寺山修司展『ノック』

2013-10-13 00:00:49 | 美術館・博物館・工芸品
青山キラー通りにある唯一の美術館、ワタリウム美術館で開催中の寺山修司展『ノック』へ。「ノック」とは、1975年寺山修司が38歳の時に敢行(決行?)した、市街劇のタイトルである。『30時間市街劇 ノック』は劇の始まりから終わりまで19段階のステージがあり、ごく平和な阿佐ヶ谷(杉並区の街)に虚構劇を持ち込もうとしたわけだ。

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それらの各ステージは時間を変え、場所を変え、次々に俳優が登場し、日常の中に非現実を展開することにより、粛々と進行していったのだが、見知らぬ人のドアをたたく第18ステージあたりでトラブル発生(もっと早い段階でもトラブルがあったらしいが)。ついに警官が登場(ニセ警官じゃない)するということで、予想外の展開になっていく。

本展覧会では、寺山の原点である高校卒業までの青森での天才ぶりから始まる。短歌の前に俳句をたしなんでいたというのは初めて知る。私個人としては、彼の多才な才能の中でも短歌は群を抜いていると思うが、かなしいかな短歌で世界を相手にするのは困難だ。

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そういう意味で、数多くの名歌を詠んだ彼が、韻文、小説、戯曲、映画の方向に向かったのもわかるような気がする。書を捨てて街へ出よう、といって全国に大量の家出少年少女を生み出したのはお笑いだが、彼自身、自分を覆う何らかの見えない透明バリアを突き破ろうとして、あがきもがいていたのかもしれない。

もっとも、短歌というのは、何かを突き破るものではなく、少しいじいじして創るもののようだし、彼が目指した前衛劇は、それほど前衛的ではなく、市街劇『ノック』で問うべきだったのは、「日常」と「非日常」の対比というのはともかくとして、「観客」と「演技者」の関係ではなかったのだろうかと思う。

もっとも、それも時代の制約があったともいえるわけで、現代では一部の人は俳優でもないのに、各種ITツールやSNSのソフトによって、いつも自分の行動を世間にさらしながら生きていたりするわけだ。市民の生活が「秘密」の中で行われた時代と、市民が「秘密を持てない時代」あるいは「自ら秘密を開示してしまう」時代では、日常と非日常、観客と演技者という対立関係が、ボーダーレスになっているようだ。

ところで、本展はワタリウム美術館と青森県三沢市にある寺山修司記念館の共催となっているのだが、青森の記念館が開館してほんのわずかな時期に、むつ小川原の荒野を記念館を目指して車で飛ばしたことがあった。所用があって、確か5時閉館、4時30分入館締切のところを1分遅刻して4時31分に到着したのだが、受付で色々と粘ったものの、ついに入館を果たすことはできず、スゴスゴと三沢空港に向かうしかなかった。

それ以来、私の中で寺山修司と言えば、「一分遅刻をするだけで、人生、痛い目をみることがある」という教訓を与えてくれた人物ということになったのだ。


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