が発表されていて、今年の特徴は、「羽生善治関連」と「米長邦雄関連」が含まれること。羽生関連情報を予習するのは、エポックが多過ぎて的を絞りこめないだろう。「奥方と別居した真の理由は何か」とかDEEPに調べなければならない。米長関連情報の予習では、あまりの個人情報のダーティさに気分が滅入ってしまう可能性もある。

そして、模擬試験集と昨年の過去問(2級と4級)を新幹線の中で解き始めるのだが、ずいぶんと些細なことを問う場合もあるようだ。

4級の過去問を解くと、88点。合格ラインが70点ということで、これは楽勝。一方、2級問題の方は70点。合格ラインが75点なので、不合格だが、それくらいなら1日予習すればなんとかなるのだろうが、これでは1級に合格することは難しそうだということが理解できる。

ということで、テキスト代だけを、年末調整の時の経費扱いすることになった。


さて、9月28日出題作の解答。



▲1六銀 △2八玉 ▲2七金 △1九玉 ▲3七角 △2八角(途中図1) ▲同角 △1八玉 ▲1七金 △2八玉 ▲2七金 △1八玉 ▲1九歩(途中図2) △同玉 ▲7三角 △1八玉 ▲2八角成まで17手詰。

途中図1で前に進む駒を打つと、▲同角 以降詰み。合い駒せずに△1八玉では、▲2八金以下1歩あまり。

途中図2で、計画成功となる。

動く将棋盤はこちら


今週の出題。小技が必要だが、読みは深く。

 緊急速報:余詰発見(される)。微修正!

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手数のヒントだが、その数字の年に、初めて同級生にタバコを強要する。以来、彼は愛煙高校生として停学処分を受ける。数年前に会った時に、「おおたのせいでタバコをやめられなくなった。責任取れ」とうそぶいていた。彼がタバコの吸いすぎでなんらかのフェイタルな病気にかかったとして、それが社会的にみてプラスかマイナスか判定が付かないので、責任取る必要はないだろう。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ正誤判断。

名古屋ふらんす

2013-10-11 00:00:26 | あじ
名古屋の食べ物というのは、基本的に「名古屋限定感」がある。味噌煮込みうどん、手羽先、ういろう、きしめん、みそカツ、あんかけスパゲティ、シロノワール(コメダ珈琲店)、えびふりゃ~、小倉トースト、・・

大部分は名古屋限定だ。(なぜだか?)

その「限定席」に新た加わろうとしたのが、この商品。

名古屋ふらんす

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ずいぶん適当なネーミングだ。大使館の了解を得たのだろうか。

英語で、 LIMITED NAGOYA FRANCE と書かれている。意味不明だ。

「おもち」と「ガトー」のミックス銘菓とも書かれている。ガトーとはケーキの意味だから、餅菓子か?煎餅?しかし、絵は小倉トースト系の感じだ。

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で、実際の食感で感心したのが、全体の味のバランス。マーガリンが混ざっているのが、小倉なのか餅なのか、あるいは両方ともなのだかよくわからないのだが、三種の味が融合しているわけだ。本来は混ざりそうもないものを混ぜて、違う特性を生み出すというのは日本のお家芸の合金技術。ノーベル賞クラスの先進技術が使われているのかもしれない。できればもっと人類の幸せのために使ってほしいものだ。

フライトシミュレーターではセーフ??

2013-10-10 00:00:30 | 市民A
B787のトラブルが続いている。国内2社の9月下旬からのB787のトラブルは、こういうものだ。

9月20日 ANA 北京→成田 バッテリー電圧低下表示。成田でバッテリー交換
9月23日 ANA 熊本→羽田 操縦室の表示に一部不具合発生で欠航
9月25日 ANA シアトル→成田 オイル漏れ。6時間半遅延
9月28日 JAL デリー→成田 燃料ポンプ故障。1時間7分遅延
10月2日 ANA 北京→成田 機体システムの機材トラブルで欠航
10月5日 ANA サンノゼ→成田 機体制御システムトラブルで3時間半遅延

その他にも、ノルウェー・エア・シャトル社は1週間に3回もトラブルに見舞われて、ボーイング社に何らかのインネンをつけるらしい。


ということで、羽田-岡山を空路で移動する時は、B787ではなく777(ANA)か767(JAL)を利用していた。高松空港緊急着陸までは、むしろB787を選んで搭乗していた。「嗚呼!涙メシ」という機内でのみ見られる20分程度のビデオがあって、それが楽しみだった。有名人にとって、人生の思い出に残る食事を紹介。


先週、岡山空港から東京へ向かう時も、B787を回避し、B777を選び、1時間前に出発ロビー待合室に行くと、・・


fls


見慣れぬ機械があって、人が集まっていた。どれどれ・・

フライト・シミュレータ(Flight Simulator)。

パイロットの訓練装置の名前だが、ある意味、ゲーム機とも言える。主に小学生が100円玉を投入して飛行訓練をしていて、隙をみて自分でも遊びたそうなスーツ姿の大人が、その周りにいる。さらにその外側から観察を続ける私。

どうも結構難しそうだ。というか、簡単過ぎて飛行の限界を試しているのかもしれないが、しょっちゅう砂漠に落っこちている。町のはずれの飛行場の手前に砂漠があるというのは、日本じゃないよね。行先は、羽田か新千歳か仁川のようだが。

で、もっとも驚いたのは画面上の飛行機は砂漠に落ちると、何回かバウンドして、また空に戻っていくわけだ。

不死身の飛行機のわけだ。最近の航空技術の進歩に感心してしまう(プロの操縦士の練習用も不死身飛行機なのだろうか?)。


ということで、眺めているうちに搭乗時刻がきたのだが、2つのガッカリが待っていた。

ガッカリ1.使用機材変更となりB777からB787となる。

ガッカリ2.搭乗した機体にはビデオ装置が付いてなかった。以前乗っていたのは海外仕様と推測。

唯一、不死身飛行機であることを祈った。

将軍が目醒めた時(筒井康隆著)

2013-10-09 00:00:08 | 書評
全10編の短編が収録されていて、単行本は昭和47年に刊行され、その後、昭和51年に角川文庫となっている。かなり以前に絶版となったのだろうが、この短編集の中の9番目になる『空飛ぶ表具屋』を読むために、AMAZONで探し出す。

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まず『空飛ぶ表具屋』だが、少しずつ調べている世界最初(あるいは2番目)に空を飛んだ(かもしれない)岡山の「浮田幸吉」をモデルにしている。「鳥人幸吉」とも言われる。

幸吉についての記録(実録)は、多いようで少なく、また痒いところに手が届かぬようなあいまいさがあり、その中で、この小説は最後のところを除いてかなり歴史に忠実なような気がする。他の9編は、歴史的事実を1、2割取り込んで後は荒唐無稽なストーリーに仕上げているのだが、結構、作家筒井康隆は、本作では資料調査の段階で彼が空を飛んだことについて確たる心証を得たのではないだろうか。ただ、本質的に飛行機という不可解な移動手段に反感を持っているようなところから、「空を人間が飛ぶ」ことを好意的には思ってないような書き方にも感じる。

幸吉についての本格的な考察は、まだ終えていないので、あくまでも本短編によれば、幸吉は3回、フライトにチャレンジしている。1回目は自宅の二階から(江戸時代、二階建てを許されるのは一部の身分の者だったはずだが)。2回目は岡山市の旭川の橋からジャンプした時。そして岡山を追われて晩年に駿河で飛んだとされている。1回目は×。2回目と3回目は○だが、空を飛んだ後、墜落して死んだことにされている。作家が飛行機嫌いだからだ。実際には幸せな老後を送ったという説もある。

本当に空を飛んだかどうか、今のところわからないが、鳥のように空を飛ぼうと思っていた(鳥の解剖なんかしたはずだ)とすると難しいかもしれない。空に浮かぶには向かい風が必要だが、遠くへ移動するには追い風が必要で、要するに異なる要素を満たすため鳥の技術は精巧を極め、はっきりいって現代でも鳥ロボットは存在しない。


短編集のタイトルになった『将軍が目醒めた時』だが、明治の終わりに若年性の躁鬱病にかかった男が、病院の中で自ら「将軍」を称し、日本の帝国主義化を煽るような発言を繰り返すことによりマスコミにもてはやされていたものが、戦後、老人になってから正常な精神を取り戻したのだが、そうなると病院がマスコミから得ていた取材料がなくなるため、院長に頼まれニセ患者を演じ続ける話。全編に差別用語「き○○い」他が濫用されているため、この短編集が現代によみがえることは不可能なのだろうと思うしかない。

松尾芭蕉の夢の跡

2013-10-08 00:00:52 | 歴史
不思議なことがよく起こるのだが、新潮社の書評誌『波』9月号を読みながら、目的地の「三越前駅」に向かっていた。その中に嵐山光三郎氏の「芭蕉という修羅」という連載があり6回目である。

芭蕉は、俳人であると同時に水道工事屋でもあった。徳川家の盟友となった藤堂家の威光により、伊勢出身の芭蕉の水道工事受注額は年々増加していた。元々、江戸の町割りは藤堂高虎の設計だし、江戸城の管理についても高虎の出身地である近江の業者が明治維新の時まで続けて実施していた。

江戸の水道事業というのは実は江戸前期が盛んであり、あまり科学的じゃない話が伝わっているのだが、上水を遠くから引く話と、それを消費地で使う話ばかりではなく、その中間点に江戸上水のカギがある。川や上水で江戸の入口までつないだ水を、いったんせき止めるわけだ。いわば、簡易ダム。目白の椿山荘のあたりで、水を集めて水位を高くするわけだ。それが下流への水圧になって江戸の町にくまなく流れていくことになる。水位調整のため、余った水は江戸川に放流していた。

芭蕉がやっていたのは、その下流部門の工事業者である。ようするに利用者を集めて資金を回収して、そのエリアに水を配る。まあ、想像するに、口達者だったのだろうか。結構稼いだはずだ。年の功、34から37の頃だ。さらにすでに「桃青」と名乗り、俳諧の世界では頭角を現してした。

そして、すべてが順調な時こそ、悪魔が興味を持ち出してくるわけだが、天才芭蕉にしてもまだそのサインは感じていなかった。

水道事業の多忙のため、事業の将来の後継者として故郷の伊賀上野から姉の子を養子として貰うことができた。桃印である。16歳。一方、芭蕉には内縁の妻がいた。妾奉公の寿貞である。この妾奉公というのは要するに現代でいうと「愛人契約」ということだが、実際には妻と同様の扱いを受けていたようだ(もっとも詳しくはわからないが)。一説では同郷の出身との説もあるが不明である。

そして、芭蕉の子が生まれる。次郎兵衛。

そして、芭蕉にとっての幸せの頂点が一気に崩れることになる。愛人以上妻以下だった寿貞と義理の息子である桃印が子どもを連れて家を出て行ってしまう。妻を養子に寝取られてトンズラされたわけだ。


芭蕉、寿貞、桃印、次郎兵衛の共同生活は4年で終わり、芭蕉は水道工事の現場に近い日本橋小田原町の家を出、これより俳句の世界に突き進んでいく。

そして、それから17年経ち、桃印は一人で芭蕉の元に戻ってくる。すでに結核に冒され33歳の享年であった。さらに同年、芭蕉は奥の細道の旅に出る。翌年、芭蕉は人生最後の旅の途中、京都落柿舎で寿貞の死を知る。芭蕉の行程と行き違うように江戸の芭蕉庵に入っていたわけだ。人生最後の行き違いであった。

そして、同年、芭蕉没。すべてが、一気に突風にあおられたかの如くである。

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芭蕉が人生で唯一家族生活を行い、その家の中の暗闇に徐々に不吉な兆しが膨らんでいった場所。それが日本橋小田原町なのだが、今の三越の近くの佃煮店がその場所にあたるそうで、記念碑があるらしい。スマホを駆使しながら、わかりにくい場所にある句碑を発見する。

ここに出現した人生の暗闇がなければ、芭蕉はただの水道業者で終わったのだろう。ただの不運ともいえる妻と義理の息子の逃避行があればこそ、わびやさび、そして命がけの俳句旅行があったのだろうと確信する。

なお近くには蕪村の家の跡もあるので、次に三越周辺を訪れるときまでには、今度こそ予習をしておくつもりだ。

ある防疫作戦(福見秀雄著)

2013-10-07 00:00:13 | 書評
boueki岩波新書の1965年の出版。コレラの話だ。

コレラには二つの種類があって、普通のコレラは、アジア・コレラと呼ばれ、元々インドベンガル地域の風土病だったものが、19世紀になって世界に何波もの流行をおこし、その致死率の高さから恐慌を起こしている。コッホ博士によってコレラ菌の存在が解明され、その後感染の仕組みがわかり、人類とコレラとの闘いが続いている。

もう一つがエルトールコレラ。インドネシアやフィリピンといった地域でいつの間に流行が始まる。ちょうど、この本が登場する少し前から勢いがましてきて、今もこちらは時々流行するようだが、致死率が少し下がっている。

以前は、国から国への人の移動はめったにあるものではなく、それは船旅だったため、仮に患者が発生しても入港前に情報があるため、隔離措置が可能だったのだが、この頃から飛行機による移動が一般的になって、防疫体制が困難となってきた。もちろん現代でも同じことである。

そういう転換点の問題に対する考察と並列して、コレラ流行史についての記載が詳細である。今では書くわけにはいかないだろうが、患者の名前まで記載されていて、日本帰国後立ち寄った飲食店なんか書かれている。

日本にコレラが流行した最初は1822年。オランダ領ジャバの流行が長崎から潜入。二回目が1858年。この年には長崎から江戸まで患者が拡がり、一説では8月に江戸でコレラで亡くなったもの10万人といわれているが異論もある。1862年に終息したようだ。時は幕末の大混乱の時期である。

そして明治になり、明治10年(1877年)。今度は横浜と長崎と同時発生。おりからの南西戦争により兵士の移動にコレラ菌が同行してしまい、全国に拡散。そのコレラ菌が二冬を越冬し、明治12年に大流行。10万人が亡くなる。その後、数年おきに大流行が続いたそうだ。最後の大流行は1946年。こんどは復員コレラと言われている。

ところで、亡くなった母からこどもの頃に聞いた話だが、だいぶ先代の親戚の一人がコレラで亡くなったそうだ。食べ物に当たったと思っていたら1日で不帰の人となったらしい。もっとも、それがどういう関係の親戚かも覚えていないし、感染した場所も覚えていない。

本を読んだ結果、結構ありふれた病気だったようだ。そんな病気にうっかり感染すると、5割以上の人が亡くなってしまう。人生は不条理であり、無常だ。

「卯花墻」と桃山の名陶(三井記念美術館)

2013-10-06 00:00:39 | 美術館・博物館・工芸品
日本橋の三井記念美術館で開催中(~11/24)の、「卯花墻」と桃山の名陶展に行った。

卯花墻は、「うのはながき」と読む。デザインが卯の花の垣根のように見えることから命名されたようだ。そして、この茶碗こそ、国内で焼かれた茶碗の二つしかない国宝の一つなのである。もう一つは長野県の美術館にあるのだが、それは誰が作った茶碗かはっきりしているのだが、こちらは焼かれた陶窯しかわかっていない。ある意味、価値はこちらの方が高いということすら可能だ。

ただ、下世話な話、三井記念館=三井家が入手する前の所有者ははっきりしていて、その名家が手放した(あるいは借金のカタかもしれないが)という事実が、記録として残るわけだ(鍋島家の現在みたいな話だが)。

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で、見てのとおり、「卯花墻」は、志野である。本展では、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部と瀬戸周辺地方の陶器を集めたものである。それほど離れていない各地で、かなり意匠の異なる陶器が製造されるというのも、なかなか面白いものだが、桃山時代にはすでに陶器が実用の品から離れて、鑑賞や趣味(茶道)といった道具になっていたのだろうと思われるわけだ。生活用品としての機能を追求していくという欧州での家具や食器の歴史が日本ではまったく見られないというのは、やはり、日本独特の考え方なのかもしれない。簡素より多様。ガラパゴス・・

で、問題の国宝だが、思っていたものより、やや大きい。国宝にたどり着く前に、同じ志野の名物茶碗をいくつか見ることになるのだが、それらはもっと縦の長さが短い(器的にいうと、浅い)もので、それなりに、「これが欲しいなあ・・・」とか思わせるものなのだが、「卯花墻」は深さも十分にあるわけだ。たくさんお茶を飲めるわけだ。スタバのサイズでいうとヴェンティ。

この高さが増した分、茶碗のゆがみや上辺の縁の波とか多くの表現を、盛り込むことができたのだろうと推測する。まあ、悪く言えば、ゆがんだバケツ状なのだが、それが製作過程で自然になったのか、作者の技によるものか、判然としないところが、なおいい。

ところで、出品目録を眺めると、三井記念美術館だけではなく大阪にある湯木美術館からも多数集まっているようだ。京阪神方面のお宝ウォッチも行きたいなあ。(現実は備前焼祭りにも行けそうもないし、瀬戸内国際芸術祭にも行けそうにないし、おかやま国際音楽祭にも行けそうもない。とほほだ。)

104回職団戦出場。裏街道走る。

2013-10-05 00:00:39 | しょうぎ
本番5日前に練習をしたからには、ということで9月29日の職団戦に出場する。5人一組の団体戦。同時対局で、3勝で勝ち上がりのトーナメント。ただし1回戦敗退の場合のみ「慰安戦」という裏街道であるが、いくら勝っても表通りには戻れない。座る席も対局時間もいたって裏っぽい。もちろんいくら勝っても表彰状もないし記録も残らない。記念品もらってご苦労様。ただ、記念品もらうには裏で3連勝以上しないといけないし、そうなると次回は上のクラスへ昇級する。こんな感じだ。×○○○。

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で、結果は、×○○○○。実際には第二回戦は不戦勝のラッキーを得ることになり、全チームの中で最初に昼食の豪華弁当を食べることができた。

個人的には、最終戦以外は、全部即詰勝ち。最終戦も15手詰みのコースに入っているのに読みと違う手を指すという三流プレーをしてしまい負けた。3勝1敗。詰将棋作っていると、「詰めろ」も複雑なものを掛けてしまうので、相手が詰めろと気が付かず、即詰率が高いのだろうと思っている。感想戦で敗者から、「有利なのにトン死を食らった」と怒られることが多く、実際はそうではないのだが、「すみませんね」とか適当に流してしまう。


さて、9月21日出題作の解答。

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▲2八金 △同玉 ▲1七金 △同玉 ▲3五角 △2六桂 ▲1四飛まで7手詰。

実は、この問題はLPSA発行の「日めくり詰将棋カレンダー」9月16日の問題。専用のツイッターには6名様からのコメントがあるが、賛否両論というか否の方が強い感じだが、次の通り。

否定コメント
・1四桂は惑わすだけの不要駒。
・エサの桂に食いつくと失敗。紛れの有無はともかく、桂はなくてもよさそうではある。
微妙コメント
・少ない駒数でまとまっている。この移動合に下味を付けて質を高めたのが・・・・。
・詰将棋だと桂馬が動くけれど、普通は合駒をするよね。
肯定コメント
・玉を1七に呼んで3五角(敵陣から打つと4四に合駒される)の形は見えたのですが、そこに行くまでに一苦労。ある格言の逆を行ってしまうわけですね。
・何気に角限定打+移動合を3手で表現している。

結局、作者は「受方の移動合」をテーマにしたわけで、普通の詰将棋は「攻方の手」を中心に組立てるところから、爬虫類を見るような違和感を感じてしまうのだろう。

さらにこだわりがあるのが、配置の位置。すべての駒を一つずつ下に移動(1九とは消滅)すると、駒数も一枚少なくなるし、同様手順で詰むように見えるのだが、作者の狙いの手が、本題では△2六桂なのだが、一段下がると、△2七桂となり、成りでも不成でも非限定になってしまう。メインの手が非限定では様にならないので、一段上げたわけだ。


今週の問題。

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飛車が成って龍になった後、若干の非限定が生じる。最終手も非限定ありだが、大目にみてほしい。

わかったと思われ方は、コメント欄に最終手と総手数と酷評を記していただければ正誤判断。

謎の深い「深川めし」

2013-10-04 00:00:31 | あじ
東京駅は商業施設が次々にオープンして、特に駅弁を選ぶ楽しみは、旅立つ人の最初の楽しみになっている。

が、旅ではなく単に「あちこち移動」する人にとっては、昼食時、夕食時を新幹線内で過ごすしかないためのエネルギー補給という意味しかなかったりする。

そして、ちょうどそういう後者のシチュエーションにあたったのだが、残念ながら人だかりの中に列を作って人気弁当を買う時間がなかった場合、・・

旧来型の駅弁ステーションで、定番メニューを買うしかないことになる。それで、新幹線改札の中に入り、かねてより気になっていた「深川めし」を購入。値段は3ケタ。消費税が15%になると1000円を超えるだろうか。江戸深川の名物である。

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で、あさり入りの炊き込みごはんに、さらにアサリをトッピングし、アナゴの焼物とハゼの甘露煮がのっかる。付け合せが小茄子の余市漬と大根のべったら漬、刻み油揚げの煮物。

予想していた味より、旨い。アサリが小ぶりだが、それが柔らかさの原因かもしれない。アナゴは固く仕上げられていて、車中で箸の間で砕けることはないだろう。

そして問題というか深い謎は、ここから先。「二つの深川めし」の件。

このエントリ書くに際し、少し調べてみると、東京駅の駅弁として売られている「深川めし」には二種類あることがわかった。

私が食べたのは、新幹線改札内にあるもので、JRCP社のもの。JR東海パッセンジャーズという会社でJR東海の子会社で、日本食堂から分離した会社である。もう一つの深川めしはNRE、日本レストランエンタプライズ社のもので、弁当の内容が僅かに異なるようだ。

つまり、二つの「深川めし」。

そして、さらに謎があるのが、この「深川めし」の形状。簡単にいうと「アサリ炊き込みご飯」であるのだが、本当の深川めしは、まったく違うもの、という説がある。ようするに白いご飯をどんぶりに入れて、あさり汁をかけたもの、ということらしい。つまり漁師めし。

つまり、二つの「深川めし」。

ただ、汁物では駅弁になりにくい。液体ものだと、せいぜいカレー程度の粘度は必要だろうか。ネットで調べると、この流体化した深川めしを食べに行く人の苦労が書かれていて、まず、「深川ってどこだ」から始まるわけだ。実際に深川という名の地下鉄駅はないし、何しろそういう公式住所はない。しかし、深川小学校はあるし深川中学校もあるし、深川神社もある。情が深いと言われた深川芸者はどこにいたのか。そういえば松尾芭蕉は深川にも住んでいた。東京には吉原や山谷のように有名だが存在しない町がいくつもあるようで、その一つだ。どうも、前は門前仲町周辺を深川と言っていたようだが、各種地下鉄が開通したため、清澄白河駅周辺の方が深川色が濃いようだ。

つまり、二つの「深川」。

以前、東京都現代美術館に行った時に、ずいぶん「深川めし」の看板があるなあと思っていたのだが、どうも美術館の周辺が、本場らしい。その時に暖簾をくぐっていればよかったのだ。

そして、二つの「深川めし」の探求をした人たちが驚くことが決まっていて、今や汁物の深川めしは「深川丼」と改名しているらしい。つまり「炊き込みご飯」が「深川めし」の商品名を奪ってしまったようなのだ。

そして、じっくり深く考えてみると、この「汁物深川めし」と「炊込深川めし」の商品名争いの決着を付けたのが、駅弁に採用されたかされなかったか、ということではなかったのだろうか。

冒頭に書いたように、今や東京駅では鉄道系二社に限らず、新たなショップがさまざまな弁当を販売しているわけだ。第三の「深川めし」があるような気もするし、なければ、「汁物の深川めし」を新発売して、商品名の奪還をはかることもできそうである。そうなると、現在の炊込み深川めしはどうなるかというと、「深川弁当」とかなるのだろうと推測。

奇怪な花、パッションフルーツ

2013-10-03 00:00:27 | 市民A
パッションフルーツの花が咲いた。どうみてもアマゾン奥地の植物のように見える。

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朝見つけたので、とりあえず急いで写したものの不鮮明。夜にはもうしぼんでいる。朝顔のように、毎朝開くかと思ったが、そういうことにはならない。目標は果実10個だが、一つしか花はない。

なんとなく、アン・ルイスの『美人薄命』を思い出すが、美人系の花じゃない。

これから花がどんどん咲くのだろうか。既に夏は終わったのに。

庭をみると、やるべき課題が無数にあることに気付くのだが、気付かないふりをする。

ひるさがり あまちゃんおわって 安全タクシー

2013-10-02 00:00:37 | 市民A
少し前に、ある会社が主催する午後1時からの会議に出席するため、10分前に行くと、会議室のドアが閉まっていて、1時までドアの前で立ち待ちすることになった(もちろん、立って待つというのは『たちまち』の語源であることからして、長い時間じゃないけど)。1時になってドアが開いて中からその会社の社員がたくさん出てくる。

要するに、会議室にあるテレビで、あまちゃん鑑賞しているわけだ。それなら会議を1時5分からにしてくれればいいのだが、そこまで気が回る人間は少ないのだろう。社員にテレビ鑑賞を禁止にしてしまうという方法もあるが、それくらいは大目に見ようということなのだろう。福利厚生設備の一環かな。保養所を廃止して、会議室にテレビを置いてお茶を濁すとか・・


そして別件。9月27日の午後1時の少し前にタクシーに乗ることがあった。個人タクシーではなくタクシー会社のクルマである。

ところが、行き先を行っても、なんだかドライバー氏は気もそぞろな感じである。

さらに、片側2車線の50キロ制限道路を景気よく走っている間、左の座席の方をずっと見ているではないか。さらに声が聞こえてくる。

そう、あまちゃん最終回の一回前の放送中だったのだ。

個人タクシーだったらナビにテレビを組み込んでしまうのだろうから(本当はいけないが、みんなやっている)。少なくてもテレビを見ながらでも、とりあえず前の方を向いて運転できるのだろうが、このドライバー氏は、ワンセグか何か外から見えないような小型テレビを持ち込んで助手席において、こっそり見ているわけだ。

もちろん、今、これを書いているのだから、「あまちゃんによる最初で最後の唯一の犠牲者」にならずにすんだわけだ。